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「鬼棲む冥府の十の後宮」第九話


 ■

 紅花が去った後、飛龍が帝哀を見て言った。

「意外だったよ。随分紅花に入れ込んでるんだね?」

 口元は笑っているがその目は冷たく、面白く思っていないことが感じ取れる。

「かの閻魔王が、何の後ろ盾も教養もない少女を気に入るなんて非合理的なことをするとは思わなかったな」
「お前も身分の低い女を正妻に迎えただろう」
「人間は嫌いなんじゃなかったの?」
「あいつは他の人間とは違う。歪だが真っ直ぐで、馬鹿正直で、俺のことを愛している」
「そんなの分かんないよ。人間には知恵がある。人は嘘を吐くし他人を騙す。そういう生き物だ。これまで気が遠くなる程の数の裁判をこなしてきて、嫌という程理解しただろ? 一度は地獄に堕ちたような女のこと、信じられるって言うの?」

 発言が飛龍らしくない――そう思った。

「お前こそ何だ? 妙に突っかかってくるな。紅花が好きなのか」

 飛龍は紅花のことを気にかけている。複数いる妃たちを皆平等に溺愛し、誰一人寂しくせぬよう努力している愛妻家として知られている男だが、妃以外の女性には興味のない男だったはずだ。妃たちを不快にさせないために遊び相手としてなら同性を選んでいる。
 飛龍はきょとんとした後、顔を真っ赤にして言い返してきた。

「はっ……はぁぁあああ~!? 俺が!? 何言ってんの!?」

 初めて見る表情であるため少し驚く。

「この俺が、冥府の最下層元獄吏の女なんかに恋すると思ってんのかよ」
「さっきも言ったが、お前は獄吏どころか奴隷の女を気に入りすぎて正妻にした前科持ちだろ。紅花を好きになってもおかしくはない」
「確かに、身分の低い女にしては堂々と言い返してくる強気なところは鼻っ柱へし折ってやりたくなるけどぉ~……別に、それだけだしぃ?」

 飛龍が誤魔化すように目を逸らす。
 成る程。自覚はないようだが、飛龍の好みは、〝身分差にも拘わらず強気に物を言う女〟らしい。思い返してみれば長子皇后もそうだった。
 それを理解したうえで、帝哀は釘を刺す。

「言っておくが、渡さない」

 彼女を深く知るたび、自分に似ていると感じていた。
 大昔、閻魔王としての仕事に疲弊した帝哀の父は、帝哀に代わりに罰を受けてくれと言った。次期閻魔王となるのであれば今から慣れておいた方がよいと。
 それは、帝哀のためであると見せかけて、ただ単に息子を犠牲に自分が助かりたいだけの、身勝手な発言だった。愛情は容易に憎悪に変わる。当時子供だった帝哀は父への憎しみを抱き、疲弊した父に毒を盛り続けた。計画通り父は見るからに憔悴してゆき、これでは王としての役目を果たせないと判断され、冥府を追放された。
 人間は利己的な生き物だ。飛龍の言う通り、それは嫌という程分かっている。
 だがそれでも――自分に罰を押し付けるのではなく、初めて代わりに引き受けてくれた紅花を、手放したくないと思うのだ。

(俺はあの女を手に入れたい)

 何を犠牲にしても。

 もうこれ以上人を憎しみ続けないために。

 彼女を信じてみたかった。 ■

 紅花が去った後、飛龍が帝哀を見て言った。

「意外だったよ。随分紅花に入れ込んでるんだね?」

 口元は笑っているがその目は冷たく、面白く思っていないことが感じ取れる。

「かの閻魔王が、何の後ろ盾も教養もない少女を気に入るなんて非合理的なことをするとは思わなかったな」
「お前も身分の低い女を正妻に迎えただろう」
「人間は嫌いなんじゃなかったの?」
「あいつは他の人間とは違う。歪だが真っ直ぐで、馬鹿正直で、俺のことを愛している」
「そんなの分かんないよ。人間には知恵がある。人は嘘を吐くし他人を騙す。そういう生き物だ。これまで気が遠くなる程の数の裁判をこなしてきて、嫌という程理解しただろ? 一度は地獄に堕ちたような女のこと、信じられるって言うの?」

 発言が飛龍らしくない――そう思った。

「お前こそ何だ? 妙に突っかかってくるな。紅花が好きなのか」

 飛龍は紅花のことを気にかけている。複数いる妃たちを皆平等に溺愛し、誰一人寂しくせぬよう努力している愛妻家として知られている男だが、妃以外の女性には興味のない男だったはずだ。妃たちを不快にさせないために遊び相手としてなら同性を選んでいる。
 飛龍はきょとんとした後、顔を真っ赤にして言い返してきた。

「はっ……はぁぁあああ~!? 俺が!? 何言ってんの!?」

 初めて見る表情であるため少し驚く。

「この俺が、冥府の最下層元獄吏の女なんかに恋すると思ってんのかよ」
「さっきも言ったが、お前は獄吏どころか奴隷の女を気に入りすぎて正妻にした前科持ちだろ。紅花を好きになってもおかしくはない」
「確かに、身分の低い女にしては堂々と言い返してくる強気なところは鼻っ柱へし折ってやりたくなるけどぉ~……別に、それだけだしぃ?」

 飛龍が誤魔化すように目を逸らす。
 成る程。自覚はないようだが、飛龍の好みは、〝身分差にも拘わらず強気に物を言う女〟らしい。思い返してみれば長子皇后もそうだった。
 それを理解したうえで、帝哀は釘を刺す。

「言っておくが、渡さない」

 彼女を深く知るたび、自分に似ていると感じていた。
 大昔、閻魔王としての仕事に疲弊した帝哀の父は、帝哀に代わりに罰を受けてくれと言った。次期閻魔王となるのであれば今から慣れておいた方がよいと。
 それは、帝哀のためであると見せかけて、ただ単に息子を犠牲に自分が助かりたいだけの、身勝手な発言だった。愛情は容易に憎悪に変わる。当時子供だった帝哀は父への憎しみを抱き、疲弊した父に毒を盛り続けた。計画通り父は見るからに憔悴してゆき、これでは王としての役目を果たせないと判断され、冥府を追放された。
 人間は利己的な生き物だ。飛龍の言う通り、それは嫌という程分かっている。
 だがそれでも――自分に罰を押し付けるのではなく、初めて代わりに引き受けてくれた紅花を、手放したくないと思うのだ。

(俺はあの女を手に入れたい)

 何を犠牲にしても。

 もうこれ以上人を憎しみ続けないために。

 彼女を信じてみたかった。


 ■

 宮殿に到着すると、前回とは異なる部屋に案内された。書物庫のような場所だ。古い紙の匂いの中に、香ばしい茶の匂いが混ざる。
 紅花は目の前の長子皇后に疑問を投げかけた。

「明日は元宵節なのに、こんなに悠長にしていていいの? 舞う予定なのでしょう」
「舞いは昔から得意なんだ。練習などせずとも問題はない」

 湯気の出る茶を飲む長子皇后の姿は優雅だった。何をしていても絵になる女性だと改めて思う。

「他の妃たちは必死なのに、そんなこと言ってたら恨みを買うわよ」
「恨まれるのが怖かったら皇后の地位は務まらん」

 ふ、と長子皇后が馬鹿にしたように笑う。
 確かに皇后という立場は、悪いことを何もしていなくても嫉妬される対象だ。幼い頃から次期皇后候補の主力だった長子皇后にとっては、恨みなど慣れたものだろう。

 ふと、長子皇后が茶器を置いて紅花に話しかける。

「紅花」
「……何?」
「そこの棚にある書を取ってくれぬか。今日の服は重くてかなわん」
「ここ?」

 長子皇后が指を指して示したのは、かなり高い位置にある書物だ。紅花は身長が足りなかったため、台を用いて何とか手を伸ばす。

 その時――書物を引く時に引っかかったのか、上からぐらりと何かが落ちてきた。

 大きな音を立てて文の箱が落ちた。床にばら撒かれたのは大量の文だった。何と書いてあるのか紅花には分からない。
 ただ、名前だけは読めた――前の閻魔王、帝哀の父の名が書かれている。

「見られてしまったな」

 手紙を拾い上げて元の場所に直していると、後ろから長子皇后が歩いてきた。

「構わない。言い訳はせん」
「……え?」
「帝哀に見せるなり、天愛に見せるなり、好きにしろ」
「…………」
「何だその顔は? 驚きすぎて声も出ないか」
「いや……あの、何を言っているの?」
「は?」
「どうしてこの手紙を帝哀様に見せる必要があるの?」
「何をとぼけている。見れば分かるだろう」
「私、冥府の文字は読めないのよね」

 長子皇后は口をぽかんと開けたまま固まった。

「な……そんな馬鹿な……天愛が送り付けてきた間諜が、そんな無能なわけないだろう!」
「無能って何よ。私、ただの元獄吏だもの。基本的に冥府では肉体労働しかやったことないの。……っていうか間諜だと気付いてたわけ?」

 衝撃を受けたように震えた長子皇后は、叫ぶように言った。

「――その手紙は! 我と生前の前閻魔王が交わしていた恋文だ!」

 はっとした。だから帝哀の父の名が書かれているのか。
 言われてみれば、思い当たることはいくつもある。桃の木を大切にしていたのは、帝哀の父と一緒に計画して植えたものだから。月を愛しそうに見上げていたのは、あの月が帝哀の父の遺したものだから。
 そして、帝哀の父は今、閻魔王の座を降り、生まれ変わって現世にいる。
 長子皇后のこれまでの発言を思い返すと、型に何かが嵌まっていくように、

 ――長子皇后は死にたいのだ。死して、愛する男のいる現世に向かいたいのだ。

「そなたが宋帝王の区域から来ると聞いた時、またとない機会だと思った。あの天愛が送り込んできたということは、大方我の粗探しに違いないと思った。我の侍女に馬鹿にされた仕返しに、我の格を下げようと、弱みを握ろうと送り込んだ間諜だろうと思った」
「……天愛皇后様の名誉のために言っておくけれど、天愛皇后様は誰かの足を引っ張るような方ではないわ。あくまでも元宵節で正々堂々貴女に恥をかかせてやろうとしていた程度よ」
「ああ、そのようだな。しかしその程度では困る。本気で、我をこの座から引き下ろし、冥府を追放させるくらいの悪意でなくてはならない。……我を敵視するそなたならそれができると思った」

 ――そうか。花たちが助けてと言ったのは、長子皇后の計画の手伝いをしろという意味だったのだ。

「元宵節の舞の場で、我の移り気を暴露してくれないか。そうすれば、我はきっと死罪となる」

 長子皇后は、真剣な表情で、あろうことか自身を陥れよと命じてくる。
 紅花は冷静に指摘した。

「……それだけで死罪になるとは思えないわね。既に皇后の座に付いている者を降ろすことは難しいのでしょう。貴女には力のある後ろ盾がある。揉み消されるに決まっているわ」
「だから、元宵節で、皆の前で暴いてほしいのだ。揉み消されぬように」
「まだ帝哀様のお父上がこの冥府に居た頃の話なんでしょう? きっと、一時の気の迷いとして片付けられるんじゃない? それに――帝哀様も、そんなことで激怒して貴女を追い出す程、貴女のことを愛してはいない」

 紅花が言い切ると、長子皇后はその遠慮のない物言いに少し驚いたような顔をした後、ゆるりと口角を上げた。

「……言ってくれる」

 その計画は無謀だと伝えたにも拘わらず、満足げに笑っている。

「やはりそなたには度胸がある。この我を前にしてそのような口を利けるのだからな。――ますます、この役割をそなたに課したくなった。紅花よ、我の手駒となれ」

 長子皇后は立ち上がって紅花に一歩近付き、紅花の顎に触れて顔を上げさせた。
 紅花よりも身長の高い長子皇后は、その澄んだ瞳で紅花を見下ろす。

「王たちの元に鬼を送りたい。そなたには鬼を操る力があるのだろう」
「前も言ったけれど、操る力じゃないわ。鬼の心を読む力よ」
「同じようなものだ」

 前回、幽鬼の心を読んで対処する姿を見せなければよかったかもしれない。そうしたら、このような面倒事には巻き込まれなかっただろう。
 返事をしない紅花に向けて、長子皇后はなおも続ける。

「筋書きはこうだ。我が前閻魔王への恋心を拗らせて乱心し、十王を殺そうとする。これなら立派な反逆行為だろう? おそらく冥府の十王が集まり、会議が開かれることになる」
「十王の会議……」
「冥府の決まり事は代々十王が決めている。変更も十王の過半数の許可が必要だ。そこで――皇后は衰えるまで退位できないなどという決まり事を、変えてもらう」

 紅花はおかしくなってきて短い笑いを漏らした。

「本気?」

 長子皇后は片側の口角を上げて返す。

「冗談でこのようなことを言うとでも?」
「本気でできると思っているの」
「できるさ。――そなたのよく知る宋帝王は、一人の愛する女のために冥府の決まりを覆し、奴隷の女を皇后にした。一人の愛する男に会うために冥府の決まりを変えようとするのは、無駄だと思うか?」

 その言い分には、何故か説得力を感じる。
 しかし、危険性もあるのではないかと感じる作戦だ。

「王に送った鬼が本当に王を殺したらどうする気? それに、あいつらは見境ないわ。会場にいる人々も襲うと思う」
「そなたが鬼殺しとして守ればよい。それに、会場には十区域それぞれの鬼殺しもいるだろう。緊急事態となればいくら元宵節の頃合いとはいえ動き出すはずだ」
「貴女と組んだことが発覚すれば、私も罪に問われると思うんだけど?」
「その危険性があるのは否めないな。故に当然、無償でとは言わない。我に協力してくれたなら、一つだけ願いを叶えてやろう。そなたは何が欲しい。金か? 名誉か? この立場か。……聞かずとも分かることだな。この座が欲しいのだろう。反対は多いだろうが、我が何とか、そなたにこの座を渡せるよう計らってみせよう」

 紅花は少し考えた。
 何でも願いが叶うなら。今の自分なら、何を望むだろう。一兆年以上の時をかけて愛した男の隣に立つことだろうか。
 時々柔らかく笑うようになった帝哀を思い出す。思い浮かべるだけで心臓がきゅうっとなるような、好きな人の笑顔。
 大事なのは彼が納得するか。満足するか。彼のために自分が何をできるかだ。

 ――無理やり奪い、手にした座などに価値はない。

 紅花は首を横に振った。

「いいえ。私が一つ望むなら……閻魔王に課せられる罰の制度を廃止させてほしい。これも、貴女にどうこうできることではないのかもしれないけれど。何でも叶えると言うのなら、それくらいの誠意を見せてもらわないと困るわ」

 長子皇后が意外そうに目を細めた。

「他人のことでいいのか?」
「そりゃ、貴女の立場も欲しいわよ。でも最近の帝哀様を見ていて、幸せになってほしいって思うようになったの」

 愚かだと思う。折角皇后自らが座を譲ると申し出ているのに、紅花はそれをはねのけたのだ。いつか後悔するかもしれない。でも。

「一人の愛する男のために冥府を変えようとするのは、無駄だと思う?」

 さっきの長子皇后の台詞をそのまま使って言ってやった。
 それを聞いた長子皇后は高らかに笑い、紅花から手を離す。

「そうだ、言っていなかったんだが」

 長子皇后の機嫌良さげな笑顔は、これまで見たどの表情よりも、花のように麗らかだった。

「我も幼い頃見た前閻魔王の、体を張って責任を取る姿に惚れた。そなたにああ言われたあの時から、気が合いそうだと思っていたよ」


 ■

 冷宮の窓から、静かな空に一発の大きな花火が打ち上がるのが見えた。それを合図として一斉に音楽が奏でられる。街路には美しいランタンが飾られ、明かりが後宮全体を照らし出す。提灯にも様々な形や色があり、花や動物、神話生物など、さまざまな模様が描かれている。現世の職人から特別に取り寄せたものだろう。
 料理人である玉風も今日は休日らしく、華やかな衣装を着ていた。

「いいじゃねえか、可愛いよ」

 魑魅斬が褒めると、玉風は顔を真っ赤にして無言で走り去ってしまった。

「……俺、何かまずいこと言ったか? 褒めたつもりだったんだが。女の子って分かんねぇなぁ」
「……貴方、意外と鈍いのね」

 今のは明らかに好きな人に急に見た目を褒められて照れた時の顔だったのに、魑魅斬は全く気付いていなそうだ。この様子では、二人の進展はしばらく見込めないかもしれない。

「紅花嬢ちゃんもお洒落すればいいのに、何だって男装なんだ?」
「見回りするなら、こういう格好の方が動きやすいでしょう?」

 十王のうちの二人と祭りを回るなんて言っても信じてもらえなそうなので、適当に誤魔化した。魑魅斬は「ふーん?」と不思議そうに首を傾げている。
 帝哀と一緒に祭りに行けるのは楽しみだが、それ以上に緊張する予定もある。――長子皇后との作戦の件。正直、一人でなし得るだろうかと不安だ。
 昨日はあれから十区域全てを駆け回り、花々から理性のありそうな幽鬼や狂鬼の目撃情報を募った。そこから鬼たちと接触し交渉を図ったが、言葉で場所や時間を伝えて理解できる者は少なく、途中で意識が途切れたように襲ってくる鬼もいた。おかげで体は傷だらけだ。寝不足でもある。
 紅花はちらりと魑魅斬を見上げた。自分よりも鬼殺しとして歴が長く、幽鬼や狂鬼の扱いに長けた魑魅斬に手伝ってもらえば、成功率は上がるかもしれない。だが――今回ばかりは、魑魅斬を巻き込むわけにはいかない。下手をすれば共に反逆罪となるかもしれないのだから。

「じゃあ、行ってくるわね」

 いつもの桃氏剣を持って冷宮を出た。
 舞いの時間は今日の夜だ。それまではまだ、ゆっくりしていられる。

 広場では龍や獅子の被り物を被った鬼たちが舞いを披露している。
 元宵節の名物である湯圓《タンユエン》と呼ばれる甘い団子を食べている人々も多い。湯圓は円満や団結を象徴し、冥府を運営する十王たちの繁栄と幸福を祈る意味が込められているらしい。

「あ、やっと来たぁ」

 待ち合わせた御花園に小走りで向かうと、既に飛龍と帝哀が揃っていた。二人とも高身長なので、並ぶとまるで二つの塔のようだ。

「変装がうまいな」

 帝哀が感心したようにじろじろ見てきた。
 髪を結って被り物をし男の衣服を着ている紅花は、遠くから見ればただの痩せ細った少年だろう。魑魅斬に借りた服なので少しぶかぶかだが、これなら変に王との関係性を怪しまれることもない。
 心が踊る。祭りなどに参加したのは初めてであるし、その上、隣に好きな人がいる。これ程幸せなことがあっていいのだろうか。

『くすくすクス』
『あなた今日 本当ニやるの?』

 御花園の花たちが紅花に語りかけてきた。折角機嫌良くしているのに、嫌なことを思い出させないでほしい。

『数少ないニンゲンの話し相手 失うのは哀しいワ』

 彼女たちは紅花が捕まると思っているのだろう。

『可哀想だから手助けしてアゲル』
『ウフフ、ワタシ達、優しい』
「……貴女たちにどう手伝えるというのよ」
『――理性を失っている鬼たちは花の蜜の匂いニ反応する』

 どうせからかっているだけだろうと思い、帝哀たちと立ち去ろうとしていた紅花は、その言葉にぴたりと動きを止めて振り返った。

「蜜の匂い?」
『あなたも薄々勘付いていたんジャナイ? 幽鬼や狂鬼は、花のある場所やその近くによく現れるッテ。花の蜜の香りハ、理性のない鬼を惹きつけるのヨ』
「…………」

 確かに、花たちはいつも、聞けば妙に幽鬼の居場所に詳しかった。それは、必ず幽鬼が花々の元に来るからだったのかもしれない。

『花々の連絡網を駆使すれば、貴女の手助けがデキる』

 衝撃を受ける紅花の隣で、飛龍がつまらなそうに言う。

「ちょっとぉ、またお花とお話してんの? 早く行こーよ。俺には聞こえねぇからつまんなーい」

 急かさないでほしいところだが、帝哀も待っているので慌てて花から帝哀たちの方に意識を向ける。

「後で、力を借りさせて」

 そんな言葉を花たちに残して。

 ■

 道の両脇には、焼き小籠包、貴妃鶏翅、揚州炒飯、東坡肉など、数々の食べ物の店が立ち並んでいる。普段は仕事ばかりであろう鬼たちもわいわいと群がって店を回っており、どこもいつも以上に活気づいていた。
 紅花たちもそのうちの一つの店により、椅子に座って並ぶ。小籠包に噛みつくと、熱い汁が溢れ出てきて衣服に垂れる。紅花のその様子を見ていた帝哀が笑った。

「食べるのが下手だな」
「すみません……」
「ゆっくりでいい。待っているから」

 好きな人にそんなにじっと見られていたら緊張して味がしない。何とか食事に集中しようとする紅花の横から、飛龍が小籠包を一つ摘み食いした。

「ちょっと、それ、私のなのだけど」
「一個くらいいじゃん。食い意地張ってるなあ。この後も食べ物の店はいっぱいあるんだから、全部食べてたら太っちゃうよ? 帝哀、太ってる子は嫌いかも」
「な……!」

 それもそうかもしれない。富の象徴としてふくよかな女性を好む王も多いようだが、少なくとも閻魔王の区域に太った妃はいない。
 卑しいと思われたかもしれないと不安になって帝哀の方を見ると、帝哀は存外優しい声で言った。

「お前がいくら食べたところで、お前のことを嫌いになったりはしない」

「…………」
「…………」

 その甘い言葉に驚いたのは紅花だけでなく飛龍も同じなようで、二人して無言になってしまった。

「それより、お前は本当に、飛龍に対してはくだけているな」
「飛龍様に対しては敬意を持っていないので……」
「おい」

 さらっと失礼なことを言ってしまい、横から飛龍に軽く叩かれた。

「俺に対しても敬意を持たなくていい。もっと気楽に構えろ」
「そ、それは無理です! だって私、帝哀様のことはこの世で一番尊い存在だと思ってるのですよ!?」
「無理? その〝この世で一番尊い〟俺が命じているのにか?」
「う、うう……」
「まずは俺のことを帝哀と呼び捨てにしてみろ」
「………ティ……帝哀…………」

 ぼそっと物凄く小さい声で呼ぶと、帝哀は満足げに笑う。

「それでいい」

 十王の一人、閻魔王を呼び捨てにするなど普通なら考えられないことだ。嬉しいような、罪悪感がするような。

「ちょっとお、俺の前でいちゃいちゃすんのやめてくんなーい?」

 飛龍が文句を言いながら寄りかかってくる。ずしりと重みが伸しかかって倒れそうになった。

「近くないか? 離れろ」
「なぁ~んで帝哀の言うこと聞かなきゃなんねーの?」

 小籠包が食べづらいので飛龍を睨み付けたその時、向こうから歓声が上がった。

「ねえ、あれって宋帝王様の区域の皇后様じゃない?」
「まあ……。お美しいわね」

 ――皆の視線の先にいるのは、息を呑む程美しい衣装を身に纏った天愛皇后だ。薄桃色の細い髪が風に揺れる様は酷く上品である。頬の烟脂も、眉間の花模様も、気合が入っていることが分かる質だ。白虎の刺繍と、その刺繍に負けないくらい、虎のような威圧感のある金色の瞳。絶世の美女なのは間違いないが、それ以上に、喰われてしまいそうな威厳がある。
 あの姿を見て馬鹿にする者はいないだろう。

「元奴隷と聞いていたけれど、あれだけの美貌があるなら宋帝王様が気に入るのも無理ないわ」
「あら、貴女見たことなかったの? 私は以前の元宵節で見た時から知ってたわよ。とびきりお綺麗な方だってね」
「聞いたところによると、宋帝王様のご寵愛も深いのだとか」

 侍女たちは飛龍の存在に気付いていないのか、きゃっきゃと楽しげに話し合っている。あの服装はこちらの区域でなく、他区域の侍女だろう。
 飛龍はふんっと得意げに口角を上げた。

「俺の妻なんだから当然だろ」

 自慢の正妻を人々に褒めそやされて嬉しそうだ。いつになく上機嫌である。
 しかし、侍女たちのそんな口ぶりをよく思わない者もいたようで。

「美しいから何よ。品性は血筋から来るものよ。元奴隷の皇后なんて、宋帝王様の格を下げているわ」

 彼女たちに横から口出ししたのは、服装からして閻魔王の区域の侍女だ。長子皇后の宮殿で見たことのある顔もある。

「それに比べて、私達の区域の皇后様は、生まれた時から別格なの。王の皇后となるために生まれてきたようなお人だもの」
「元奴隷がいくら長子皇后様に張り合うような衣装を着たところで、みっともないだけだわ」

 彼女たちは、やはり天愛皇后が白虎の刺繍をしているのが気に食わないようだ。

「は、はあ……。申し訳ありません」

 他区域の侍女は目を見合わせ、面倒事になるのを避けるためか身を小さくして逃げるように立ち去っていく。
 ――そこへ、閻魔王の区域の侍女たちが歩いてきた。それも、天愛皇后のお付きの者たちだ。

「聞き捨てなりませんわね。今のお言葉、撤回してくださるかしら」

 天愛皇后の侍女たちの眼差しは冷ややかで、静かに怒っているのが伝わってきた。



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