見出し画像

珍しく本を読んでおりまして

今日、『まとまらない言葉を生きる』(荒井裕樹/著、柏書房)を読み始めた。

SNSで見て気になって。言葉の扱い方を考えていたこともあり、これは読んだほうがいいな、と思って買った。
でも同時に、「お、重そう…」と感じて、なかなか読む勇気が出なかった本でもある(ちなみに「重い」というのは、「明らかに内容がしっかりしているから、真剣に向き合わないとな」と思わせるような前評判だったから)。

この本をしれっと読み始められたのは、電車の中だったからだと思う。
私はあまり電車に乗らないので「あと何駅だろう?」などといろいろと気が散ることもあり、がっつり本に向き合える環境ではなかった。

案の定、本の内容はみっちりずっしりとしているのに、その50%くらいしか入ってこない。でも今の私にはちょうどよかったなと思う。

私は日頃から、文章を通して「人に何かを伝えたい」とかいいながら、実は言葉の重みが苦手だったりする。

その理由はふたつあって、ひとつは、言葉をまっすぐに捉えすぎてつらくなるときがあるから。自分に響く内容だと「私はこれを人生で体現できるんだろうか」などとまじめに考えてしまうし、優れた文章を読むと「いつになったらここまでたどりつけるんだろう」と落ち込んでしまう。

そしてもうひとつは、本当はその言葉にどっぷりと浸かっていたいから。言葉の影響を受けるのはとても怖いんだけれど、でも本当はその言葉やそこから来る思考の海にずっとずっと溺れていたい。内容が咀嚼できて、自然に意識が浮上してくるまで。でもそうすると社会的な生活が送れない。子どもの世話なんてもってのほかだ。

だから真剣に本を読むのは苦手。いつのまにか重めの本を避けるようになった。たまに積ん読するけれど、読まないうちにメルカリで売ってしまったりしている。

でも今日電車で思わぬ体験をしたので、もう少し本に向き合えるかもしれないなと思った。何かが少し戻ってくるのを感じた。

と同時に、ふと「もう何かにどっぷり浸かれるほど、若くないのかもしれない」と思った。

夢中になるには集中力がいるし、集中し続けるには体力がいる。今はもう、子どもや学生のときのような体力がない。何時間も本を読んでいられる無尽蔵の体力、目の前のアニメにかじりつくような集中力。ない。全然ない。

ということは、私はもう普通に本を読めるのではないか。どんなにがんばって深く潜ろうとしても、浅瀬でちゃぷちゃぷ遊ぶことしかできないのかもしれない。

仕事もそうだ。以前よりも仕事の仕方や原稿の質は上がったと思うけれど、たぶん場数を踏んだだけ。時間を忘れて夢中で仕事をする感覚は、立ち上げ当初のほうが強かったと思う。あのときの自分に勝てる気がしない。

でもそれでいいんだと思う。意図せず適度に浅くなった理解や思考なら、今の自分でも平然と飼い慣らせるかもしれない。少し悲しいけれど。


※『まとまらない言葉を生きる』、良き本だと思うのでリンク貼っておきます〜


いただいたサポートは取材代もしくは子どものおやつ代にします!そのお気持ちが嬉しいです。ありがとうございます!