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カニ才蔵

昔、伊東園ホテルでカニ食べ放題プランで宿泊。
近くのテーブルに居た男性、次々にカニ脚を持って来るのですが、見事に肉だけを分離して食べる。皿の上には殻だけがどんどん積み上がる。正にカニ食い名人。
そんなことを思い出して蟹を食べたくなったので購入。料理しながら生涯、現場で槍を振るい続けた豪傑を妄想した記録。


材料

蟹    1杯
昆布   5センチ位
白菜   半分
葱    半分
シメジ  半分
味噌   お玉一杯
柚子胡椒 小匙1
醤油   大匙1
酒    大匙1
バター  20グラム

美濃国(岐阜県)可児郡出身と言われる可児才蔵。
願興寺という寺育ちですが、人生の始まりからしてちょっとした謎。
信長に滅ぼされた朝倉義景の側室が戦火を逃れて出産。その子が才蔵と言われるが、義景の没年は天正元年(1573)で才蔵の出生は天文二十三年(1554)と言われるので年代が合わない。
身を立てるきっかけとなったのが槍。宝蔵院流槍術を学び、美濃の国守、斎藤龍興に仕える。斎藤氏滅亡後は前田利家、森可成、明智光秀、柴田勝家、羽柴秀次等々、主を変える。


ばらした脚に切り込み。

仕官先が定まらないのは仕えた主が滅亡したこともあるが、才蔵自身の性格にも拠る。
氣に入らなければ相手が主君だろうと直言。怒らせたり嫌われたり。
秀吉の甥である秀次に仕えている時に起こったのが小牧長久手の戦い。
秀吉と家康が尾張の小牧で対陣している時、秀次軍は中入れを実行。これは密かに家康の本拠、三河を攻撃して揺さぶりをかける作戦。
ところが情報が洩れてました。
それを察知した才蔵、秀次に撤退を進言。しかし秀次は聞く耳持たず。
「糞くらえ召されよ」と才蔵は暴言。


昆布と甲羅を煮て出汁取り。

案の定、徳川方の奇襲で秀次軍は総崩れ。
秀次自身も徒歩で逃げる。そこに騎馬の才蔵が通り掛かる。
「馬を貸せ」
「雨降りに傘は貸せませぬ、御免」
と返答して才蔵は主君を置き去りにさっさと逃げる。
雨に傘、逃走に馬は絶対に必要。それをむざむざ貸せるかということ。
当然、秀次は激怒、雇いを解かれる。
自分の命が大事というだけではなく、秀次は主に足らずと見限ったということか。


甲羅と昆布を取り出して、野菜と蟹脚を投入。

『笹の才蔵』というのが異名。
武士は目立つために旗指物を背負うが、才蔵は青々とした笹を背負った。
森可成に仕えて甲州征伐に参陣した時、戦後の論功行賞で才蔵は首を三つ持参。
「全部で二十人を討ち取った」と申告。
「他の十七人はどうした」
「重いので打ち捨てたが、討ち取った証しとして口に笹の葉を詰めた」
調べさせると確かに戦場に笹を加えた死体が十七。
当時、隠語で酒をささと呼んでいました。
討った相手に末期の酒を手向けたという意味。粋な計らいということから、笹の才蔵と呼ばれるようになった。


煮えてきたら調味料と味噌を溶きいれる。

才蔵が巡り合った最後の主君が福島正則。↓

面接の際、福島家の重臣に得意なものを問われる。
「髷を結うこと」が才蔵の返答。
「あいつはへそ曲がりだから雇わない方がいい」と重臣は正則に進言。
「後ろに目がないと自分で髷は結えない。見えることは何でも出来るという意味だ」と正則は答えて、才蔵を召し抱える。
福島家に仕えている時に起こったのが関ヶ原。
前哨戦となった岐阜城攻めで抜け駆けして三人を討ち取る。
軍律違反ということで謹慎を命じられるが、抜け出して関ヶ原へ。獅子奮迅の働きで、ここでも持ち切れない首に笹。
これを伝え聞いた徳川家康、正則に会う度に才蔵は元気かと訊くようになった。


最後にバターを溶かして混ぜる。

宝蔵院院流槍術の達人としても聞こえた才蔵に試合を申し込んだ武芸者。
試合当日、才蔵は甲冑を着て馬に跨り、鉄砲を持った家臣を十人連れて来るという戦支度。
「それでは試合ではない」
「我が試合とは常に実戦である」
生涯を戦場に生きた武士らしい逸話。
才蔵の槍は錆びていたので、正則がそれを指摘すると
「槍は突く物」という返答。
穂先三寸のみは磨き上げられていたという。


カニ才蔵

武勇の証しである朱槍を持つことを許されていたという才蔵らしく槍のように長い脚を突き出させた。
味噌仕立てにした理由は後述。
葱のアリシンで食欲倍増。白菜から食物繊維やビタミンC、蟹からタンパク質、抗酸化作用があるビタミンEも頂ける。

歴戦の勇者だった才蔵にもやはり老いが忍び寄る。
従者に薙刀を持たせている時、
「才蔵様も年を取られましたな」
と言われると才蔵は薙刀を手に取り、従者の首を刎ねた。
才蔵は後年、出家して才入と名乗りましたが、もしかしたらこの行為を悔いた或いは恥じたのではないかと妄想。
戦場で多くの命を奪ったものの、それらはすべて戦いでのこと。
従者の言葉に怒りのまま、命を奪った。
薙刀や槍が重くなったというだけではなく、短気になったのも老いた証拠。


ご飯と溶き卵を入れて雑炊に。

この雑炊もカニ出汁がよく利いている。
蟹(白)菜雑(炊)と呼ぶべきか。

広島城の無断改修を咎められて福島家は減封、広島を追われる。
その時、城を受け取りに来た浅野家に対して才蔵は家臣達と共に小さな城に籠って抵抗。
籠城戦なので兵糧が不足。そこで一計。
近くのお地蔵様に味噌を供えると御利益という噂を広める。住民ばかりか浅井家の者まで味噌をお供え。それを奪って兵糧にしたばかりか、ぐらぐらに煮えたった味噌汁を寄せ手に浴びせた。
それから、そのお地蔵様に味噌を供えると、脳味噌との繋がりから学力向上の御利益があると言われるようになった。

というのは作り話。
そんな戦いがあった記録はないし、そもそも才蔵が亡くなったのは福島家が処分を受ける前なので有り得ない。
もしも才蔵が生きていたら、こんなことをしたかもしれないという例え話が伝説化。

才蔵は戦の神である愛宕権現を信仰。
「愛宕権現の縁日に死ぬ」と普段から宣言していたが、六十歳の時、愛宕権現の縁日に甲冑に身を固めて床几に座して亡くなった。
人生の始まり、そして亡くなった後にまで有り得ない伝説を付与された可児才蔵を妄想しながら、カニ才蔵をご馳走様でした。

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