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【ホラー短編小説】髪

自室に入り部屋の電気をつけると
髪の長い女がPCデスクに
座っていてギョッとした

ディスプレイは点いてないが
キーボードの上でなにやらもぞもぞと
一心不乱に両手を動かしている

「あなた、お帰りなさい…」

妻だった
ようやく私の気配に気付き
妻が振り返る
前髪が顔に垂れているせいで
表情はよく見えない

「何をしてたんだ、私の部屋で。電気もつけ――」

私が話している横を何も言わず
すっと妻が横切り、部屋を出ていった

問い詰めようと後を追おうとしたが
なにか良くない予感もして追うのをやめた

それよりPCだ
あいつは一体何をしていたんだ
私はデスクに近づき
電源を入れた

ハードディスクの中やメールなど
しばらく調べてみたが
何の変化も見当たらなかった
ますます不気味さが募った

ここには秘密裏に購入したアダルト動画や
不倫相手とのメールの履歴が残っている
幸い、仕事の機密情報にかこつけて
厳重なパスワードで管理しているし
妻が付け入る隙はなかったはず

だが外向きの用で帰りが遅くなる日に
妻は必ず私の部屋にいるようになった
電気もつけず、真っ暗な部屋に…

それはつまり、私が浮気相手と不倫して帰る日と
重なることになるのだが
あの天然で愚鈍な妻が
それに勘づいているとは到底思えなかった

しかし万が一
これが何らかの抗議であるのなら
この際何もかも正直にぶちまけるつもりで
ある日「そこで何をしている!」 と
語気荒く問い詰めた

だが妻はそれには一切答えようとせず
部屋を出て寝室に閉じ籠った

長年一緒に暮らしたパートナーとはいえ
さすがに薄気味悪く思えてきた
いや、長年一緒に暮らしてきたからこそ
余計に不可解で空恐ろしいのだ

ただ、この状況は別れ話のきっかけとしては
十分な理由になる、と
自分を奮い立たせ、ポジティブに思い直した

愛情はとっくの昔に失せていた
本当のところずっと別れるきっかけを
探していたのだ
そういう意味ではこれは実にラッキーではないか

早速この状況を十六歳年下の浮気相手に
スマホでLINEし、次に会う約束を取り付けた
必ず離婚をするからと約束していたことが
ついに現実的に動き出し
向こうもテンションを上げたようだった

さてバカンスを決め込もうにも
仕事はちゃんと済ませておかねばと
PCの電源を入れ
パスワードを打ち込む際
ふとその手が止まった

キーボードの感触に違和感がある
普段ならもっとしっかりとした押し応えがあり
ボタンの戻りもスムーズなはず
だがそれがない
しんなりと沈み
しんなりと戻ってくる
あのメカニカル式のキーボード特有の反発力が
まるで感じられない
一つ一つのキー軸が独立し、各スイッチに内蔵されたバネが反発することで生み出される独特の打鍵感
あの打ち心地の良さは
私を仕事した気にさせてくれる重要な要素で
だからこそ私はわざわざ店頭に赴き
入念にタイピング感を見定めてから
キーボードを購入したのだ

きっと妻が何か細工したに違いない
ベタベタするほど甘いコーヒーを
キーボードの隙間から流し込んだとか…

お気に入りのキーボードを台無しにされ
頭に血がのぼってくる
今日という今日は問い詰めてやろうと
部屋を出ていきかけて立ち止まった
何の証拠もなく頭ごなしに叱っても
妻は頑なに否定してくるかもしれない

私は仕事机に戻り
キーボードを分解してみることにした
どうせもうあの打鍵感は戻ってこないのだ

マイナスドライバーとピンセットを駆使し
キーボードと格闘しようと試みたその直前
私の動きが止まる

ボタンとボタンの隙間から飛び出した
一本の髪の毛を見つけたのだ
そういや随分掃除をサボっていたな、と
それを摘まんで引っ張り上げた

ところが
髪の毛はかなり長いようで
するりと摘まみ上げても
抜き取ることができなかった

こんなに長い髪の毛だから
無論自分のではない
とすれば妻の髪の毛に違いないが…

そう思いながら
どんどん髪の毛を巻き上げていく
だがいくら引き出しても
毛の先端にたどり着く気配がない
もう何メートルも引き出しているはずなのに
髪の毛はまだまだするすると飛び出してくる

巻き上げられた髪の毛が床を伝い流れ
しっとりと黒光りする蛇のように
巨大なとぐろを巻いていく

冷や汗のような
脂汗のような
例えようのない気持い悪い汗がどっと吹き出し
止まらなくなってくる

「くそっ! いい加減にしろ!」 

私は髪の毛を巻き上げる手を止め
ドライバーとピンセットで
キーボードのボタンを乱暴に剥がし始めた

「うわっ!」  

思わず悲鳴が漏れ、床に腰をしたたかに打ち付けた
広がったキーボードの穴から
大量の髪の毛が一気に溢れ出したのだ

一体どうやって
これほどの髪の毛をキーボードの中に
仕込んだというのだ!

よくみると
すべての髪の毛は端と端とが
長い一本になるよう固く結ばれていた

「そ、そんな…」

愕然とする私の脳裏に
電気もつけず
真っ暗な部屋で
日々
一本ずつ
自分の髪の毛を
抜いては結び
抜いては結び
それをキーボードのボタンの隙間から
まるでカテーテル手術で管を通すかのように
するすると
執念深く
一本にした髪の毛を奥深くまで挿入し続ける
妻の歪んだ背中が浮かんだ

ぞくりと背筋が寒くなる

次の瞬間
ふって沸いたのは圧倒的な怒りだった
確かに浮気しているのは私だ
どういう方法かは知らないが
あの愚鈍な妻はそれに気付き
私を脅すために
復讐するために
こんな小賢しい小細工を施したのだ
私に隠れて
ずっと

畜生めが!

私は自室を飛び出し
妻を探した
妻はリビングでテレビを見ていた

「おい! これはどういうことだ!」

反応はない

「聞いているのか! お前とは離婚だ!
もう顔を見るのもうんざりだ!
この家から出ていけ!」

長い間があり、妻が珍しく口を開いた

「……わかりました。少しだけ待ってください」

 久しぶりに聞く妻の声だった
あれだけ頑なに話し合いを拒んできた妻が
今日はいやに素直だった
それがかえって気味の悪さを感じさせた

妻はテレビのニュースが気になるようだったが
怒りにわなないていた私の耳には
まったく入って来なかった

「ニュース速報です。本日20時30分頃――」

ひとしきりそのニュースを聞いたあと
妻は黙って私の横を通り過ぎ
自室へと消えていった
スーツケースに荷物をまとめにいくのだろう

ん?
こんな時に
まさかそんなことはないと思うが
見間違いでなければ
すれ違う瞬間
妻は笑っていたような…

「ええ、繰り返します……」

しんと静まり返ったリビングに
ニュースの音声たげが響き渡る
耳障りになり、リモコンを手に取った瞬間
私はテレビ画面に釘付けになった
モニターに写し出されたマンションに
見覚えがあったのだ
間違いない、私が昨年
不倫相手のために借り上げたマンションだ

「本日20時30分頃、東京都◯◯区のマンション敷地内で二十代後半から三十代前半と思われる女性が死亡しているのを管理人が発見し、警察に通報しました。管理人は「見回り中に女性が血を流して倒れているのを見つけ通報した。女性の首には黒い髪の毛のようなものが巻き付いていた」と話しており、警察の調べによると、女性は昨年からこのマンションに住んでおり、 現場を分析した結果、自宅のベランダから飛び降り、死亡したとみて、さらに詳しい事情を調べているとのことです」

足から力が抜け、腰を落としそうになる
まさか、そんな……彼女が……なぜ?
自殺なんかするはずはない
確かに妻との離婚は想定よりずっと
先送りになってしまってはいたが
互いの気持ちは通じ合っていたはずだし
交際自体は順調だったはず
なのに、なぜ……?

瞬間、頭の奥で
妻の微笑がフラッシュバックした

…あいつだ
あいつが何かしたんだ!
そうだ、そうに決まっている!
だいたいあの髪の毛の悪戯にしても
常軌を逸している!
もう許さん…

わなわなと震えだす足を怒りに任せ
私は妻の自室へと向かった

ドアを開けると生ぬるい風が頬を撫でた
もう師走に入るというのに
じっとりと汗ばむように暑い
暖房でもかけていたのか

見ると、妻の姿はどこにもなく
ベランダに続く戸が大きく開かれ
カーテンが生暖かい風に大きく膨らんでいる

ま、まさか…!

一瞬弛緩していた意識が現実に帰り
全身の血がサーッと音を立てて
引いていくのがわかった

慌ててベランダの柵から身を乗り出すと
35階から垂直落下し
首と足とがあらぬ方向に捻じ曲がった妻の体が
はるか下界に
小さく横たわっていた

遠く
街の底を照らしきれないネオンの闇に
けたたましいサイレンが鳴り響いていた

(了)

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水もしたたる真っ白い豆腐がひどく焦った様子で煙草屋の角を曲がっていくのが見えた。醤油か猫にでも追いかけられているのだろう。今日はいい日になりそうだ。 ありがとうございます。貴方のサポートでなけなしの脳が新たな世界を紡いでくれることでしょう。恩に着ます。より刺激的な日々を貴方に。