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《日本史》道兼のこどもたち

こんにちは。
Ayaです。
幼き日の道長に暴力を振るい、まひろママを殺害した道兼。それが前々回から突然聖人化し、道長とともに民のための政治を目指しています。
アラタ道隆の死後、東三条院の『関白は兄弟の順に』という進言で、関白に就任した道兼。しかし、就任後すぐに病に倒れて亡くなってしまいます。そのため、『七日関白』と呼ばれることとなります。
今回はそんな彼のこどもたちについてです。道隆や道長のこどもたちより数が少ないですが、せっかくなので()まとめてみます。

(1)尊子(一条天皇女御)

すでに何度かとりあげている道兼と繁子(道長兄弟の叔母にして一条天皇の乳母)の間に生まれた娘です。ドラマでは正式に結婚していたような表現でしたが、この叔母との関係は道兼にとっては若気の至りだったらしく、この娘を認知していません。
しかし、母のゴリ押しによって、一条天皇に入内しました。最初は御匣殿別当という女官でしたが、最終的には女御にまでなっています。
さて、当時の女性たちは本名で呼ばれることは少なかった話は何度か書いていますが、もちろん天皇の妃である女御たちも例外ではありません。なので、使用している殿舎や実家の邸宅から『〇〇女御』と呼ばれていました。(例えば定子は登華殿を使用していたので、登華殿女御と呼ばれていました)。しかし、尊子は正式な殿舎ではなく母の居室を受け継いだので『暗戸屋女御』と呼ばれており、一条天皇の寵愛も受けることは少なかったようです。一条天皇の崩御後、参議の藤原通仁(済時の子)と再婚しました。その後、39歳で亡くなります。

(2)福足君

道兼は叔父にあたる遠量の娘を正妻としていましたが、兄道隆や弟道長のように何人もの妻妾を抱えることはありませんでした。ここから先の子どもたちは遠量の娘とのこどもたちです。
福足君は道兼にとって念願の嫡男で、祖父兼家の六十の賀で舞を舞うこととなります。しかし、その本番、福足君は機嫌を悪くして舞台から降りてしまいます。父の道兼はあたふたと見守るしかありませんでしたが、伯父の道隆が一緒に舞い、その場を納めたというエピソードが大鏡に書かれています。このときばかりは道兼も兄に感謝したことでしょう。こののち、福足君は夭折してしまいます。

(3)兼隆

福足君が夭折したため、道兼の嫡男となります。父が七日関白で亡くなったときはまだ若く、伊周のように道長に対抗する力はありませんでした。そのため、道長も彼の面倒を見ており、1002年には24歳の若さで参議に任じられました。しかし、道長の実子頼通や教通が成長すると追い抜かれ、最終的には中納言止まりでした。69歳で亡くなります。
下人に厩舎人を撲殺させたり、実資と井戸の使用を巡って対立したりで素行は芳しくなかったのですが、特に噂されたのが敦明親王(三条天皇皇子)との関係でした。道長と対立した三条天皇は敦成親王(後一条天皇)を即位させる代わりに、自身の長男・敦明親王を皇太子にすることを道長に認めさせます。勿論道長にとって敦明親王は邪魔者でしかなく、三条天皇の崩御後彼に皇太子を辞退させます。このときの実行犯が兼隆ではないかとされたのです。亡父の寛和の変の件もあり、『天皇・東宮には近づけてはならない一族だ』と噂されそうです。
また妻のひとりが紫式部の娘賢子で(のちに離婚していますが)、ドラマではどう描かれるのか気になります。

(4)兼綱

道兼の次男で、叔父にあたる道綱の養子となります。蔵人頭や近衛中将にも就任していましたが、兄と同じく敦明親王皇太子辞退事件に関与したとされ、越前守に左遷されます。その後は地方官を転々とし、71歳で亡くなります。
趣味人として有名で、賀茂祭で派手な牛車で見物しようとしました。和泉式部ら風流人からは褒められましたが、多くの人々の顰蹙を買い、結局その牛車は使わなかったというエピソードが大鏡に書かれています。

(5)二条殿御方(威子女房)

彼女の出生前に父が亡くなりました。母はその後顕光と再婚したため、彼女はその庇護下で成長したと考えられます。また亡父に世話になった行成らからも気にかけてもらっていたようです。
彼女が成長すると、母はすでに正妻を亡くしていた実資に結婚を打診します。しかし、実資は継父の顕光を毛嫌いしていたので、この縁談を断りました。ドラマのまひろとの縁談話はこの話がもととなっていると思われます。
結局、彼女は道長の娘威子に女房として仕えることとなります。

以上、道兼のこどもたちでした。人数が少ないのでちゃんと記事になるか不安だったのですが、十分な長さになりました。もともとこどもの数が少なかったのですが、長男兼隆以降公卿になる者はおらず、道兼の血筋は衰退していきます。(地方豪族・宇都宮氏は彼の子孫を自称していましたが)
第18回の予告を読んで、道兼が回の最中に亡くなるとわかり、急いで書きはじめました。
初回での蛮行がぶっ飛んでて、父兼家とともにダークヒーローだった道兼。悲願の関白になりますが、その就任期間はあまりにも短く、七日関白と揶揄されるほどでした。彼の死によって、道長と伊周の対決は全面的なものとなるのです。


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