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「鬼棲む冥府の十の後宮」第六話

 ■

 紅花が一人前の庭師となるまで、そう時間はかからなかった。最後の方は意地だった。庭師に認められるよう、夜も寝ずに御花園の手入れをした。花たちには『必死ネ』『くすくす』とからかわれた。
 庭師からこれなら送ってもいいと許可が出ると、天愛皇后はすぐに紅花を閻魔王の区域に送り出した。天愛皇后から送られた庭師だと伝えると、鬼の形相をした門番も素直に門を開けてくれた。

 真っ先に向かったのはあの桃源郷のような、桃の花が咲き誇る御花園だ。紅花は一応、天愛皇后から長子皇后に送られた庭師ということになっている。失礼のないよう、他の庭師に早めに挨拶しなければならなかった。
 長子皇后に雇われている庭師はほとんどが年配の見た目をしていて、紅花よりかなり年上だった。最近は足腰が痛いらしく、高い木の上まで登れる紅花は重宝された。

「おお、そこだ、そこ切っておくれ」

 先輩庭師たちの指示通りに余計な枝を切る。
 広い御花園の手入れをするのは大変で、数時間が経つ頃には汗だくになっていた。油条の入った粢飯《ツーファン》という軽食をもらって休憩していると、ふとまた桃の花の声が聞こえた。

『アナタ 聞こえてるでショ』
「…………」

 周りに先輩庭師たちがいなければ返事をするのだが、ここで返せば独り言の激しい変人だと思われてしまう。初日からそれは避けたいと思い、視線だけをちらりと花の方に向けた。

『主ヲ 助けて』

(……助ける、ねえ)

 人間の肩を持つ花と出会ったのは初めてだ。この桃の花々は長子皇后に余程大切にされているのだろう。

『主は 月の出る頃に必ずここニ来る』

 風が吹き、桃色と白色の花々が揺れた。

『主ニ会って 話シテ 助ケテ』

「――紅花ちゃん、どうした? 仕事再開するぞ」

 先輩庭師に呼びかけられ、はっとして立ち上がる。
 休憩の時間は終わった。桃の花のことが気になったが、先輩庭師に付いて他の箇所へ向かう。

(月の出る頃にここへ来れば、長子皇后に会える……)

 紅花はしばらく、閻魔王の区域の宮廷庭師と共に寝泊まりすることになっている。うまく寝床から抜け出せるだろうかと少し不安に思った。

 ■

 あっという間に一日が終わり、夜になった。
 大きないびきが響き渡っている。先輩庭師たちは爆睡していた。体を動かして疲れているのだろう。心配は無用だったようだ。
 紅花も疲れているが、いびきのうるささで眠気も吹き飛んだ。おかげで、起き上がってこっそりと寝床を抜け出すことができた。
 月が出ている。以前見たものとは違って少し欠けている。満ち欠けまでうまく再現しているらしい。さすが冥府の王だと感心しながら桃の花の咲く御花園に向かった。

 花たちが言っていた通り、月明かりの中、一人ぽつんと立っている女性がいた。長い黒髪をたなびかせ、今日も月を見上げている。この角度から見えるのは後ろ姿だけだ。また泣いているのだろうか、とその様子を物陰から窺っていた時、ふと何か蠢くものが長子皇后に近付いているのに気付いた。
 ――狂鬼だ。狂鬼はゆらゆらと不自然に体を動かしながら長子皇后の元へ向かっていく。当の長子皇后は、月をぼんやり眺めるばかりで全く動かない。

(警戒心がなさすぎるんじゃないの!?)

 仮にも皇后という立場にいるお方が、護衛も付けずに一人でこんな場所にいては危ない。ただでさえ冥府の後宮には狂鬼や幽鬼が現れるというのに――。
 ごちゃごちゃ考える暇もなく、紅花は慌てて走り出した。
 幸い、護身用に桃氏剣は持っている。魑魅斬にしつこく持っていけと言われたからだ。王に接触するつもりなら幽鬼が襲ってくる可能性も大いにあるだろうと。
 閻魔王の区域には閻魔王の区域の優秀な鬼殺しがいるだろうからどうせ使わないと思っていた。しかし、その予想は外れたようだ。

「――――伏せて!」

 長子皇后に向かって叫ぶ。
 振り返った長子皇后は、驚いたように目を見開き、反射的に紅花の命令通りに姿勢を低くする。

 長子皇后が伏せたのと、紅花が長子皇后に迫っていた狂鬼の肉体を桃氏剣で刺したのは、ほぼ同時だった。

『ヴ……アアアアああ』

 狂鬼が呻きながらその場に横たわる。桃氏剣を鬼の体から抜くと、紫色の血がどくどくと溢れ出た。
 紅花は剣を振ってその血をぴっと払い、蹲っている長子皇后に声をかける。

「この桃氏剣は、特別な素材でできています。この狂鬼は直に死ぬでしょう。鬼は死ぬと独特の異臭を放ちます。早くこの場を離れた方が良いかと」

 身分の高い温室育ちには辛い臭いだろう。さっさと立ち去った方が良い。

「……そなたは誰だ」

 長子皇后が口を開く。意外と男らしい口調だ。声も女性にしては低い。

「本日宋帝王様の区域より配属された、庭師でございます」
「そなたが?……あの女が突然贈り物と言うから何のつもりかと思ったが……ただの庭師ではないな?」
「ただの庭師ですが……」
「ただの庭師が、鬼を躊躇いもなく殺せるか。普通は怯んで動けぬものだ」
「ああ……それは、鬼殺しでもあるからです」
「鬼殺し?」
「元々鬼殺しをしていて、その……移動させられたといいますか」

 長子皇后はしばらく疑わしげに紅花を見つめていたが、「まあ良い」と視線を外した。

「助けてくれたこと、感謝する」

 礼を言えるのか、と驚いた。身分の高い者は身分の低い者に滅多に礼を言わない。高貴な者のために進んで動くのは、礼を言う必要もない、当然のことであるためだ。

(天愛皇后様も、長子皇后様も……変わっている)

 彼女たちは皇后であるにも拘わらず紅花のような鬼殺しを丁寧に扱う。不思議なものだ。
 そこで、紅花ははっとした。鬼の死体を回収するための箱まではここに持ち込んでいない。

「一緒にここを離れましょう、長子皇后様。今の私にはこれを処理できません。朝になればこの区域の鬼殺しが気付いて片付けてくださるはずです」
「あ、ああ……。そこまで酷い臭いなのか? 鬼の死体というのは」
「私の姉貴分は嗅いですぐ体調を崩しました。良くない臭いです」

 そう言うと、長子皇后は躊躇いながらもようやく御花園の外に付いてきた。遠回りになるが、御花園の反対側からでも宮殿には向かえる。危険なので送り届けると紅花は伝えた。
 歩いている最中、気になっていたことを問いかけてみる。

「何故月を見ていたのですか?」
「言わぬ」
「この前も見ていましたよね?」
「……そなたは何だ? ずけずけと。我の行動に口を出すな」
「貴女は皇后ですよ。深夜に一人であのようなところにいては、今日のように危険な目に遭いかねません」

 そう言ったところで、何故自分は恋敵の心配をしているのだろうと思った。長子皇后がいなくなれば皇后の座は空くだろう。そこに入り込めれば万々歳だ。しかし、そんな形で帝哀を奪うのは何か違う気がする。奪うのであれば正々堂々勝ち取りたい。

「……死んでしまっても構わないのだ、我は」

 紅花の思考を遮るように、長子皇后がぽつりと呟いた。

「……今、何と?」
「いつ死んでも構わぬ。我の生きる意味など、とうの昔に無くなった」
「はあーーーーーーー?」

 思わず、大きな声で聞き返してしまった。

「はあ? はあ? はあああああ? さすがにその物言いは、腹立つんですけど?」
「なっ……何だ急に」
「ご自分のお立場、理解してるわけ? 皇后よ? それも、帝哀様の区域の!」
「だから何だ」
「帝哀様の正妻ともあろうお方が、〝死んでも構わない〟? 世界一贅沢なお立場にありながら、よくもそんなことが言えるわね!」

 苛立ちが収まらず、長子皇后の進行方向に立ち塞がり、向かい合う。

「私は、帝哀様に一兆六千億年以上片思いしている元獄吏よ」
「…………」
「ついでに言うと、帝哀様を貴女から奪いたいと思っているわ。貴女がそんな態度なら、私が本気で殺すわよ。護衛がいない貴女に手を下すなんて簡単だもの」

 唖然。長子皇后は、その言葉がぴったりの顔をしている。

「……言葉の意味を、理解しているのか?」
「ええ。私は本気」
「……元獄吏ということは、帝哀には地獄に落とされたのだろう? 何故その帝哀を好きになった?」
「帝哀様は、私を地獄に落とした責任を取ってくれたからよ」

 その言葉を聞いて、長子皇后がはっとしたように黙り込んだ。その瞳は揺れていて、何故だか分からないが酷く動揺しているように見える。

「……そうか。であれば、我の死後はそなたにこの地位を譲る」

 地面に視線を落としたまま、長子皇后は言う。
 紅花は驚いた。彼女は本当に皇后の座に価値を感じていないらしい。そうでなければ、身分の低い鬼殺しの紅花に座を譲るなどとは言えないはずだ。

「本当にいいの?」
「ただ、我が遺言に遺したところで反対する者は多いだろう。特に我の家の者は……代々閻魔王の妃を育てている一族だ。王に娘を嫁入りさせて出世を図っているのさ。ぽっと出のそなたに皇后の座を渡すとは思えん。それこそ、閻魔王本人の特別な意思表示がない限り不可能だ」
「何だ、結局無理なんじゃない」

 つまらなくなった紅花は歩き出した。やはり正攻法――帝哀を恋に落とすことでしか、皇后にはなれなそうだ。

 それにしても、天愛皇后の命令の件はどうしたものか。当初の予定では、長子皇后かその元にいる侍女たちの誰かと友好的な関係を築いて祭事の準備について聞き出すつもりだった。しかし、これでは長子皇后との友好の道は絶たれたといえよう。本音を喋りすぎたと後悔した。

「そなたは、しばらくここにいるのだったな」
「ええ、まあ。帝哀様とも会いたいですし」
「であれば、明日の夜、また桃の庭に来い。用心棒が欲しい」
「長子皇后様なら、もっと優秀な護衛がいらっしゃるでしょう」
「そなたが良い」

 何故か指名されてしまった。無礼な態度を取ったにも拘わらず。
 不可解な点はもう一つある。狂鬼に襲われかけたのに、どうしてまだ夜に御花園へ行きたがるのだろう。普通は恐ろしくなって行くのを控えるところだ。

「……月はそんなに良いもの?」

 確かに美しいとは思うが、危険を犯してまで毎晩見に行く程ではないのではないか。疑問に感じて聞くと、長子皇后は薄く笑った。暗闇によく溶け込む、少し恐ろしい笑みだった。

「我も、一兆六千億年以上、恋をしておるからな」

 ■

(恋……)

 長子皇后の昨日の発言が気になって、翌日まで考え込んでしまった。

(………………月に?)

 天体に恋しているとは、変わった趣味だ。
 一瞬自分も帝哀が好きだと宣戦布告されているのかと焦ったが、昨日のあの言い方で帝哀が好きということはないだろう。どちらかと言えば、長子皇后は皇后であることに対して投げやりに見えた。

(彼女が生物でないものに恋をする趣味なら、帝哀様と両思いになることもない。その点は安心だけれど……)

 先輩庭師に伝えられた通り雑草を抜きながら考え込んでいると、不意に紅花以外の影がうつった。
 見上げると、そこには飛龍が立っている。

「げっ」
「……君さぁ、王を見てその反応はないんじゃない?」
「……失礼しました。お忙しいんじゃなかったの? どうして閻魔王様の区域にいるのよ」
「そりゃ忙しいけど、君が庭師として泥だらけで造園してるって聞いて、居ても立っても居られなくてさ。こんな愉快なことってある?」
「ちょっと愉快さが分からないわね。私と貴方の笑いどころって違うみたい」

 くっくっくっと笑う飛龍は、朝から動き回って汗だくの紅花とは違い、涼し気な顔をしている。何だか腹が立った。

「笑いものにしにきたなら帰ってくれる?」
「いや、本当は天愛に言われて来たんだよね。君が元気にやってるか見てこいだってさ。天愛は君のことを心配してたよ。他所の区域の者にいじめられてないかってね。ったく、君ばっかり天愛に気にかけられてて嫉妬するなあ」
「……貴方から寝取るのも悪くないかもね」
「あ?」

 冗談のつもりだったのだが、予想していた以上に低い声を返された。

「調子乗んなよ。天愛に手を出されるくらいならその前に俺が君の体を奪って服従させる。毎夜俺の下で力なく喘ぐ覚悟はある?」
「そんなに本気にしなくてもいいじゃない。私に女色の趣味はないわ。天愛皇后様にも手を出さないから安心して」

 呆れていると、向こうから先輩庭師がやってきた。

 人が来たことに気付いた飛龍はつまらなそうに去っていく。
 宋帝王が来ていると分かれば人々はその姿を一目見ようと集まり出すだろう。面倒事は避けたいらしい。
 軒車に乗り込む飛龍を眺めていると、先輩庭師が小声で聞いてきた。

「今のって宋帝王様だよな? 紅花ちゃん、王様と面識あるのか!?」

 その目はきらきらしている。王というのは後宮の憧れの存在だ。話を聞きたくてたまらないのだろう。
 紅花は仕方なく、作業をしながら自分の知っている宋帝王のあり方について長く話す羽目になった。

 庭師としての一日の仕事が終わる夕刻、久しぶりに水で身を清めていると、黒い鳥が紅花の頭上を通り過ぎた。冥府に広く生息する怪鳥で、普段は地獄の方で仕事をしている。落下する亡者を痛め付ける、火を吐く鳥だ。十六小地獄でよく見た。
 体を拭き荷物を持って長子皇后の宮殿の方へ向かっていると、途中、門の傍で誰かが倒れているのを見かけた。目を細めればすぐに分かった。――閻魔王、帝哀だ。
 日々忙しいはずの彼の姿を拝める機会はそうない。走って近付こうとした時、両脇にいる書記官の声が聞こえた。

「困ります、帝哀様」
「本日の罰は終了しておりません。立ってください」

 近付くごとに、帝哀の姿がはっきり見えてくる。
 帝哀の体は服から焼け爛れていた。骨まで見えている。おそらく罰を受けた直後なのだろう。帝哀のそんな火傷だらけの酷い姿を見ても、二人の書記官は淡々としている。

「この後も裁判がございます。罰などはさっさと終わらせねば。早く動いてください」

 帝哀の片足はなくなっている。あれを治す前に、更に罰を受けさせようというのか。紅花の目には書記官が本物の鬼に映った。
 走っていき、一本の足で立ち上がろうとする帝哀の前に立ちはだかった。
 突然の邪魔に驚いたのか、書記官たちが目を見開く。

「誰ですか、貴女は」
「桃の花園の庭師、紅花」
「王の前に許可なく立つなど、無礼極まりない」
「貴方たちが帝哀様をいじめているからよ! こんな状態のこの人をどこに連れて行く気!?」
「いじめている? これは冥府の決まりです」
「だからって、少しも休ませないわけ!?」

 閻魔王は、人を裁いて地獄に落とした罰を受ける。紅花はそんな帝哀の、人を罰した責任を取るところに惚れ込んだ。しかし、実際に帝哀のこんな姿を見ると、あまりの惨さを感じ、止めたくなってしまう。

「閻魔王様はお忙しいのです。休んでいる暇などありません。我々の時間を奪うのなら、貴女にも罰を与えますよ」
「――構わない」
「……はい?」
「罰を受けても構わないと言っているの。帝哀様の代わりに、私が銅を飲んでやるわ。その後は、熱した鉄板にでも押し付けなさい。私は何でも受け入れる」

 閻魔王は、死者を裁いた責任としてどろどろに溶けた銅を飲む。紅花はその罰をかわりに背負うと申し出たのだ。
 書記官二人は目を見合わせ、ふむと頷く。

「身代わりですか」
「確かに、身代わりがあればいいという決まりもありましたね」

 書記官は頷き、「この者を連れていきなさい」と周囲の鬼に命令した。すると、鬼たちは紅花の両腕を掴み、恐ろしい速さで移動する。そんなにがっしり掴まなくても逃げないのに、と紅花は溜め息を吐いた。
 後ろから「待て!」と帝哀の怒鳴る声が聞こえたが、その声は火傷のためか掠れていた。



 熱された板に何度も押し付けられ、感覚が麻痺してきた時、ふと思い出す生前の記憶があった。

 紅花は生前、総面積の大きい大国の片隅、政府からも見捨てられた山脈の麓、少数民族のいる地域に住んでいた。その場所では閻魔王信仰が強く、悪いことをすれば必ず死後閻魔王に罰されると言われていた。各家庭に一体は閻魔王の小さな像があり、それを祀るのが風習だった。
 そして、そんな信仰があるにも拘わらず、貧困により治安は悪化していった。麓に住む人々は今に精一杯だったのだ。死後どうなっても構わない、今を生き延びられたらそれでいいと思っていたのだろう。

 そんな中、紅花だけは、家の物を盗まれた時も必死に集めた食料を奪われた時も性的暴行を受けた時も阿片中毒の両親に熱された鍋に押し付けられた時も手足を折られた時も、歯を食いしばって耐えていた。

 ――――いつかあいつらは閻魔王が罰してくれると思っていたから。

 悪い人は皆いつか罰を受ける。だから紅花は不幸なわけではない。復讐は閻魔王が行ってくれる。酷い目に遭った紅花よりも何倍も、閻魔王が彼らを苦しめてくれる。

「好き、好き、閻魔王様。私を救ってくださいますよね。憎い、憎い憎い憎い憎いあの人達は、貴方によっていつか罰を受ける。あはは、ざまあみろ、閻魔王様、貴方の前では皆無力。いつかいつかいつかいつかいつか、私のために彼らを、お父さんを、ずっとずっとずっとずっと気が遠くなる程の時間、罰してくださいね!」

 部屋の一角に祀られている閻魔王の像に向かって、笑いながらぶつぶつとそのようなことを呟く日々だった。

 雪がふぶき、風の激しいある日、家に帰ると血溜まりができていた。
 倒れている父親と、その父親の前に座っているやつれた母親。

「母ちゃん、父ちゃんのこと殺しちゃった」

 耳を疑った。

「あのひと、もう、無理だったの。もう、阿片のことばかりで。母ちゃんもほしぃい、って、言っているのに、くれなくて。母ちゃんの分まで、奪って。母ちゃんがあれをもらうのにどれだけ苦労したか、知らないくせに。奪いやがって。死ね、死ねえって思ってたら、動かなくなっちゃった」

 父親を見下ろしていた母がゆっくりと紅花を振り返る。その目には生気がなく、人間と呼んで良いのかも怪しかった。母も、すっかり薬物に冒されている。

「紅花、紅花がしたって言ってくれる?」
「……え?」

 母の目は据わっている。口元だけに微笑を浮かべながら、ゆらりゆらりと紅花に近付く。呆然としているうちに、血塗れの包丁の柄を持たされた。

「母ちゃん、母ちゃんがしたって思われたくない。閻魔王様の像に、〝私がしました〟って言って頂戴。でないと母ちゃん、地獄行き」

 手元にある、ぬるりとした血の感覚で動けない。

「母ちゃんの代わりに、地獄に落ちてよ」

 その瞬間、紅花の中でぷつりと何かが切れた。

「何で私が……子供が、親の殺人の責任取らなきゃいけないの! あんたが殺したんでしょ!」

 紅花が怒鳴ったのは初めてのことだった。どれだけ殴っても大人しくしていた紅花の豹変に驚いたのか、一瞬狼狽えた母だったが、すぐに反論してくる。

「はあ!? 産んであげたんだからそれくらいやりなさいよ! どんだけ腹痛めたと思ってんの! こんなろくに食料もない土地で、その年まで生きてこられたのは誰のおかげ!? ほら! 言いなさい!」

 母は、叫びながら何度も紅花の頬を叩く。

「親不孝者! 死ね! 死ね死ね死ね死ね死ね! 母ちゃんが地獄に落ちてもいいって言うの!? どれだけ苦しもうと知らん顔する気!? さっさと閻魔王様に謝れよ! 私は殺人を犯しましたって言え!!」

 鼓膜を破られるような感覚になる、母の甲高い声が、ずっと苦手だった。

 母が手を振り上げた時、防衛本能が働いた。
 ――また打たれる。
 気付けば紅花は、手元にあった刃で母を貫いていた。

 呆気なかった。母は紅花を最期まで睨み付けていたが、徐々にその目に色はなくなっていった。目の前に広がる血の海と、二つの死体。
 ふと顔を上げると、鏡に血を浴びた自分の姿が映った。
 その瞬間、酷い罪悪感に襲われた。自覚してしまった。一人の人間の命を自らの手で終わらせてしまったのだと。

 紅花は部屋の中をふらふらと彷徨い歩いた。そして、祀られている閻魔王の像を見上げて、手に取った。閻魔王の像は神々しかった。

「私も一緒に、罰してくれますか」

 紅花は、足から崩れ落ちた。閻魔王の像を抱いて啜り泣いた。

「貴方に会いに、地獄に行きます――」

 そう言って、紅花は自死した。

(そうか)

 溶けた銅を飲み込みながら、生前のことを思い出した紅花は納得する。

(私は生前から、閻魔王様が心の支えだったんだ。だからこんなに好きなんだ)

 ■

 目を覚ますと、見慣れない天井があった。息を吸うと激痛が走る。喉が痛い。死んだ方がましだと思う程に痛い。

(嗚呼、懐かしい)

 死んだ方がましだという感覚は、地獄で一兆年間味わってきたものだ。久しぶりの感覚に懐かしさを覚えていると、横から物音がした。
 はっとしてそちらを向けば、愛しい王――帝哀がそこにいる。紅緋色の短髪と、深緋色に輝く瞳。火傷痕はもう治っている。裁判官としての格好でなく、部屋着のような軽い服の間から厚い胸板が見えてどきどきした。

「こ……げほっ、ここはどこですか……ごほっ、どうして貴方がここに……?」
「喋るな。冥界の者は怪我の治りが早いとはいえ、まだ万全ではないだろう」

 体の火傷は治っている。帝哀が治癒能力を持つ鬼を呼んでくれたのだろう。

「ここは俺の養心殿の一室だ。お前を運んでもらった」

 養心殿は帝哀の寝室のある宮殿である。
 帝哀と密室に二人きり。火傷とは関係なく、身体が熱くなっていくのを感じる。

「俺の書記官には、桃の花園の庭師と名乗っていたな。お前は鬼殺しではなかったのか?」
「鬼殺しでもあり、最近庭師になりました」

 即答した。嘘が嫌いな帝哀に、嘘を吐いたと思われたくなかった。

「何故、宋帝王の区域に所属しているお前が桃の花園の庭師に?」
「天愛皇后様に送っていただきました」
「天愛皇后が……。珍しい。お前は彼女に気に入られているのだな」

 帝哀の大きな手が紅花の喉に触れる。

「この火傷痕もそのうち消えるだろう。しばらくは安静にしていろ」

 こんなに近くに、生前から恋い焦がれていた人がいる。まだ動けないとでも言ってずっとここに居させてもらおうかとも思ったが、帝哀相手に嘘を吐かないと言った手前、そんなことはできない。
 代わりに確認した。

「……あの、身代わりって有効なんですよね?」
「何故そんなことを聞く?」
「あの書記官たちが言っていたので……。それと、帝哀様は治る間もなく罰を受けているから、火傷痕が治らないのですよね? なら、今日のように代わりに私が罰を受けます」
「……自分が何を言っているのか分かっているのか? お前は罰が嫌じゃないのか」
「こう見えて地獄上がりですから。痛みや苦しみは慣れたものです」

 帝哀はぽかんとした。彼はいつも険しい顔をしているため、それに比べたら間の抜けた、珍しい表情であるように思った。




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