私がそれをしない理由
私は基本的にXやInstagramやその他諸々のSNSをやりません。
facebookをしていた時期もありましたが、すっかりすっきりやめました。
noteがほぼ唯一のSNSです。(LINEはしていますね)
理由は必要がないに尽きますが、手に負えないという側面も大いにあります。
加えて私の考え方は通用しない。と自覚をしているからです。
先日、仲良しの友達が、フォローを外されたと
DMで指摘を受けた。という話をしていました。
実際は身に覚えはなく、何の意図もないんだよ。ということでしたから、何らかの不具合ということでしょう。
それはそうよ、システムだもの。って話ですが、私が引っかかって今もなんだか腹の底から
ぐつぐつするのが、外された。という表現についてでした。
なんだ、されたって。
まるで、被害者。私の友達、加害者。
は?
フォローって害じゃないよね。
エールだよね。
エールの主導は誰にあるのか。
私の友達だよね。
いや、私にもあなたにも、されたと発言した誰かにもある。
自分の気持ち、誰かを思う気持ちは、その人だけのものだよね。
例えば、誰かが私の表現をみて好きだなと思ってくれることは、すごく嬉しい。
また、見にこようとフォローをしてくれることも、すごく嬉しい。
だけど、興味や関心が変わり、もう私の表現を見ても心が動かないし、潤わないとなればフォローを外して、さようならすることなんてあたり前田のクラッカーである。
外されたなんて一度も思ったことはない。
新しい何かを見つけたんだな。ただそれだけだ。
飽きられない。なんてことはない。
ずっといつまでも。なんて約束はない。
その日その時その瞬間。
気まぐれや思いつきも大歓迎だし
立ち寄りも読み飛ばしもあるあるだ。
された。なんて心もちは、必ずや自分を窮屈にする。
他人を許容できないということは、実は自分自身を閉じ込めてしまうことになる。
出ておいでー。と思う。
喪失を恐れて攻撃的になったり、
引きつけておきたくて乱暴になったり、
そういう言葉の羅列や表現の爆発を目にするたびに
自分をすり減らして消耗していく姿を想像する。
大事なことは数であるという前提の世界は私には手に負えない。
もちろん、私の思い込みで早とちりもあるだろう。
そこには誤解もあるし、全部ではないことは理解している。
でも、誤解も解釈である。私は自分で選択している。
大事なことは人である。
大事なことは表現である。
noteでは、私の考え方も通用しているからこうして今日も書いている。
私にとってフォローはエールである。
また読みたいという衝動である。
今までありがとうと離れることももちろんある。
フォローの数に囚われ始めれば、たちまち害にもなることを知っていても損はない。
で、何がいいたいかというと、
もつさん、アドベントカレンダーにログインできません。
Googleのアカウントも作れないの。
どうしよう。困ってます。
お気持ちありがたく頂戴するタイプです。簡単に嬉しくなって調子に乗って頑張るタイプです。お金は大切にするタイプです。