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優しさから弾かれた先で、どう生きるか

人間には、生まれつき優しさが備わっている。

どんな嫌な奴でも、犯罪者であっても、誰もが優しさを秘めている。なぜならそれは、人間という脆弱な生物が存続するために不可欠なものだったからだ。

社会性動物である人間は、共同体を築くことで長い歴史の中を存続してきた。猿の毛づくろいから発展した人間の優しさが、共同体を維持するための潤滑剤として機能してきたことは間違いないだろう。

優しさを受け取り、今度は与える、このキャッチボールを繰り返すことで、人間は今日まで存続し、地球の支配者にまで上り詰めた。

主な外敵が排除され、安全が確保された現代でも、それは変わらない。社会のいたるところで、誰かが誰かと優しさのやり取りをしている。道端でふざけあう学生たちもそうだし、街中で見かける恋人関係も、恐らくは優しさの結晶なんだと思う。

創作物でも、そういった優しさの応酬は頻繁に描かれ、多くの人たちの感動と共感を誘っている。創作物において、こういう普遍的なテーマを盛り込むことは、万人受けを目指すうえでは重要なのだ。

だが、僕はそういうものを見るたびに、胸が重たくなってしまう。

優しさが煮詰まってできた、絆を強調する作品や光景を見ると、嫌な気持ちになる。優しさのキャッチボールに参加できず、輪にも入れなかった弾かれ者であるからこそ抱く感情だ。自分が得られなかった物を当然に持っている人がイキイキと動き、正義として扱われる様子を見せつけられるのが、嫌でたまらないのである。

早い話が、嫉妬と羨望だ。

なんとなくはわかっていたが、これを素直に飲み込むまでに、ずいぶんと時間がかかってしまった。

今回は決意表明も兼ねて、優しさの格差について考えを吐き出しつつ、今後の個人的な対策を考えようと思う。


受けられる優しさの格差


人は限られた優しさを誰に向けるかを、常に選別している。なんとなく助けたくなる人もいれば、冷酷に見捨てたくなる人もいる。この事実は、誰でも肌感覚でわかるだろう。なんとなく好かれる人と嫌われる人の両方を、きっと誰もが見てきている。

なんとなく好かれる人は、会う人がだいたい優しくしてくれて、抱えきれないほどの優しさを受ける。逆に、なんとなく嫌われる人は、他人からの優しさをほとんどまったく受けられない。好かれる人がいいことをしたわけでもなければ、嫌われる人が悪いことをしたわけでもない。誰もがなんとなく審判を下し、選別を行っている。

某白饅頭先生が生み出した『かわいそうランキング』という言葉が、この格差をこれ以上なく的確にあらわしている。女子供や犬猫など、かわいらしい(かわいそうな)存在に、人は優先的に優しさを与えたくなるものだ。

逆に、可愛げもなく誰からもうっすらと嫌われる男性(特に中年)に対して、優しさが向けられることはほとんどない。何らかの魅力や愛嬌があるなら、話は別だが。

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この選別は人類共通のようで、海の向こうでも上記のような画像が出回っている。綺麗な人たちからすれば妄言に見えるかもしれないが、下位者からすれば、肌感覚で理解できる図となっている。

身も蓋もない話だが、優しさや同情、共感の場において、冴えない男は犬猫以下ということだ。


与える優しさの格差


一方で、与える優しさの価値にも格差がある。

優しさを与えることで喜ばれる人もいれば、なけなしの優しさをあっけなく捨てられてしまう人もいる。

これも受けられる優しさの格差と同じで、魅力のある者とない者で明暗が分かれるところである。こちらから差し出す分、優しさを受けるよりはが低いようには思うが、基本は同じだ。

中でも、とりわけ魅力の乏しい男性は、優しさを与えることも許されない傾向にある。受け取り拒否どころか、逆に攻撃されることも珍しくない。学生時代などを振り返れば、優しさが裏目に出た男が浮かぶはずだ。あるいはあなた自身がそうだったかもしれない。

消しゴムを拾ってあげたのに邪険にされた、というエピソードがネットにはあふれているが、優しさが裏目に出た出来事の、まさしく典型例である。

魅力に乏しく、周囲からキモいという烙印を押された人間は、優しさを受け取ることはおろか、ちょっとした優しさを与えることすら許されにくい。

こういう人は、最終的に集団を去っていくことになる。そこが学校である場合は、残念ながらいじめの餌食になることが多い。

そして、そういう目に遭った人はほぼ例外なく、次に出会った集団からも弾かれる。排除される経験を重ねていくことで、自信はすり減り、希望も気力も失っていく。

自信も気力も失った男の姿は、さぞ不気味に映ることだろう。そんな人に残るのは、社会からうっすらと死刑宣告されたような、暗澹とした気分と怒りだけだ。

Twitterには安楽死を望む声があふれているが、そのうちの何割かはこのように集団から弾かれ続けて希望を失った人なんだろう。僕も、どちらかというとそういう道をたどってきた人間なので、気持ちはわかる。

優しさを受け取る力の格差


優しさには、もう一つの大事な要素として、受け取る力が存在すると思っている。要は、差し伸べられた手を掴む力だ。

『そんなもん、ただ受け取ればいいだろ』

と思う人もいるかもしれない。

だが、誰かから優しさを向けられた時、無邪気に受け取れるかどうかにも、格差は存在する。同時に、優しさの格差のもっとも深刻なポイントはここだと、僕は思っている。ここが侵されてしまうと、救済すら受けられない無限の地獄に突入してしまうのだ。

優しさを受け取る力は、簡単に言えば他人に対する信頼感だ。

他人に対する信頼感を育めなかった人は、優しさを受け取る力も育たない。だから、差し出された優しさに上手く対応できない。ぎこちない反応をしてしまったり、優しさに気づけなかったりする。追い詰められた人なら、差し伸べられた手に噛みつきもするだろう。

正常な人からすると異常な反応だが、希望をなくした弱者というのはそういうものだ。人を信頼することを学べなかったから、誰かに何かをゆだねることができない。

逃れられない差別


この格差の話は、割と出尽くした感がある。体験談やもっともな説明は腐るほどあり、格差が起こす残酷な現実が、ネット上でも幾度となく繰り返されている。

だが、これだけ事例が示され、議論が繰り返されているにもかかわらず、魅力に乏しい者が救済される気配はない。考えてみれば、それも当たり前の話だ。

貧富の差と同じで、富むものはますます富み、貧しい者は転がり落ちていくのだ。

差別やえこひいきは、人間にプリセットされた機能であり、優しさとは表裏の関係にあるからだ。優しさに限りがある以上、対象の選別は避けられないし、そこには格差が生まれる。優しさによって差が生まれ、そこには差別構造が生まれる。どんなに綺麗な看板を掲げても、人間である以上、この構造からは逃れられない。

僕も、どうにか生きていく中で、いくつもの集団と接してきた。だが、僕が長期的にいられる集団は少なかった。弾かれることがほとんどだが、中には僕自身が耐えかねて逃げ出したこともあった。みんなが差別をするように、僕も差別をしている。

結局、優しさという差別構造を変えることも、人でありながら逃げ出すことも不可能である。我慢して優しさを演じることはできても、それは賃金がもらえる仕事の場くらいだろう。自由がいきわたった社会で、誰か好き好んで忌避したい人間と握手を交わすだろうか。

助けようと思えない人のために福祉や法があると言う人もいるが、仮にそれらが整備され、最低限の救済が平等に訪れたとしても、現場で活動するのは人である。現場では、うっすらとした優しさの格差が生まれるだろうし、当事者同士で奪い合うことにもなる。

弾かれた人はどうしたらいいのか


逃れられない優しさの構造を飲み込んだうえで、すでに弾かれた人はどうしたらいいんだろうか。

もはやマクロでの解決は不可能なので、個人がどうしていくかを考え、実行していくしかないと僕は思う。

弾かれる人にも、それぞれの人生があり、弾かれるに至った経緯がある。容姿に恵まれなかったり、家庭に恵まれなかったり、友人に恵まれなかったりするんだろう。選ぶ解決策も、人によるとしか言えない。

ただ、どんな人にも共通するのは、人生の多感な時期に優しさの輪から弾かれ、他者への信頼感を失ってしまったことだ。この部分が核となり、優しさを受け取る力もなくなり、誰からも避けられる存在になってしまったんだと思っている。

ただ、僕の場合、具体的にどこがダメなのかもよくわからない。集団に馴染めないがゆえに、相談する相手もいない。相手がいたとしても、どう話していいかもわからない。幸いなのは、この文章を書くような気力が残っていたことくらいか。

匙を投げたくなる状況だが、このままではさすがにまずいし、なによりつまらない。なので、死ぬまでにできることがあるならやっていくつもりでいる。僕のようなライフステージを登れない人間にとって、人生は暇すぎるという理由もある。

僕の考えた解決策は、とにかく愛嬌を身に着けることだ。

別にかわい子ぶるということではない。表情筋トレーニングや笑顔、発声の練習をして、人並みの愛嬌を得るということである。体力や見栄えも重要なので、筋トレも必要だろうか。

表情を豊かにして、人の話に大きく反応し、ハキハキとしゃべる。これだけのことでも、ずいぶんとマシになるはずだ。心の底からそれをやる自分は想像できないが、せめて真似くらいは、背伸びすればできるだろう。

子供ですらこなしていることを、いい歳した大人が練習するのはみっともない気もするが、こうなった以上は仕方がない。寄生したてのパラサイトのようなものだと思って、淡々とやっていくつもりでいる。

このnote記事を書いたのも考えを表現する練習としてである。


ここまで読んでくれた人には感謝したい。いらない感謝かもしれないが。

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