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《世界史》第二次世界大戦

こんにちは。
Ayaです。
今日はミュンヘン会議から第二次世界大戦まで取り上げます。

ミュンヘン会議(1938)

『総統』として権力を把握したヒトラー。ベルリン・オリンピックを成功させ、国民の人気はさらに高まりました。またヴェルサイユ条約で禁止されていた再軍備にも着手していきます。
『ドイツ人の生存圏拡大』を旗印に領土拡大の野心が顕在化していきます。オリンピック前にはラインラント(独仏国境付近)への進駐を行い、1938年には故郷オーストリアを併合します。オーストリアは不況に苦しんでおり、この併合は歓迎されました。
次に狙いを定めたのが、チェコスロヴァキアのズデーテン地方です。この地方は伝統的にドイツ系住民が多く、その保護を根拠にチェコスロヴァキア政府に割譲を要求します。チェンバレン英首相やダラティエ仏大統領が仲介に乗り出し、ミュンヘンで会議を開きます。いわゆる『ミュンヘン会議』です。

ミュンヘン会議の参加者たち
チェンバレン、ダラティエ、ヒトラー、ムッソリーニ


しかし、当事者であるはずのチェコスロヴァキア代表は呼ばれず、ヒトラー、ムッソリーニ、チェンバレン、ダラティエの4首脳のみでした。ヒトラーを刺激するのを避けたかったチェンバレンらはヒトラーの『領土の請求は最後』という言葉を信じ、チェコスロヴァキア政府に説得してズデーテン地方を割譲させます。チェンバレンは平和を維持したと賞賛されましたが、脆くも崩れ去ります。
ドイツはズデーテン地方のみならず、全土に侵略したのです。チェコスロヴァキアの崩壊です。世界が唖然としている中ヒトラーは次の手をうちます。

独ソ不可侵条約とポーランド侵攻、第二次世界大戦へ(1939)

ソ連との独ソ不可侵条約の締結は、世界中に衝撃を与えました。イデオロギー的に正反対のナチスと共産党が手を結んだのです。世界は第一次世界大戦の恐怖を思い出しましたし、ソ連とドイツはポーランド侵攻への野合で手を結んだのです。
手を組んだドイツとソ連は、ポーランドに攻め込みます。第二次世界大戦の勃発です。最新型の武器で武装していたドイツ・ソ連両軍の前に、ポーランド軍は勇敢に戦いましたが、投降します。
翌年には西ヨーロッパへの侵攻を開始します。ノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクを陥落させ、6月にはフランスも占領します。占領地各地ではヴィジー政権(仏)のような傀儡政権を立て、支配を確立していきます。

エッフェル塔を訪ねるヒトラー

フランスを陥落させた後、イギリスを狙いましたが、チャーチル英首相の必死の抵抗を受け、断念します。
西ヨーロッパへの進出が阻まれると、ポーランド侵攻で野合したソ連に宣戦布告します。ヒトラーにとって、ユダヤ人と共産主義を『絶滅』させることこそ本来の目的だったのです。

白バラ運動(1942〜1943)

この頃になると、さすがにナチスに反対する者たちも出てきました。しかし、みなゲシュタポ(秘密警察)に捕われるのを恐れ、沈黙せざるを得ませんでした。そんな中、ミュンヘン大学の学生たちが立ち上がります。
メンバーはショル兄妹をはじめとする5人の学生たちと教授らでした。彼らは極秘裏に反ナチスのビラを印刷し、配布していました。1943年ミュンヘン大学でゲシュタポに捕まってしまい、裁判にかけられます。裁判長は『ナチスの裁判官』と呼ばれたフライスラーでしたし、弁護士も弁護しないひどい裁判でした。メンバーは即刻死刑となりました。
彼らの運動は隠蔽され、人々に知られるのは戦後になってからでした。

白バラ運動
白バラ運動のモニュメント。ドイツではショル兄妹の名前を冠する小学校が多い。

ノルマンディー上陸作戦(1944)から自殺(1945)

ドイツのソ連への侵攻はソ連の準備不足もあり、当初は圧勝していました。ドイツ軍はモスクワまで十数キロメートルまで迫りましたが、寒さと補給の不足で長期戦となります。この間にソ連軍が体制を立て直し反撃に出ます。ドイツ軍はヒトラーの死守命令により必死に抵抗したため、なんとかしのぎますが、ソ連側は焦土作戦とパルチザン(住民のゲリラ部隊)で抵抗します。1943年スターリングラードの攻防戦に大敗し、風向きが変わります。
翌1944年にはソ連側の大反撃で、東部戦線が崩壊します。連合国側はこの機会を逃さず、6月6日ノルマンディー上陸作戦作戦を決行します。この作戦は『史上最大の作戦』と称されたもので、連合国側の200万人の兵士たちをドーバー海峡を渡ってノルマンディー海岸に上陸させるというものでした。ドイツ側はロンメル将軍など精鋭を配置しましたが、圧倒的人員不足で敗北しました。連合国側はフランスを奪回し、パリを解放します。

ノルマンディー上陸作戦

7月20日にはヒトラー暗殺未遂事件まで起こります。それまで何度か暗殺計画はありましたが、今回の首謀者はドイツ国軍の幹部グループで、ヒトラー自身は軽傷で済んだものの、ヒトラーの側近4名が犠牲になりました。犯人グループは捕われ即刻処刑され、関与を疑われた者たちも粛清されました。この事件はヒトラーの人間不信をさらに煽った出来事でした。

7月20日事件の実行犯シュタウフェンベルグ
名門貴族の出身。銃殺刑に処されたが、現在のドイツでは英雄とされている。

12月にはソ連軍によってプタベストが陥落し、ヒトラーは総統地下壕に立て篭もるようになり、国民の前から姿を消します。
ソ連軍はオーストリアも陥落させ、1945年4月にはベルリンに到達します。青年組織ヒトラー・ユーゲントや兵役年齢を超えた人々も駆り出され、死闘が繰り広げられます。同じ頃、盟友ムッソリーニが失脚し、愛人と共に処刑されます。享年61歳。
ナチス幹部からの裏切りも始まります。後継者ゲーリングや親衛隊長ヒムラーらが停戦交渉を理由にドイツから出国したのです。

ヘルマン・ゲーリング
第一次世界大戦の空軍の英雄として知られていた。第二位の地位だったが穏健派でヒトラーと対立することもあり、権力は弱体化していた。ニュルンベルグ裁判で裁かれ、服毒自殺した。
ハインリヒ・ヒムラー
親衛隊隊長。逃亡先でイギリス軍に逮捕され、自殺した。

この2人の行動に激怒したヒトラーでしたが、敗北を認めざるを得なくなります。遺書を認め、長年の愛人エヴァ・ブラウンと結婚。後継者にはデーニッツやゲッペルス、ポルマンを任じました。翌4月30日、エヴァとともに拳銃自殺します。享年56歳。
ヒトラーの遺体はすぐ焼却され、長年ソ連側も詳細を明かさなかったため、生存説が噂されました。1970年に掘り起こされ、完全に焼却された上遺灰はエルベ川に流されたことが、後に明らかになっています。

第二次世界大戦、まとめました。ヒトラーの野望がミュンヘン会議で見逃されたこと、それが全ての始まりでしょう。いつの戦争も始め方は一緒ですね‥。
明日はユダヤ人迫害についてです。今までで書いてきた中で一番重いテーマです。














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