「親が嫌い」を許した先に広がった世界
これまで、
母の日、父の日、敬老の日、誕生日、大型連休…
親と関わる行事は憂鬱で仕方がなかった。
そんな私が、
「親が嫌い」と思う自分を許し、その感情をとことん感じきって手放すことを繰り返していたら、
先日の母の日、今までにない晴れやかな気持ちで過ごすことができた。
「親が嫌い」=「悪いこと」と、決めつけていたのは自分自身だった
物心ついた頃から、両親に対するネガティブな感情は持っていたけれど、当の両親から、
「親は敬うものだ」と教えられていたし、
仲の良い友達や、信頼のおける人に打ち明けても、
“親って口うるさいし、ウザいよね”
という程度の共感は得られても、もっと深いところで抱えている感情を、理解してはもらえない。
だから、
「親とあんまり仲良くないからさー」
と、自虐的に話すことはあっても、本当のところは隠してきた。
そして、いつしか
“どうせ誰からも理解されないダメな人間なんだ”
という卑屈な考えが、私の中にびっしりとこびりついていた。
でも、それは、
“周りが言うから”
“みんなと違うから”
と、周りのせいにしていただけ。
本当は、私自身が自分を認めてあげられていれば、そんな苦しい思いをしなくても良かったんだと、
自分の生き方について考え続けた先に、気づくことができた。
嫌な感情にどっぷり浸かったら、考えるのをやめる
「親が嫌い」や「親と合わない」ということは、ただの個性の一つで、
「この洋服は好きだけど、こっちのデザインは嫌い」
のように、それが良いとか悪いとかではない。
そう思えるようになって、
いつものようにネガティブな感情に押しつぶされそうなときにも、落ち着いて対応できるように。
イベントごとが近くなると、
「会いたくないな…」「また嫌味言われるかな…」
と、ズーンと重たい気持ちが湧いてくるのだけど、
そこで無理やりかき消そうとせずに、思いっきりネガティブタイムをつくる。
私の場合は、お風呂に入りながら、
大泣きしたり、頭をワシャワシャ洗ったり、熱めのシャワーを浴びたり、深めにお湯に浸かったりして、ドロドロした本音を吐き出していく。
そうやってネガティブを出しきると、身体がスッキリするのと一緒に感情もスッキリしてくる。
そしたら、もうそのあとは考えない。
ここでまた同じように考え始めてしまうと、いつものネガティブループにはまってしまう。
嫌なことに感情が向かないように、自分の好きなこと、楽しみにしていること、ただただルーティンの家事のことなど、ほかのことに意識を向けるようにすると、
少しずつ、ネガティブに支配されている時間を減らしていけるようになった。
ぐるぐるマイナス思考をしてしまうのは、ただの癖のようなもので、やめてみると、
『こっちの方が断然ラクじゃん』
ということに気がついた。
「親だから喜ばせなきゃ」じゃなく、「自分がどうしたいか」
周りの環境やメディアから流れてくる、
“理想の家族像”
には縛られなくていい。
親とどう関わるかなんて、人それぞれ。
そんな風に気持ちが軽くなったら、
母が喜びそうなプレゼントを偶然見つけて、
「母の日に渡そうかな」
と素直に思えた。
両親に連絡して会いに行くと、
不思議なほど心地良く出迎えてくれて、プレゼントも予想以上に喜んでもらえた。
きっと、
自分がネガティブな感情を持って接すると、
相手もネガティブな反応を返すだけ。
前回の記事で書いたように、
私がこの人生でやりたいことは、誰かを喜ばせること。
相手が誰かではなく、自分がどうしたいか。
きっと、それが
“自分の人生を生きる”
ということなのだと思う。
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