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『山本由伸の102球』オリックスフィルターが外れた日

目の前でテレビに見入る彼が泣いていた。タオルに顔をうずめ、声を押し殺している。
背中にはFUSHIMIの文字。
大の大人が、勝ち試合を見て泣いているのを生で見たのは、多分初めてだ。

彼は、オリックスファンだ。
といっても、近年再整備された感のある若いチームの、いわゆる「にわか」ファンではない。阪急ブレーブスからオリックス・ブルーウェーブ、その後の合併分割を通じて38年。強い時代も弱い時代もずっと見守ってきた、いわゆる古参ファンだ。
俊足巧打の選手が好きな彼が、初めてブレーブスの試合中継を見たのは小学2年生の日本シリーズ。塁上を駆け回る福本豊に魅了された少年は、それまで応援していた広島カープからあっさり「寝返って」以来、ずっとオリックスの応援を続けている。
彼では呼びづらいので、ここではGenさんと呼ぶことにしよう。


1塁席の『ロン毛』


Genさんが、「よっ」と一声をかけて席に座る。背中には、大きく赤い文字で描かれた背番号7とFUKUMOTOの文字が揺れている。
長髪長身のGenさんをめがけて階段を駆け上がってきたビールの売り子さんが、その玉の汗を拭きながら、Genさんに一声かける。
「あれ〜、今日は外野なんですか〜?」
「そ、今日は知り合いとこっち」とGenさん。

所沢で行われる西武対オリックスの試合、他の予定がなければ多くの試合を内野席でビールをあおりながら観戦する。きっとビールの売り子さんが駆け寄ってくるほど有名なのだろう。
「きっと、ロン毛って呼ばれてるよね」との観戦仲間からのツッコミに、
「やだよ、そんなの」とまだ十分に泡の残っているカップを一口。気温も湿度も高いベルーナドームで飲むビールは、成人してからは野球を見るのと常にセットだ。


涙の2021年日本シリーズ第1戦


11月20日。いつもの観戦仲間数名で久しぶりに集まって、都内の一室でテレビ観戦していた日だった。
エース・山本投手とスワローズ若手のホープ・奥川投手との投げ合い。
山本投手は1回こそ三者凡退で立ち上がるも、その後はランナーを背負う展開が続く。
横に座るヤクルトファンにたまに視線を送りながら、しかし焦点はテレビに刺さったまま呟く。
「秋口から、明らかに疲れが見えていた」と、3本目のビールを注ぐ。

その後も常にランナーを背負った展開の中、持ってきた5本目のビールを、もう缶のままあおりながらGenさんのボヤきは続く。
「球数100超えてんじゃん」

しかし、山本投手はエースだ。その意味は、負けないこと。負けない112球。
9回裏、ヤクルトの守護神・マクガフ投手を打ち崩したオリックスのサヨナラ勝利。
「オリックスフィルターを通して野球を見ている」と後日語ってくれたGenさんにとって、記憶をなくすほど高揚した気分の夜だった。


6戦目からの重い足取り


「なんで1点取ってくんねぇんだよ」                      
8回裏1アウト。山本投手がベンチ前に出てくるのを見て、Genさんは震えたそうだ。それはきっと風の冷たさのせいだけではなかっただろう。

9回141球。また、エースでは負けなかった。

10回、11回。無情にも時計の針は11時を回る。
紅林選手のユニフォームを着た背中は球場を後にした。長い後ろ髪引かれている時間は、もうなかった。
ヤクルトの選手たちが涙を流して日本一を喜び合う姿を、電車の中で、小さなスマホ画面越しに確認した。そして、すぐに閉じた。
三ノ宮駅で乗り換えの時に買ったビールを、0:11発のサンライズ瀬戸の中で流しこむ。
いつ眠り込んでしまったのかは覚えていない。ただ、散らかったままの缶と、東京駅着の事前アナウンスとが、Genさんを現実に引き戻した。


Genさんが振り返る 山本由伸・ノーヒットノーラン達成の日


「なんで今日福本ユニなの?」観戦仲間からの問いかけに
「たまたま、気分」
ハンガーラックに掛けきれない量のユニフォームと、その横に積みあがったタオルの山。何かを意識して選ぶことはほぼない。

3回裏終了。
3杯目のカップを飲み干したところで「これ、由伸行くでしょ?」との同行者の声がする。
目に見える反応はしない。代わりに、心の中で「何いってんだコイツ」と毒づいておいた。

4杯目を飲みながら、去年の6戦目を思い出してボヤく。
「いいよね、所沢とか神宮とか。近くでホームチームの応援できてさ」

5杯目を他の空カップに積み上げた6回裏、スコアボードに並んだ0を見上げる。
「ノーノー、あるかも」
誰にも聞こえない心の中で呟いてみる。オリックスフィルターは、まだ通したままだ。

7回裏が終わる。
6杯目を飲み干し、ようやく口を開く気分になった。
「これ、ある?」
山川穂高選手のバットが、ちょうど空を切ったところだった。

「山本投手、ノーノーしちゃいますかねぇ?」
今日も確実な売上を求めてやってきたビールの売り子さんに向かって
「ノーノーとか言わないで!言葉にしたらできなくなるから!」
受け取った7杯目を右手に持ったまま、目線を彼女に向ける余裕はなくなっていた。膝に置いたポンタタオルの端を、左手で握りしめる。
打球が、野口選手の前に飛んだのを見送って、ふうと一呼吸。ビールの泡はとっくに消えていた。

8杯目を頼みかけてやめた。
マウンドに上がる山本投手を見守ろう。彼以上に安心してみていられる選手は、他にはいないのだ。
「行ける、行ける!」と、自分に言い聞かせる。

「よぉし、山足!よく取った!」

FUKUMOTOユニでオリックス応援をするGenさん



27個目のアウトに、ようやくオリックスフィルターは外れた。


Genさんが由伸のユニを買う日は来るのか?


「なんで由伸のユニじゃなかったの?」と率直な疑問を、後日投げかけてみた。
「だって、買ってないし」

いつかメジャーに送り出すことになるような選手のユニフォームは、買わない主義のようだ。
「そりゃ、もちろん残ってほしいよ。でも、オリックスって、そういう行かせる球団だからさ。行って来いとも思うし、しょうがないとも思う」

好きな球団で、好きな選手が活躍するのは一番嬉しい。
けれど、「そういう球団」を好きになってしまった以上、誰が投げても誰が打っても、ビールを片手にGenさんはボヤく。

「今日も味方が敵かよ」

#ヤクルトスワローズ #Enlightened #swallows