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北条氏政けピラフ

昔、中華料理店でアルバイトしている時、サングラスをかけておしゃれな格好の女性客。
注文されたのは
「ピラフ」
ここは中華料理店なんですが?
まあ炒飯を頼みたかったのかもしれませんが、ピラフと言った方がおしゃれと思った?
私の認識ではピラフとは洋風な炊き込みご飯であり、文字通り飯を炒めた炒飯とは別物。
そんなことを思い出し、鮭と野菜のピラフを作りながら実質的に名家を滅亡に導いてしまったことから評価がよろしくない戦国大名を妄想した記録。


材料

鮭        3切れ
米        2合
蓮根       半分
パプリカ     半分
スナップエンドウ 10本
シメジ      半株
塩        大匙1
胡椒       少々
オリーブ油    大匙1
白ワイン     大匙1
酢        適量

天文七年(1538)又は八年に後北条家三代目氏康の次男として誕生した松千代丸が後の北条氏政。
次男なので本来、家督を継ぐ立場にはなかったが、長男の早世により四代目を継ぐ。
北条早雲以来、五代百年に渡った後北条氏最大版図を築いたものの、秀吉による征伐を受けて、本拠の小田原城開城。戦国大名としての北条氏滅亡を招いたというのが大まかな生涯。


食べやすい大きさに切った蓮根を酢水に漬ける。これをやらないと黒く変色。

秀吉による小田原征伐を受けた時、既に家督は息子の氏直に譲っていたのですが、影響力を行使して結果的に世の趨勢を読み誤り、名門を滅亡に導いたとされ評価は高くない北条氏政ですが、本当にそうだろうか。歴史は勝者が書く物なので、敗者は不当に貶められている部分がある。へそ曲がりかもしれませんが従来とは違った見方を妄想。


パプリカとスナップエンドウを微塵切り。

氏政が愚将とされる逸話の一つに麦の話。
出陣中に麦畑を見て、
「あの麦を炊いて飯にしよう」
と発言。
収穫、乾燥、脱穀等の工程を経ないと食べられないことも知らなかった。
それを聞いた武田信玄が
「氏政は坊ちゃん育ちだから、そんなことも知らない」と笑った。
しかし、この話の出典は『甲陽軍鑑』つまり武田家を持ち上げる文書であり、氏政を貶めて信玄を持ち上げるための創作の可能性あり。


研いだ米にオリーブ油、白ワイン、塩、胡椒、分量の水を釜へIN

父の氏康と食事をしていた時、氏政が飯に汁を二度かけているのを見て、父は落涙。
「飯に汁をかけるのは毎日することなのに、一度で適切な量を計れないようでは人の心も計れる筈もない。残念ながら氏政の代で北条家は潰れる」
この話、以前にも書いています。↓

予言めいたようにも聞こえる話ですが、これも違った見方が出来るかもしれない。
平成二十八年(2016)の大河ドラマ『真田丸』に登場した北条氏政は高嶋政伸が演じていましたが、ここでも飯に汁を数回に分けて掛けていました。
「少しづつ、少しづつ汁をかけていくのが儂のやり方」と言っていました。
戦のやり方を飯の食べ方になぞらえた発言でしたが、三谷幸喜の脚本はよく出来ていると感心。
私のような歴史好きなら知っている氏政の逸話を下敷きにこの場面を作っている訳です。
もしかしたら本当にそうかも。
汁の量を計れないのではなく、少しづつかけるのが氏政の流儀だったかもしれない。


野菜と鮭を米の上に乗せる。

織田信長死後の混乱である天正壬午の乱に乗じて滝川一益を追い出して上野(群馬県)を制圧。その際に沼田城を巡り真田家と対立。
その後、秀吉の仲介で沼田領の内、名胡桃城のみを真田家に譲る。
これは名胡桃は真田家墳墓の地であるという真田昌幸の主張による。真田家は信濃(長野県)発祥の豪族なので、そんな筈はない。
恐らくは昌幸の謀略。名胡桃城は小高い位置にあり、ここからは沼田城下が見渡せる。北条領内に楔を打ち込んだような形。ここから北条の動向を見張り、隙あらば沼田城を奪うつもり。或いは秀吉に監視を命じられていた?
結局の所、名胡桃城を北条家臣が攻め取ったと真田家が訴え出たことにより、この行為が大名同士の私闘を禁じた惣無事令に違反したとして小田原征伐の口実とされた。


炊き上がり。

五代目当主となっていた氏直が秀吉に弁明した。
「名胡桃城はそもそも真田家から引き渡されたものである」
それが真相の可能性もある。
秀吉と真田が示し合わせて北条家をはめた?
そもそも名胡桃城で戦などなかったかもしれない。
その後、名胡桃城は真田家に返還したとも弁明したが、戦に向かう流れは変えられず。
無理矢理に戦に持ち込んで北条家を滅ぼすのが秀吉の戦略で氏政、氏直父子はそれに対抗しきれなかったのが真相で、氏政が秀吉を過小評価したり小田原城の堅固さを過信したというのは誤りかもしれない。


鮭の身をほぐしながら混ぜる。

秀吉の征伐軍が近づく中、北条領内では総動員令。
15歳から70歳までの男は皆、兵として城へ入る指示。これも兵の数を増やすために子供から老人まで連行したように見えるが、裏を返せば領民を秀吉軍の暴行や略奪から守るために城に入れたのかもしれない。
領民も積極的に北条家に協力したのではないか。
始祖早雲以来、北条家は善政を布いていて税率は二公八民。つまり税率20%という安さ。
氏政は月に二度程は領民に混じって畑に出たという話もあります。
ということは穀物の収穫や脱穀等の工程を知らなかった筈もなく、甲陽軍鑑の逸話も疑わしくなってくる。麦の話は知っていてわざと言った冗談の可能性もありかも。


北条氏政けピラフ

白、赤、緑と色鮮やかなに仕上がった。
白ワインとオリーブ油で魚臭さも消え、すっきりとした塩味で鮭も野菜もご飯も美味しく頂ける。蓮根のシャキシャキ感、シメジの柔らかさと様々な食感も楽しめる。
鮭の抗酸化物質アスタキチンサンで動脈硬化や肝硬変防止。スナップエンドウや蓮根から食物繊維、シメジやパプリカから各種ビタミンと栄養も十分。

氏政の正室は武田信玄の娘。武田家との同盟破綻後、彼女は実家に返されることになりましたが氏政は最後まで離婚を渋り、正室の死後、武田家から骨を分けてもらい北条家の菩提寺に手厚く葬った。(実家に返されず、小田原で亡くなった説もある)心優しい面を感じます。

小田原開城後、氏政は秀吉の命により切腹。
墓所は箱根の早雲寺、そして小田原駅東口にも墓。
小田原駅前の墓には幸せの鈴という物が設置されていて、そこに置かれている鈴を持ち帰り、願いが叶ったら返しに来るという物。
墓が守り伝えられ、そのような信仰まであるということに北条家や氏政への地元民の敬慕が感じられます。
北条氏政とは一般的に思われる愚将ではないと妄想しながら、北条氏政けピラフをご馳走様でした。

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