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その感情もってない

前回は互いに理解し合えることの感動について書きました。今回はそれに続き、感情について感じたことを書いていこうと思います。

ワタクシは小学生の頃まで、感情には快・不快・恐怖くらいしかありませんでした。物心ついた頃から様々なことを考えるのが好きでしたし、とても幼い頃から納得できるものでないとやらない主義でしたので、比較的意志は固い人間でした。しかし、"感情"というべきものはそこにはあまりありません。

感情がなく恐怖をもつと書くとご心配いただく心優しい方がいらっしゃるかもしれませんが、家庭環境をはじめ、周囲にはとても恵まれているため日々ありがたいと感じています。恐怖についてもなにか良くないことをされたということは一切なく、生まれつき見るものすべてを怖がってしまうという性質をもった人間です。(自分でも不思議に思います。)

中学校で部活動に所属したことで初めて、悔しさ、申し訳なさ、幸せ、ありがたさ、などを経験したように思います。皆こんなに豊かな感情を持って生きているのか、と感動しました。

その時、今まで自分の感情は分化していなかったのであろうと思いました。(科学的根拠はないですが)

現在でも、ワタクシには未だに感じることのできない感情がたくさんあると思っています。鈍感というか、嫌っているいくつかの事象以外は何を言われたりされたりしてもなんとも思わないという感じでしょうか。

ここから考えられることは、全ての人が全ての感情を持ち併せているわけではないということです。

偉業を成し遂げた人にしか感じられない感情や辛い日々に耐えている人にしかわからない感情に出会ったとき、我々は、それらは我々の想像を絶するだろう、などと考えることがあります。しかしそれ以外の身近で普遍的に備わるとされる感情も相手は持ち併せていなかった、ということも十分に考えられると思います。

そして、今のところそれらを証明する方法はないようです。

そのため、自分にある感情が相手にもあるという確証はないのだと思います。


ここで話を終えてしまうと、相手のことなんて結局なにもわからないね、ということで終わってしまいますのでそれを避けるべく、どうしていこうかと考えます。

そうするとやはり、相手と向き合い、それにより出会った感情を拾い集め、大切にしていくことであると思いました。

ここにきてそんな当たり前のことを、と思われるかもしれませんが、これはかなり難しいことだと思います。未知の感情を手探りで探し、受け入れ、生かさなければなりません。これには相手の協力が必要不可欠です。

わかるわけないよ、ではなくわかる努力をしなければなりません。わかって欲しいならわかってもらう努力をする必要があります。

この"〜してもらう努力"についてはまたいつか詳しく記載したいと思っています。


今回はここまでです。お付き合いいただきありがとうございました。ご意見がございましたらコメント欄にお書きください。

次回はもう少し抽象的なイメージを用いて、コミュニケーションについて書こうと思います。^_^




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