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【神回】どうやって精神的安定を得たか②〜今では自分以外になりたくない(統合失調症と診断された私が、結婚・出産し、公務員になった話その13)

仕事が終わり、帰宅しました。まだお盆休みの旦那と子どもが待っている家に帰れるのは、滅多にないことで嬉しかったです。家はとっ散らかってたけどねっっ

さて、前回に引き続き「どうやって精神的安定を得たか」シリーズ。全5回くらいに分けて、できるだけ丁寧に書いていこうと思います。

お楽しみにね!

前回は「母親をゆるし、受容できたこと」を上げました。母親を自分と同じ人間だと同一化しないこと、親子といえども違う人間だと一線を引くことが大事だということを書きました。母親が自分にとって嫌なところだらけだとしても、それはあなたの姿ではありません。顔貌は似てても、それはあなたではありません。あなたはあなたであなたの道を行けばいいのです。あなたの理想の人になっていけばいいのです。母親を反面教師にしてもいいのです。私の子どもへの養育におけるスローガンは、「母親にされて嫌だったことはしない。母親にされて嬉しかったことはする。」です。親によってたくさん傷ついてきた時代も、子どもがされて嫌なこととされて嬉しいことのサンプルを収集できた良い機会だったと捉えて、子育てしてます‼️

前回の記事はこちら↓


さて、今回は「自分をゆるし、受容できたこと」それが、私の精神的安定に繋がったという話です。でも、これは生涯をかけて挑むべき大スペクタクルな案件です。私もまだ「自分をゆるしてる」途中です。それはきっと生涯続きます。けれど、あるレベルまで、精神の安定が得られるまで、そしてちょっとやそっとのことじゃ揺らがないレベルまで到達できたのは、2つの転機があったからです。2つの転機とは、26〜28歳頃二年間通った、精神科デイケアと、33歳のときの出産です。

精神科デイケアの話は、この記事で書いていますので、参考になさってください。私がどういうことを感じて過ごしてたかを書いてます。


33歳のときの出産は、スピがかった奥深い体験でした。妊娠中は、穏やかな平和な気持ちに包まれていました。確かに何かに守られている。母子ともに守られている。そんな確信のある安心感に包まれていました。妊娠中に、食欲が増進し、医師から食べ過ぎだ、体重が増え過ぎだ、このままだと薬を使って分娩しなくてはならないと怒られていました。娘は、あと一日遅かったら、薬を使っての分娩になっていました。しかし、ギリギリ使わずに済む日に産まれたのです。それも神がかってると思います。ちゃんとお腹の中で、母親に何が起こってるかわかってるようでした。何とか安産で産まれてきました。

統合失調症なのに、出産、子育てという道を選択したことを、無責任という人がいるかもしれません。だけど、私は医師との相談の上で、医師から了承をもらって決めました。生半可に決めたわけではありませんでした。寛解と言われてから長い月日が経っていた頃でした。統合失調症の方で、出産、子育てという選択をするか迷っている方がいましたら、私から言えるのは、医師との相談をしっかりして、状態が安定してから、様々なことを加味して決めた方がいいですよ、ということです。生半可な気持ちでは決めて欲しくないという思いが正直なところです。想像以上に気力も体力もいるのが、子育てです。特に赤ちゃんの頃は睡眠不足になるのは当然の世界です。状態が安定してからの選択をおすすめしたいです。

想像以上に気力も体力も持っていかれる子育てを経験しながら、私は自分を「ただただ健気に頑張ってる」と認め、自分を愛おしいとすら思えるようになっていきました。それは、自分の子どもに対しても、です。自分にも子どもにも、全く期待がないわけではないですが、何というのかな、世間的にこうあって欲しいと言われるような価値を求めてないというのかな、高学歴とかスポーツ万能とかいい勤め先に、とかいい結婚を、とか、ナイスバディとか、なんかそういうことに価値を求めるのが…昭和というのかな、平成というのかな、なんだか古臭い感じがするようになりました。別に悪さをするわけでもなく、健気に生きてる、自分なりに面白いことを見出しながら笑って生きてる、ただそれだけですごく愛おしく感じるのです。自分の子どもをそうやって見ながら、自分自身もそうやって見ている感覚です。その感覚は、私を心身ともに安定させます。ただ生命を受けて、光の方へ伸びていく花々のように、自分も伸びていく。そこに人間世界の条件とか価値観を付け加えない。最初は勇気がいることかもしれません。うるさく言う人にたじろいだり、周りに流されそうになることもあるかもしれません。だけど、この感覚になると、もう子どもは子ども以外の誰にもなって欲しくないし、自分は自分以外の誰にもなりたくなくなるのです。永野芽郁ちゃんになれる、と言われても、ちょっと立ち止まるけどやっぱ自分がいい、自分でいいっす、となりますw

いやいや惜しすぎるだろ

自分は自分が生きるにあたって、必要なものは全て持っている。あとはそれを活かすだけだ。私は私で生きるだけだ。統合失調症になったことも、今考えると、ギフトなのです。綺麗事ではなく、ギフトなのです。なぜって?今、noteを書けている。それだけで私にとっては統合失調症すらもギフトなのです。

今回は「自分をゆるし、受容できたこと」が精神的安定に繋がった話をしてきました。精神的安定シリーズはまだまだ続きます。あなたにとって大切な気づきとなりますように!

やっぱり永野芽郁ちゃん選びまーす
←もう手遅れ


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