青梗菜藤道三
青梗菜を買った。何となく食べたくなったのだが、どう料理するかをろくに考えずに調理開始した記録。
青梗菜 2本
大豆肉 お好みの量
八角 1つ
蜂蜜 小匙1・5
黒酢 小匙1
醤油 大匙3
味醂 大匙1
酒 大匙1
いつもの通りにダジャレだが、青梗菜ということで、菜、斎藤道三を妄想。
一般的なイメージとしては、僧侶から商人、そして武士になり、最終的には国主にまで成り上がった、下剋上の権化のような美濃の蝮。しかし、最近の研究では、どうもそうではなかったのでは?と言われ始めています。
というか、美濃の蝮という呼び方自体、坂口安吾や司馬遼太郎の小説から始まった綽名。当時からそう呼ばれていた訳ではないようです。
京都、妙覚寺の僧侶、法蓮房、還俗して油商人に。柄杓から垂らした油を銭の穴を通して甕に注ぎ、銭の縁が少しでも濡れたら、お代は要らないという大道芸めいた売り方で大儲け。その技を武芸に応用すれば、一角の武士になれるとスカウトされ、武士となり美濃の土岐氏に仕官。
やがて、美濃守護である土岐頼芸を追い出して国守に成り上がった、北条早雲と並び称される下剋上の嚆矢となった梟雄。
しかし、この経歴は一代記ではなく、親子二代で成されたことと言われ始めています。
根拠となったのは六角氏文書。これによると近江守護、六角承禎と斎藤義龍の間に戦略結婚の話があったのですが、義龍の祖父は法蓮房という僧から成り上がった者であり、国守を追い出した悪人。という風なことが書かれています。要はそんな素性の家と親戚にはなれないということ。
義龍とは道三の息子ですから、従来の説では法蓮房とは父の筈。それが祖父が法蓮房となると話が違ってくる。
斎藤道三と呼ばれている人物の名前の変遷を記すと、
法蓮房、松波庄五郎、奈良屋庄五郎、西村勘九郎、長井新九郎、斎藤利政、そして斎藤道三。
二代説に従うと、西村勘九郎までは初代、長井新九郎からが二代目という。
この説から、岩井三四二先生は「簒奪者」という小説を書かれました。
最近、「レジェンドアンドバタフライ」とかいう時代劇らしからぬ題名のキムタク主演の信長映画が公開されているとか。
綾瀬はるか演じる信長の妻、帰蝶の父親が道三。(二代目?)
尾張の織田信秀と戦っていた道三、和睦するに当たり、両家の婚姻を進める。これにより道三の娘が信長に嫁ぐことに。尾張行きの前に道三は娘に短刀を渡す。
「信長が噂通りのうつけならば、これで寝首を掻け」
「ことによると、この刃は父上に向くかもしれません」
これが親子の別れの会話。
婿に会ってみたいと、道三は信長と会見。信長一行が通るであろう道沿いの物陰から隠れて様子を見る。やって来た婿殿は着崩しただらしない恰好で馬に跨っている。腰には瓢箪やら火打石が入った袋等をぶら下げた、噂通りなうつけ者な姿。これならば尾張も近々、我が物と思った道三でしたが、会見場所の正徳寺で正式に対面すると、道中とは打って変わった凛々しい姿の信長。多くの人が見ている所ではうつけを演じているが、本当はそうではないことを見抜いた道三、いずれ自分の子達は、信長の門前に駒を繋ぐことになるだろうと言ったとか。つまり家来に成り下がるだろうという意味。
しかし私は妄想する。帰蝶が事前に入れ知恵?
父の道三は用心深いので、途中で覗き見するかもしれないので、道中はわざとだらしない姿で行き、会見では正装して度肝を抜いておやりなさいと。
隠居した道三の跡を継いだのは長男、義龍。しかし、義龍の出生にはちょっとした疑惑あり。
母親の深芳野、道三の側室になる以前は前国守、土岐頼芸の側室。つまり本当の父親は土岐頼芸ではないかという疑惑。自身でもそれを感じていたか?或いは誰かがそれを吹き込んだかもしれません。
また、道三はいずれは義龍を廃して、弟に家督を相続させるのではないかと疑いだしたようです。まして娘婿の信長に心が動いていることも感じ取った?
道三が隠居したのは、家臣達により迫られた結果とか。
義龍が旧主、土岐家の血を引いているかもしれないということから、そちらに心を寄せる家臣が出て来たということかもしれません。しかも道三は婿殿にご執心とあっては、美濃はいずれ信長に併呑されると思う者もいたことでしょう。
元々、下剋上でのし上がった道三は家臣達に引きずり下ろされた?更に話はそこで終わらず、ついに父子相克。親子間で戦。
弘治二年(1556)長良川での合戦で斎藤道三は討ち死に。婿の信長が援軍を送ったものの間に合わず。
程よく火を通した青梗菜、茎のシャキシャキ感を残した仕上がり。葉のクタクタ感もよし。八角を入れると、一気に中華っぽい風味。基本的に甘い味付けですが、黒酢の風味も感じられる。大豆肉のタンパク質、青梗菜には強い抗酸化作用。鉄分やカリウムも豊富。
討ち死に前、道三は美濃の譲り状を信長宛に書いたと言われます。
勿論、それがあるからといって義龍や跡目を継いだ龍興がすんなりと美濃を渡す筈もなく、信長が美濃を平定したのは永禄十年(1567)。
実に九年の歳月を費やすことに。
一代で、或いは二代で伸し上がった斎藤道三ですが、最後は家臣達、そして息子による下剋上で落命。因果は巡るというのはこういうことなのか。
そんなことを思いながら、青梗菜藤道三をご馳走様でした。
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