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山芋ステー木戸孝允

随分と立派な山芋を入手。
長くて重い素晴らしい芋。これを料理しながら、維新三傑の一人を妄想した記録。


材料

山芋    350グラム
葱     少量
バター   10グラム
醤油    大匙2
味醂    大匙1
七味唐辛子 好きなだけ
鰹節    一つかみ

五箇条の御誓文の起草、廃藩置県、版籍奉還、岩倉使節団の一員として欧米を視察と明治政府に大きな貢献をしたことから、大久保利通、西郷隆盛と並んで維新三傑の一人と呼ばれる木戸孝允。
しかし、他の二人と比べると影が薄い。
幕末と維新後では名前が変わっているからかとも思ってしまいます。幕末に名乗っていた名前、桂小五郎の方が何となく幕末好きには馴染がある。


皮を剥いた山芋を1センチ巾位に輪切り。

天保四年(1833)に萩藩の藩医、和田家に生まれた小五郎、7歳の時に桂家に養子入り。これにてよく知られた名前、桂小五郎となる。
桂家は毛利家の重臣。とはいえ枝分かれしていて本家ではなかったようです。和田家は毛利元就の七男が遠祖。かなり毛並みのいいエリートだったと言える。
そのせいか、文武両道に秀でるようにと厳しく教育。萩の藩校、明倫館で学問、剣術は柳生新陰流、神道無念流を学ぶ。
明倫館で山鹿流兵学を学んだ師が吉田松陰。
よく誤解されますが、桂小五郎は松下村塾の生徒ではなし。あくまでも藩校、明倫館で松陰に師事。
それでも師として慕っていたことには変わりなく、松陰が刑死した後、その遺体を引き取っています。


醤油、味醂、七味唐辛子を混ぜ合わせる。

剣術に精を出し、実力を認められて江戸に剣術修行。そこで神道無念流、斎藤弥九郎の練兵館に入門。
免許皆伝の腕前となり、塾頭に。
司馬遼太郎の小説、「竜馬がゆく」にも出て来ますが、坂本龍馬や武市半平太と試合をしたと言われます。


油を引いたフライパンで両面をこんがりと焼く。

それだけの剣の腕前があるというのに、あまりありがたくない渾名が小五郎には付いています。
「逃げの小五郎」
ただ、これは司馬遼太郎の小説から言われ始めたことで、実際に本人が生きている間にそう呼ばれた訳ではなさそうです。
それでも危うい場面でも巧みにすり抜けている所から、納得出来る渾名。
例えば、過激な尊攘派が新選組と斬り合うことになった池田屋騒動。
この会合に小五郎も参加する筈でしたが、早く到着したので時間まで対馬藩邸に行っていたので難を逃れたとも、その場に居たが、屋根伝いに逃げたとも言われます。前者ならば運がよかった。後者ならば、腕に覚えがあっても余計な斬り合いなどはせず、命を大事にした。
或いは新選組が来ると事前に知っていた?


こんがりと焼けてきたら、合わせ調味料を投入。絡める。

尊王攘夷派が勢いを失い、禁門の変後に長州者が都を追われることになると、乞食に変装して橋の下に隠れる。そこにそっと食べ物等を運んでいたのが、後に妻となる幾松という芸妓。
頭が良く腕も立つ。そればかりか高身長で顔もよかった小五郎、よくモテたようです。
いよいよ都に居られなくなり、但馬の出石に潜伏したのですが、そこで恋仲になった女性との間に子が出来たとか。


煮絡まったら、バターを投入。これでコクが出る。

高杉晋作達の活躍で長州の藩論が倒幕に決すると、長州を統率すべき人物として迎えられ、出石を後にする。
「日本を今一度、洗濯し申し候」と言ったのは坂本龍馬ですが、小五郎も似た言葉を遺しています。
「日本には手術が必要」
実家が医者なので、そういう言葉が出て来たか。
長州に戻った後、慶應元年(1865)に藩侯、毛利敬親より「木戸」の苗字を賜る。幕府側に高杉晋作と桂小五郎は死去したと報告したために、名前を変える必要があったという理由。
以後は木戸貫治とか木戸準一郎と名乗る。


焼き上がり。

坂本龍馬の仲介で西郷隆盛と会見。薩長同盟を結ぶ。
ただ、木戸は個人的には西郷が嫌いだったようで、しかも一度、会見予定をすっぽかされたことあり。そうした経緯から双方、同盟の話を切り出さず、苛立った龍馬が叱り飛ばすというのは小説とかドラマでおなじみの場面。


山芋ステー木戸孝允

鰹節と刻み葱を散らして完成。醤油と味醂の甘辛味。味醂で照りが出た焦げ目が光る。葱のアリシンが食欲を増進させて、どんどんと箸が進む。
山芋に含まれるビタミンCや食物繊維、カルシウムやマグネシウムもどんどんと取り込める。

孝允という名前は、桂家を継いだ時からの諱。維新後、苗字と諱を戸籍名として、通称を廃止という方針が出されたことから、以後は木戸孝允に。
先述の通り、五箇条の御誓文や版籍奉還等の重要な政策に関与。岩倉使節団の一員として欧米視察の際の逸話ですが、アメリカ人女性に求婚されたとか。やはりモテる。
女だけではなく酒にも強かったらしく、これまた酒豪として知られる旧土佐藩主、山内容堂と飲み明かして、江戸城の廊下で深夜まで寝ていたとか。
翌日は二日酔いで公務欠勤。
そんな風に深酒した記録がやけに日記に残っています。
頭も腕もよく、女にも酒にも強い?木戸孝允ですが、明治十年(1877)に大腸癌が肝臓に転移。京都で療養していましたが、甲斐なく45歳で死去。
西南戦争真っ最中のことであり、
「いい加減にせんか、西郷」というのが最後の言葉。
死後は霊山護国神社に葬られる。ここには多くの維新志士達が葬られています。木戸と幾松はもっとも高い場所に墓地。しかしこの墓地を訪れる人の多くは坂本龍馬の墓までは行っても、更に上の木戸孝允の墓まではなかなか行かないような気もします。
そんなことを妄想しながら、山芋ステー木戸孝允をご馳走様でした。

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