助けるより認める
鶴、折れますか?
私ね、下手くそなんです。
角と角をきっちり合わせて折り始めないと、出来上がりに多少難ありになりますよね。
初めましてってかなり重要。そのひと折り目からずれてしまうと、綻びは徐々に確実に仕上がりに影響する。
鶴を折るイメージをしながら、今、自分の仕事のどこをどうしたら、最終的に、納得のいく鶴の仕上がりになるのかを考えています。
私の仕事は、調整、仲介を主にしています。
普段であれば、日程やサービス量というわかりやすいものを扱っています。
ただ、時に感情や想いといった目には見えないものを、委ねられることがあります。
サービスを提供する側と受ける側。
そこには介護に対する事情や感情に多少のすれ違いが生じることがあります。
私は自身が長く、サービスを提供する側だったこともあり、その葛藤や主張を理解することは容易いです。
ただし、ご家族の心情ややむにやまれずサービスを利用して、その結果にがっかりしたり、悩んだりする様子も近くで見ています。
その間に入った時には、もちろんご家族の味方です。
なぜならば、そのために存在しているから。
本来、サービスとは選ばれるものです。
しかし、現状は選ばれているのはお客様であることもあります。
お客様なのに、理由をつけられてサービスを制限されたり、条件をつけられることは珍しいことではありません。
もちろん、心身をすり減らして寄り添い、受け入れてご家族の拠り所になってくださる人や施設はたくさんあります。
そうありたいと願い、働く人も思い浮かべることができます。
ただ、鶴の最初の三角が少しずれ、次の三角が少しずれ、そうしているうちにどこか投げやりになり、鶴を折ること自体を諦めてしまうような、そんな事態を今、抱えています。
お互いにもう一度、最初から。となれば
折り目のついた紙をアイロンで伸ばすぐらい私も熱くなれるのですが、
一度、ついてしまった折り目は、なかったことにするには難しいなと感じています。
介護を自らの使命のように抱えて生きている人がいます。
私は今まで、そのことをずっとどうにかしたいと考えてきました。
その人自身の人生を大事にしてほしいと感じていたからです。
それは間違いでした。
その人が人生を賭けてしている介護を、私が否定しているということでした。
きっとその人は、私の助けたいに気づいていて素知らぬふりをしていました。
その人は、助けたいがほしいのではなかった。
きっと、ずっと、この生活をこの介護を、私に認めてほしかったのではないか。
そんな風に思いました。
私はただ、介護を労い、生活を肯定し、そして寄り添うというそのことを疎かにしていて、それでいて閉塞感を打破しようと躍起でした。
今回、事業所とお客さんの板挟みのような状況になり、
折り合えないもどかしさの中で見えたのは
自分のこれまでのエゴや、不足でした。
鶴は出来上がらないかもしれない。
それでも、私が新たに得た気づきが、新しい鶴を折る時の、慎重に繋がるような気がしています。
幾つになっても、鶴はうまく折れる可能性があるのかもしれません。
お気持ちありがたく頂戴するタイプです。簡単に嬉しくなって調子に乗って頑張るタイプです。お金は大切にするタイプです。