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品格のレベルが異なるということ

私の前を通り過ぎた取締役は、結婚式のひな壇に座る夫に祝辞の後、名刺を渡して下さる。世界中に何が知れ渡った商社の取締役がその様なお心遣いをして下さるとはゆめゆめ思わなかった私は、お礼の言葉が見つからない。

お色直しで私が離席している間には、私の上司たる部長が、夫との写真を撮りに来て下さったそうだ。

新婦側の主賓席には、現職のみならず、前職の上司、重鎮弁護士等々、個人でご参列下さった方が揃う。しかし、誰にも疎外感を感じさせない。それどころか、披露宴会場、全体を見回し、日本を代表する世界屈指の会社の役員として、人にどう見られているかを認識し、祝福としてあるべき振る舞いをして下さった。私には到底手の届かない作法であった。
更には、喫煙所で自慢話を始めて収集がつかないという相手方ご親族の話題が入ると、タバコを吸わない重鎮弁護士の先生が鎮火し、挙式に相応しい雰囲気に変えて下さったそうだ。

言葉にならないありがとうが涙に変わる。
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グループで呼ばなかったから、新婦側の友人は皆1人で参加してくださった。年齢も仕事も出身も所属も共通点はない。しかし、誰も自分の話をしなかったそうだ。ただ新婦との思い出の話をし、私の家族にもこの上ない思いやりを注いでくれた。
「りりいの友達に会えたから、来てよかった。」と家族が話す。

「隣は悪ノリかな?仲間内で盛り上がっていたね。」
と友人の1人に言われた。それは人を受け入れ、心からの祝福をする温かい空気が流れていた私のテーブルと、祝福の思いの有無で生まれた差だろう。
だからだろう。お色直しで私がきょうだいと退場する時、主賓が写真を撮りに来て下さり、友人が泣いていた。
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自分の人生なのだから、如何なる場合も自分が楽しめることがベストであることには変わらない。人を楽しませるための自己犠牲は要らない。
しかし、場に応じて来る目的がある。許されているのは、その目的に従って楽しむことではないだろうか。
職場なら成果を出すために来る場所で愚痴を楽しむ為に来る場所ではない。
野球場はチームを応援するために来る場所で、人種差別的な発言でマウントを取る場ではない。
結婚式場は祝うために来る場所で、仲間内の自慢話に華を咲かせるところではない。
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格がある人間は、全体の中で客観的に自分を見て、立ち位置を把握し、そのうえで相応しい振る舞いをする。それが品を持って楽しむ行為ではないだろうか。

挙式の翌日、スイートルームに泊まる夫に、着信が入る。「親族8人でホテルに来たから出てきて欲しい。」と。
きっと、結婚初夜の夫婦のホテルに来て呼び出す行為が、どの様な感情を相手にもたらすか、ご想像出来ないのだろう。当該行為は結婚初夜の伽を済ませた時間を狙って、踏み込まれた様な、悲しい気持ちとなる。

品と格で結婚式を彩ってくれた参列者の行為は、心温まるものだった。振る舞いのレベルも次元も違う。
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写真を見ながら、挙式を思い出す。心に残る柔らかい感情は、自身の参列者による、品格あってのことだった。
楽しむ大前提として、自身の振る舞いを客観視する心配りを、如何なるときも忘れぬよう、感謝と尊敬の思いを残すために、noteに書いた。

とても嬉しいので、嬉しいことに使わせて下さい(^^)