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Living, Loving, Learning #002


メタファー的な理解とは、似ていないように見える対象のあいだの類似性を感知する能力である。アリストテレスの言葉にもあるように、「メタファーによって、新奇なものが理解しやすくなる」
ー共感覚者の驚くべき日常 リチャード・m・シトーウィック 山下篤子 訳 よりー

メタファー(たとえ話・比喩)的な理解がうまい人は、おそらく何を見ても感じても、言葉の背後にあるエネルギー状態で、直観的に世界をとらえる力が強いのではないかな、と思う。

ひとつのことをたくさんのメタファで多角的に言い表し、味わい、それを他者とわかちあいたいと望む人もいれば、全く逆のベクトルとして、背後は実はがらんどうなのに、キラキラした言葉を並べて気を引き、あたかも背後に素晴らしいエネルギーがあるかのように演出する人もいる。

けれど、その背後のエネルギーを感知したいと思わない多くの人は、悲しいことに後者の人々の言葉をありがたがり、真実だととらえる。

セールストークや政治は後者の代表例であり、これができてプロとみなされる職業ですね。

このことを走り書きしてから、もう4年がたった。この4年、わたしは東京で、いろいろな「会社」と呼ばれる職場で働き、ビジネスで交わされる言葉というものに、いろいろ考えさせられた。

「仕事なんだから、そういう風にあわせておけばいいじゃない」とみんな言う。だが、わたしたちは、人間として分裂しておらず、ひとりの統合的な存在なのだ。ある場面で、自分でないふるまいをしたことの、物語の続きは必ず、本体の自分に戻ってくる。それが一番端的にあらわれるのが、健康の場面だとわたしは思っている。

経済と健康は反比例する、とわたしはあるとき閃いた。
経済社会で善とされる試みは、生命体として心地よくあり、人間として霊的に成長していくことと、まるっきり反対である。だから実際、経済社会に沿えば沿うほど、弊害が身体にやってくる。

反比例しない生き方、を目指す人が増えることは、社会というものの定義が変わっていくことではないかな、とも思う。

今はまさに、その激動の時代に生きているのかもしれない。

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