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うの花サラダ

豆乳を絞った後、大量に出るおから。搾りかすとはいえ、これにもまだ栄養が残っているので、むざむざ捨てるのも勿体ない。
まずは水分を飛ばすために乾煎り。これをやらないと、すぐに悪くなってしまいます。

おからのことをうの花と呼ぶそうですが、誰か謂れを知っている人、教えて下さい。
うの、神田でもなく千代でもない、うのさんのことを妄想しながら料理した記録。


材料

おから   適量
マヨネーズ おからに準ずる
白菜    1/8
人参    1/3
ブロッコリー適当
昆布    10センチ四方
胡椒    適量
干し海老  好きなだけ
塩     小匙1

我ながら適当なレシピ。余り物を処理する料理でもあるので、こんなもんで大丈夫。

幕末、馬関と呼ばれていた下関の花街に、この糸という名前の芸者。この名前は紫という漢字を分解した雅な源氏名。
本名をうのと言った、この芸者、おっとりしていて従順な女性だったとか。それを気に入り、身請けしたのが高杉晋作。
以前、高杉晋作の人生を振り返りました。↓

この時、高杉晋作の人生において重要な要素を書いていませんでした。それは女。今回の妄想は晋作と女にまつわる話。


白菜ざく切り、人参は短冊に切り、茹でる。

高杉晋作の妻は雅。晋作が彼方此方を飛び回っている間も、萩にてしっかりと家を守っていた、正に良妻賢母。こういう女性がいたからこそ、世の中を引っ繰り返すような大仕事が出来たのでしょう。男の勝手な論理かもしれませんが。
そんな晋作が下関にて出会ったのが、うの。
晋作と出会うまで、何をしていたのか、どういう家庭に生まれ育ったのか、うのは自身の出自を語らなかったので不明。
それどころか、本当に芸者だったのか?遊女だったのではないかと言う作家の先生もおられます。
私は職業で人を差別しないので、別にどちらでも構わないのですが。
晋作は下関に居る間はほぼ、うのと一緒にいたとか。従順でおっとしていたそうなので、癒されていた?

おからとマヨネーズを混ぜ合わせる。粉っぽくならないようにマヨ多めに。

もう一人、晋作の人生に大きく関わった女、野村望東尼。
名前の通り、尼さんです。
元治元年(1864)幕府に恭順派である俗論党に追われて、長州を脱出した晋作は福岡に逃亡。そこで晋作を匿ったのが、望東尼。
勤王の志ある女傑で、自身の住居、平尾山荘を勤王派志士達の密会場所として提供することもあり、晋作の身柄を10日間余り、匿いました。
この頃、すでに60歳位だったので、男女の関係だったのかは?詮索するのは野暮ですね。


茹で野菜の水気を絞り、昆布と共に加えて混ぜる。

高杉晋作は労咳、つまり結核に罹患していました。そのため下関で療養。その際にはうのと望東尼が看病。うのは望東尼を母のように慕い、指示通りに看病。
いよいよ病状が悪化すると、萩から妻の雅が家族を連れてやって来ます。この時には晋作も妻と愛人の板挟みでバツが悪い思いをしたようです。
ついに臨終という時、愛人のうのは遠ざけられてしまい、晋作は家族と山形有朋らに看取られながら永眠。
「面白きこともなき世に面白く」という晋作の辞世とも言えそうな歌に「すみなすものは心なりけり」と下の句を付けたのは望東尼だったとか。


刻んだブロッコリーの茎、塩胡椒、干し海老投入。更に混ぜる。

晋作の死後、うのは出家。梅処尼と名乗ります。ただ、これは自発的な行為ではなく、伊藤博文とか山形有朋の指示。
うのが他の男と不埒な関係にでもなったら、晋作の名前にまで傷が付くと山県達は考えたようです。元々、芸者?遊女?だったので身持ちがよろしくないと案じたのでしょう。これも男の勝手な論理。
高杉晋作には、谷潜蔵という別名。この名は主君、毛利敬親から拝領。もし晋作が明治の世まで生きていたら、その名前を使っていたことでしょう。
桂小五郎が木戸孝允になったのと同じことです。
うのはこの谷家を継ぎ、戸籍名を谷梅処に。


うの花サラダ

周囲にブロッコリーの穂先を散らし、干し海老を混ぜ込んだだけに飽き足らずトッピング。
おからには大豆のタンパク質、白菜にはビタミンC、人参からベータカロチン、海老からはカルシウムと栄養も文句なし。
自家製マヨネーズの酸味としょっぱさがベストマッチ。

始まりは山県達からの指示だったとはいえ、うのは出家して晋作の墓守をするという人生に満足していたのではないかと思います。
おっとりして従順なうのは晋作というつっかえ棒がないと生きていくのも難しい。晋作も生前、自分がいない時、うのが悪い者に騙されないかと案じることがあったそうです。自分でもそれがわかっていたから、愛した男の墓を守る人生をよしとしたのではないか。
晋作の墓は奇兵隊の演習場もあった、下関郊外の吉田にあり、東行庵という寺院。この初代庵主としての人生をうのこと梅処尼はまっとう。
何度か訪れましたが、便数が少ないバスで下関中心街から1時間以上かかったと思います。山が近くに迫り、静かな場所でした。

高杉家を守り、引き継いだ雅と谷梅処となった二人の女の関係は、明治になっても決して険悪ではなく、梅処尼が上京した時には高杉家に宿泊していたとか。
高杉晋作と共に歩んだ女たちの人生を妄想しながら、うの花サラダをご馳走様でした。

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