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「鬼棲む冥府の十の後宮」第七話


 帝哀は紅花から視線を外し、部屋の隅の引き出しから小さな木の容器を取り出した。容器の中に入っていたのは、すり潰したような黒い粉だ。

「俺がいつも飲んでいる薬だ。痛みが和らぐ。最初はかなり苦いが、湯で溶かすと呑みやすい。ここに置いておく」

 そう言って部屋から出ていこうとする帝哀を慌てて呼び止めた。

「一人じゃ飲めません」
「は?」
「腕も痛くて手を動かせません。帝哀様に呑ませてほしいです」
「…………」

 帝哀が何か考えるように無言になった。本来なら使用人にでもさせるべきことだ。しかし、帝哀が人間不信である故に、この宮殿には使用人が一人もいない。自分がやるしかないと諦めたらしく、帝哀はしばらくして戻ってきた。
 紅花が座る寝台の横の椅子に腰をかけ、先程の真っ黒な薬を湯に溶かし、匙で掬って紅花の口元に持ってくる。紅花はどきどきしながら口を開け、その薬を口に含んだ。できるだけこの時間を長くするため、口に入れたのはほんの少しだったのだが――瞬時に口の中に広がった苦味に思わず叫ぶ。

「にっっっっっが!」
「我慢しろ」
「うえ、これ呑みたくありません」
「呑まなければ夜、全身が痛むぞ」

 紅花は渋々、促されるままもう一口薬を呑む。やはり、不味い。呑み込むので精一杯だ。

(帝哀様に呑ませてもらえるなんてこれ以上ない幸せだけど……っ苦い……!)

 顔を歪める紅花を、帝哀は冷酷にも急かしてくる。

「どうした? 薬はまだまだある。早く呑め。全量呑まなければ効果は薄い」
「ちょ、ちょっと休ませてください。そうだ、水! 水呑みながら交互に呑みたいです。そしたら口の中にこの苦味が残らなくてましかも……」
「……仕方ないな」

 面倒そうに溜め息を吐いた帝哀。水を持ってきてくれるのかと思えば、残った紅花の薬をそのまま自分の口に入れた。

(……え?)

 困惑しているうちに、帝哀の美しい顔が紅花に近付いてくる。その両手が紅花の顔を固定した。

 次の瞬間、帝哀の唇が、紅花の唇に重なった。

 舌で口を割り開かれる。隙間から苦い薬が流れ込んできたが、突然のことに狼狽し、苦さを感じる余裕などなかった。
 帝哀の胸を押し返そうとするがびくともしない。その間にも薬がどんどん入ってくるので、呑み込むしかない。ごく、ごくと何度かに分けて必死に呑んだ。

 全て呑み切ったところで、ようやく帝哀の唇が離れていく。
 紅花の心臓は爆発しそうなくらい高鳴っているが、帝哀はすました顔をしている。おそらく帝哀にとって、これは特に意味をなさない、薬を呑ませるためのただの手段だったのだろう。しかし、紅花にとっては一生忘れられないくらいの思い出になった。

「う……嬉しいです」
「は?」
「全然初めてじゃないですけど、今のを私の接吻の初体験ということにします。そうします。私の初めての接吻のお相手は、帝哀様です」
「何が接吻だ。お前がなかなか呑まないから、無理やり薬を呑ませただけだ。俺も忙しいんでな」
「どう解釈するかは私の自由ですので!」

 帝哀は呆れた顔をしながら器を片付けた。ここで一人で生活をしているため、片付けまで自分で行っているらしい。紅花は王らしくないその姿を見て何だか微笑ましくなった。

「私、少し分かりますよ。人間がお嫌いだという帝哀様のお気持ち」

 そう言うと、帝哀の目が紅花を捉える。

「生前、親に体を売らされていました。痩せた貧困地域で生き抜くにはお金が必要だったから。客はどいつもこいつも、いい年して娘くらいの年齢の私に発情して体を求めてきました。でも、年端も行かない少女に手を出すあいつらも、普段は外でまともぶって生活してるんです。汚れきった欲を抱きながら、金で女を買っておきながら、ちゃんとした大人みたいな顔をして。私はそれが許せませんでした。客のことも親のことも嫌いになりました。少なくともあの地域では、誰も信用できませんでした。私が酷い目に遭ったところで誰も見てくれない。助けてくれない。自分のせいで私に性病を移そうとどうなろうと責任なんか取ってくれない」

 あの場所に正しい人間なんて誰一人いなかった。人間の罪を罰してくれる閻魔王の存在が、どれだけ紅花にとって心の支えとなったか。

「生前からずっと貴方が好きでした。どんなに酷い人間もいつか貴方が罰してくれると思って生きてきました。冥府でやっと会えた時、貴方が想像していた以上に素敵な人で、もっと大好きになりました」

 いつの間にか、不機嫌そうな帝哀が、再び紅花の方に近付いてきていた。寝台に片手を付いた帝哀の、もう片方の手が紅花に迫ってくる。

「べらべらとうるさい舌だ」
 
 親指と人差指を口に突っ込まれ、舌を掴まれた。

「王である俺に取り入ろうとしているのか? 今のが嘘だったら、すぐにでもこの舌を引き抜いてやる」

 数秒、見つめ合う。紅花は動じなかった。嘘のつもりは全くないからだ。
 紅花の唾液が垂れそうになった時、帝哀はちっと舌打ちして紅花から手を離した。

「抜かないのですか? 帝哀様になら、舌を抜かれてもよかったのに」
「……何を馬鹿なことを」

 少し間を置いて帝哀が聞く。

「怖くないのか。俺が」
「好きな人のことが怖いわけないじゃないですか」

 恐れも痛みも、地獄の日々の中で忘れてしまった。

 帝哀は紅花を見ずに指示する。

「……痛みが引くまでここにいろ。他の庭師には俺から伝えておく」

 あまりに優しい言葉に驚いて、思わず聞き返した。

「え、まだいていいのですか?」
「どうせあまり動けないだろう。お前をそんな状態にしたのは俺の責任だ。治るまで面倒は見る」

 紅花の過去に同情したのかもしれない。いや、同情などせずとも、帝哀はきちんと責任を取る男だ。紅花は嬉しくなって口元が緩むのを抑えきれなかった。
 そこで、はっと長子皇后と会う約束をしていたのを思い出す。

「あの、今夜だけこの宮殿の外に出てもいいですか? 約束があって」
「その体でか? 推奨はしないが」
「もう約束しちゃったので……。待たせるわけにはいかないかなと」

 帝哀は少し考えるような素振りを見せた後、あっさりと提案した。

「なら、俺も付いていく。途中で倒れられても面倒だ」
「……そこまでして頂かなくても」

 いつもなら喜んでお願いするところだが、紅花が会いに行くのはあの長子皇后だ。帝哀を正妻と直接会わせるのは少し嫌だ。

「さっきまで図々しかったくせに、急に何を遠慮している?」
「…………長子皇后様なんです」

 悪いことをした子供のように小さな声を出してしまった。
 帝哀の眉がぴくりと動く。

「長子?」
「今夜会う約束をしている相手は、長子皇后様です」
「何故お前が……。接点などないはずだろう」
「実は、天愛皇后様に長子皇后様について探れと言われていて、庭師としてこちらに送られてきたのもそのためなんです。それで、昨夜たまたま長子皇后様と会うことができてですね……」
「俺の正妻について探ろうとしていたと?」
「……長子皇后様の侍女たちが、天愛皇后様の侍女を馬鹿にしていたんです。だから、次のお祭りでその鼻をへし折ってやろうという魂胆でして……」

 帝哀を前に隠し事などできない。馬鹿正直に全て話してしまった。
 すると、帝哀はまた呆れた顔をする。

「お前のようなべらべら喋る奴を間諜に選ぶとは、天愛皇后はいつから見る目がなくなったんだ?」
「そ、そういうわけで、帝哀様に長子皇后様を好きになられたら困るので、できれば会ってほしくありません」
「いい。何にせよ、長子がいるのであれば俺は同行しない。あいつは俺に会いたくないだろうからな」

 何故、と聞こうとした時、ちゅっと軽く額に唇を当てられた。びっくりして二度見する。

「〝印〟を付けておいた。それでお前の居場所は俺に丸分かりだ。朝になっても帰ってきていなければ俺の方から捜しに行く」
「は、はい……お気遣いありがとうございます」
「くれぐれも無理はしないように」

 そう言って、帝哀は部屋を出て行ってしまった。
 玉風が彼のことを〝恐ろしい男〟と言っていたことを思い出し、彼女は何も分かっていないなと思った。

(とてもお優しい人だわ)

 帝哀の意外な一面を見られたことが嬉しくて、ふふふと笑ってしまった。

 ■

「それでそれで、帝哀様ったらとってもお優しくて……」
「その話は今日で五回目だが」

 梅の木の下、長子皇后が呆れ声を出す。紅花が何度も帝哀と会ったことを自慢しているからだ。

「牽制よ、牽制。私はこんなに帝哀様と仲が良いのよっていう」
「正妻に対して牽制とは、随分強気なものだな」
「貴女を倒さないことには帝哀様を手に入れられないもの」
「側室ではだめなのか?」
「正妻じゃないと嫌」
「物好きめ」

 くっくっと長子皇后が低く笑った。

「……貴女は帝哀様がお嫌いなの?」

 〝物好き〟という言葉が引っかかって問いかける。

「嫌いというわけではないが」

 長子皇后は煮え切らない返事をした後、黙り込んでしまった。

「好きじゃないなら譲ってよ」
「そう簡単に譲れるような立場ではない」

 確かに、一度皇后になってしまった者がその座を他の者に譲った例など冥府の歴史において一度もない。長子皇后の言うことももっともだ。
 紅花は溜め息を吐いた。

「じゃあ、代わりに今度貴女の宮殿に私を招待してくれない?」
「何故だ? 本当に図々しいな、そなたは」
「無償で護衛してあげてるんだからそれくらい許してくれたっていいでしょ」
「身分の低い者を招き入れるのは我の侍女たちが嫌がる」
「やっぱり、長子皇后様の侍女たちは自尊心が高いのね」
「まあ……この我の侍女だからな」

 長子皇后は、美しさも身分の高さも教養も、この冥府では一番だろう。そんな彼女に直接的に仕える立場。調子に乗ってしまうのも無理はない。

「元宵節の準備は進んでいるの?」
「元宵節の準備? そんなもの、とうの昔に済んでいる。当日に着る、桃の樹皮と蘇芳の芯材を使って染めた、朱雀のぬいとりを付きの最高級の召し物を侍女が用意してくれた。閻魔王の皇后が代々慶祝の日にのみ被る金の髪飾りの手入れも済んでいる。我の侍女たちは毎年この時期になると張り切っているのでな」
「ふうん……」

 朱雀のぬいとり。かなり造るのが難しい刺繍だ。これを知って今から準備しても天愛皇后は勝てないのではないかと思った。
 しかし、何はともあれこれで用事は済んだ。天愛皇后から命じられたのは、長子皇后が元宵節でどんな衣装を着るのか把握すること。これ以上この恋敵と馴れ合う必要はない。

「そろそろ帰らない? 宮殿まで送っていくわ」
「待ってくれ」

 立ち上がった紅花の手首を長子皇后が掴んで引き止める。

「まだ月を見ていたい」

 儚げに笑う長子皇后の後ろに大きな月が見える。普段から美人だとは思うが、月と並ぶと更に美しさが栄える。

「……似合うわね」
「え?」
「月と貴女。お似合いだと思うわ」

 そう言うと、長子皇后は頬を染め、満足そうに目を細めた。

 まるで、恋をしているあどけない少女のように。

 長子皇后を宮殿まで送り届けてから帝哀の養心殿に戻ると、門の前に帝哀が立っていた。月を見上げるその横顔の火傷痕は、いくらか薄くなったように見える。自分が代わりに罰を受けたおかげだと思うと何だか誇らしかった。
 話しかける前に、帝哀が紅花の方を向く。深緋色の瞳と目が合い、どきりと胸が高鳴った。

「遅かったな」
「……私を待っていてくださったのですか?」
「この養心殿は普段厳重に施錠されている。お前一人で入ることはできない」

 帝哀に手を差し伸べられた。紅花がまだうまく歩けないと思っているのだろう。
 紅花の体は丈夫だ。鬼殺しの日々を通してより丈夫になった。だから、足も既に走れるくらいには回復しているのだが――帝哀に触れたい気持ちに負け、その手に甘えた。

 導かれるまま養心殿の中へ入る。繋いだ帝哀の手はひんやりとして気持ちが良い。
 夕刻まで休んでいた部屋は一階の奥にあった。揺らぐ炎を消し、お礼をする。

「わざわざありがとうございました」
「ああ」

 少し待つ。帝哀がいつまでも立ち去らないので不思議に思った。

「寝ないのか?」
「寝ますけど……」
「なら、早く寝ろ」

 帝哀はそう言って奥に進み、寝台の隣の椅子に座る。

「……夜も一緒にいてくださるおつもりですか」

 勘違いだったら恥ずかしいと思いながら、おずおずと聞く。

「罰を受けた日に一人で眠るのは嫌だろう」

 ――もしかしたら帝哀にも、一人で眠りたくないと思う夜があったのかもしれない。きゅうっと胸が締め付けられる心地がした。

「では、一緒に寝てください」
「は?」
「座って眠るのはお辛いでしょう」

 帝哀の手を引く。意外にも帝哀は抵抗しなかった。
 共に同じ寝台の上で寝転がり、目を瞑る。

(全然眠れない…………)

 こんなにも近くに好きな人がいる。
 幸せを噛み締めながら、寝よう寝ようと必死に頑張る一夜となった。

 ■

 その日から、紅花は帝哀と同じ寝台で眠るようになった。帝哀が何故ここまでしてくれるのかは分からない。おそらく、紅花に火傷を負わせた責任を感じているのだろう。

「幸せ……」

 紅花は庭の手入れをしながら、帝哀の手の感触や唇の感触を思い出していた。今日も仕事が終われば帝哀の養心殿へ戻れる。
 今日何度目かの喜びの溜め息を吐く。周囲の庭師たちには訝しげな目を向けられた。

 昼休憩の時間になった。庭で働いている途中あまりににやにやしていたため不気味がられたのか、今日は一人だ。誰も紅花に近寄らなかった。
 少し寂しく思いながら盒飯を食べていると、誰かがこちらに近付いてくる気配がした。
 まさか、と期待して振り向くが、そこにいたのは――飛龍だった。

(何だ……帝哀様じゃなかった。そりゃそうね、今頃帝哀様は職務を全うしている頃合いだわ)

「ちょっとぉ、今あからさまにがっかりした顔したでしょ。誰だと思ったの?」
「帝哀様が好きすぎて、誰の足音も帝哀様のものに聞こえるようになってきたみたい」
「色ぼけしすぎでしょ。天愛に言われて来てるってこと忘れてないよね? 依頼の調子はどうなわけ?」

 飛龍が紅花の隣に座る。当然のように距離感が近いので不快だ。もう少し離れて座れと思った。

「当日の長子皇后のお召し物は……、……」

 偵察の進捗について伝えようとしたが、途中で躊躇いが生じた。長子皇后が祭りの日に何を着るかを既に知ってしまったということは、用は済んだということで。これを伝えれば、今日にでも宋帝王の区域に戻されてしまうかもしれない。

「…………接触はできているから、そのうち探っていくわ」
「君にしては遅いね。花の声を聞いて早々に情報を掴んでくると予想していたけれど」
「花だってさすがに長子皇后の元宵節での召し物については知らないわよ」

 まぁいいけど、と飛龍はつまらなそうに言った後、紅花の盒飯を勝手につまみ食いした。

「それより、長子皇后に皇后の座を降りてもらうにはどうしたらいいと思う?」
「君それ、本気で言ってんの?」

 帝哀のことで頭がいっぱいな紅花を、飛龍は馬鹿にしたように笑った。

「王や皇后の座を降りた者がその後どうなるか知っている?」

 紅花はふるふると首を横に振る。

「冥府を追放され、人として現世に生まれ変わるんだ。勿論、冥府にいた頃の記憶は全て消える。冥府の者にとっては唯一の実質的な〝死〟だよね」

 飛龍は続けてこう説明した。冥府の鬼は死ぬが、人は死なない。死んでも生き返る。長い時間続く罰に耐えてもらわねばならないのに、呆気なく死なれたら困るからだ。冥府では、人は何度死んでも生き返る。そういう風にできている。
 紅花はそれが冥府の人々全体の原則だとは知らなかった。死なないのは地獄で罰を受けている人達のみであり、卒業した後はあくまでも長寿なだけで、いつか死ぬのだと思っていた。
 現世。地獄を卒業した紅花が本来ならば行くべきだった場所だ。何度も頼み込んで冥府に留めてもらった。帝哀に会うために。
 現世へ行けば帝哀への恋心も忘れてしまうだろう。確かにそれは、実質的な死かもしれない。

 ふと、長子皇后の言葉を思い出した。

 〝我の死後はそなたにこの地位を譲る〟――。

「…………」

 本来死ぬことのないはずの長子皇后が、あっさりと死という言葉を口にしていた、その意味が分からなくなった。

(長子皇后様は、自死しようとしている?)

 王も皇后も死なないにせよ、数十兆年すれば老いて判断力が低下する。役目を全うできなくなり、自らその役目を他の者に譲るのが一般的だ。しかし、長子皇后はまだそこまで老いていない。皇后の座を降りるとしてもまだまだ先の話。それこそ、気が遠くなる程の時間が残されているはずだ。それなのに、今から死後を意識するのはおかしい。
 考えられるとすれば、自ら退位の時期を極端に早めようとしている――即ち、死のうとしているということ。

「……まさかね」

 そうだとしても、理解できない。冥府の王の正妻という世界一贅沢な立場になっておきながら、どうしてその座を放棄するのか。自死など考え過ぎな気がしてきた。
 紅花が深く考えているうちに、隣の飛龍が立ち上がった。

「収穫がないなら俺は帰るよ」

 紅花はそこではっとして、慌てて付け加える。

「天愛皇后様に伝言をお願い。元宵節の長子皇后様の召し物には朱雀の刺繍があると聞いたわ」

 飛龍は少し驚いた顔をした。

「なんだ、結構情報掴んでんじゃん。何でさっき言わなかったの?」
「……帝哀様が、嘘を吐く女は嫌いだと言っていたのを思い出したの」

 さっきは咄嗟に誤魔化してしまったが、帝哀に嫌われるのは嫌だ。極力誰に対しても嘘は吐かずにいたい。
 すると、飛龍がにやりと笑って覗き込んでくる。

「君、好きな男に染まる性質でしょ」
「……何よ、悪い?」
「いいなあ。俺もちょっと染めてみたいかも。君のこと」

 飛龍の甘い香が香る距離。緑色の目が愉しげに紅花を観察している。

「なぁんであんな堅物が好きなのか分かんないな。遊ぶなら俺の方が楽しいよ?」
「遊びのつもりで帝哀様を好きなんじゃないわ」
「だろうね」

 飛龍がふふ、と柔らかく笑った。その笑顔が何か企んでいるように感じられて恐ろしい。

「元宵節の日、一緒に後宮を回ってあげようか。君、迷いそうだし」
「王様はお忙しいんじゃないの?」
「全然。むしろ暇だよ。元宵節の主役は女性たちだからね。十王は最後の舞を観に中央に集まるくらいかな」
「変な噂が立って貴方の妃たちに嫉妬されても困るわ。遠慮しておく」
「なら、君が男装すればいい。俺がその辺の男を引っ掛けて遊ぶことはよくあるから、俺の妻たちもただの遊びだと理解してくれるだろう」

 何を言い出すんだこの男は、と紅花は眉を寄せる。
 どうにか断れないものかと頭の中で理由を探した。

「でも多分、当日は私にも鬼殺しとしての見回りがあるわ」
「俺がそれに付いていくよ」
「鬼の死体は臭いわよ」
「十王は皆嗅覚が鈍感なんだ。俺は平気だよ」
「いやでも……」
「あーもう、でもでもってうっせぇな。この俺が誘ってんだから喜びなよ」

 まずい、飛龍の笑顔が引きつっている。これ以上断ったら機嫌を損ねるだろう。

「……分かった。じゃあ、お言葉に甘えて案内してもらおうかしら」
「ん、いい子」

 ちゅっと額に口付けしてきた飛龍は、不意に何かに気付いたように顔を顰めた。

「……君、何で帝哀に印付けられてんの?」
「え?」
「おでこ。何かされたでしょ」
「ああ……居場所が分かるようにって」
「帝哀が? 何で?」
「私が帝哀様の代わりに罰を受けたから、気にしてくださっているのよ」

 その話、聞く? と浮かれた気持ちで自慢話を始めようとした紅花だが、見上げた先の飛龍の目が全く笑っていなかったので口を閉ざす。

「――俺が先に見つけて唾付けた女に横から手出しされるの、いい気はしないな」

 声が明らかに低い。どこからそんな声を出しているのか。

 いつもなら言い返すところだが、今は怒らせてはいけない気がして黙り込んだ。
 すると、「なァんてねぇ」と飛龍は急ににっこりと笑った。さっきの人を殺しそうな雰囲気はどこへやらだ。

「……あの」
「いいよいいよ、どうせ君がこの区域にいるのもあと少しだしね。今は楽しんでおくといいよ」

 そう言って去っていく飛龍の背中を見ながら、紅花は複雑な気持ちになった。

(まるで私が自分の妾であるみたいな言い草ね)

 玩具が他の人間の手に回って不機嫌になる子供のようだった。あの男、自分の区域に一度でも入った者は全員自分の所有物だと思っているのではなかろうか。

『アナタ もう 帰るノ』

 ――その時、花の声がした。この花園の桃の花たちは気紛れなので、声をかけてきたのはしばらくぶりだ。

「帰りたくないけれど、帰らされるかもしれないわ。用が済んでしまったから」
『帰るな カエルな』
『救って すくって すくって』

 紅花は立ち上がり、桃の木を見上げて聞いた。

「以前も長子皇后様を救えと言ったわね。あれはどういう意味?」
『ソレは チョウシから言うべきこと ダカラ言わ ない』
「長子皇后様が私に教えてくださるということ?」
『誰でもいい ゲンショウセツ で長子のヒミツ 暴いて』

 ざあっと風の音がして、花たちは喋らなくなってしまった。

 ■

「一体何なのよ……」

 仕事を終え、帝哀の養心殿に戻った紅花は溜め息と共に呟いた。
 花があそこまで強い意思を持って何か伝えてくることは難しい。本来他愛もない世間話が好きな存在だ。余程長子皇后に強い思い入れがあると思われる。

「どうした? 溜め息を吐いて」

 茶を淹れる紅花の後ろから帝哀が話しかけてきた。「ひゃあっ」と高い悲鳴を上げてしまった。思考に集中していて好きな人が近付いてきているのに気付かなかったなんて恥だ。

「な、何でもありません。あ、帝哀様もお茶、呑みますか」
「ああ。頼む」

 裁判終わりらしい帝哀が椅子に座る。その半身は焼けており、今日も罰を受けたことが窺えた。紅花は何度も自分が代わると申し出たのだが、帝哀は断固として拒否してくる。その姿を見て心を痛めながら、帝哀の痛み止めの薬の準備もした。

 一緒に寝るようになって数日、帝哀とは食事も共にするようになった。多忙な帝哀が養心殿に帰ってくる時間は短いが、自分の宮殿に滅多に人を入れない帝哀にここにいていいと言われるのは嬉しかった。
 薬を湯に溶かし、帝哀に呑ませる。
 罰を受けた後は腕すらも動かしづらいだろうに、一人の時はどうしていたのだろう。紅花がいなくなった後はどうするのだろう。心配は尽きない。
 苦い薬を匙で少しずつ口に含ませているうちに、少しずつ帝哀の火傷痕が治っていく。さすが冥府の王だ。怪我の治りも早い。

「……お前は、俺のこの姿に怯えないな」
「怯える? どうしてですか?」
「普通は焼け爛れた身体なんて見たくないだろう」
「そのお姿は、帝哀様が閻魔王として責任を果たした証拠、勲章ですよ。むしろ愛おしいです」
「……変わった奴だ」
「それに、地獄では焼け爛れた人間なんていくらでも見てきましたから。私は元獄吏ですよ? 人を苦しめてきた存在です」
「ろくに仕事をしていなかったと聞いたが?」
「なっ……何でそれを」
「お前のことを少し調べさせてもらった。獄吏の同僚は口を揃えて〝あいつは恐ろしい女だ〟〝俺は弱みを握られ脅されていた〟と言っていた」

 ぎくりとする。人を苦しめるのが嫌すぎて、鬼の弱みを握って仕事から逃げていた過去など、帝哀には知られたくなかった。

「俺の弱みも握るつもりか」
「無理ですよ、それは。私は鬼の心しか読めません。帝哀様のお心も見えません」
「獄吏にしては変わった能力だ」
「出来損ないなんです、私は。元々獄吏の適性があったわけではなくて。帝哀様と離れるのが嫌で、無理を言って冥府に残してもらいました」
「……獄吏の同僚もそう言っていた。お前は余程俺が好きなのだろうと」

 恥ずかしくなってきて、薬の器を持ったまま縮こまった。

「ほ……他に何か聞きましたか? っていうか、どうして私のことなんて」
「共に暮らす人間のことを知りたいと思うのは不自然か?」

 確かに、帝哀にとっては初めての同居人だ。疑い深い帝哀なら徹底的に調べ上げたいところだろう。

「……分かりました。何でも調べてください。それで帝哀様が私と暮らしていく上で少しでも安心できるなら。……と言っても、そろそろ私は飛龍様の区域に戻されるとは思いますけど」

 そう言うと、帝哀が紅花の方を向いて不思議そうに首を傾げる。

「何故だ?」
「私は元々向こうの区域の鬼殺しですので。ここへ送られたのも天愛皇后様のご命令があったからこそです。長子皇后様の召し物についての情報は得られたので、そろそろ呼び戻されると思います」

 帝哀は眉を寄せた。

「ずっとここにいればいいだろ」
「…………はい?」

 何を言われたのか一瞬理解できず、目をぱちぱちさせてしまう。

「鬼殺しとしての仕事を辞めればいい。俺が命じれば逆らえる者もいない。俺から言っておく」

(私、そんなこと言われたら、勘違いしちゃいますけど!?)

 嬉しいような、どういう感情を抱いていいか分からないような。これは帝哀の気紛れだ、自惚れてはいけないと自分に言い聞かせながら、ふと思い出すのは魑魅斬や玉風のことだ。宋帝王の区域には彼らもいる。

「ご提案は嬉しいのですが、私にも家族のような人がいまして……」
「飛龍の区域にか?」
「はい。元々獄吏として一緒に働いていた姉貴分と、鬼殺しになってから毎日夕食を作ってくれた兄貴分がいます。なので、その人達にも会える環境にはいたいというか。私、この養心殿にいたら帝哀様とずっと一緒にいたくなっちゃいそうですし……」

 ごにょごにょと複雑な感情を吐露すると、帝哀が突然ふいっと顔を背けた。
 驚いてその表情を追うと、拗ねたような顔をしている。

 紅花は慌てた。

「でも、夜はできるだけこちらに来たいと思います! できることなら! 昼間は宋帝王様の区域で鬼殺しとして働いて、夜大急ぎでこちらに来るとか! どうでしょうか!?」
「宋帝王の区域は最南端だ。最北にあるこの場所にそう簡単には来られないだろ」
「その辺は……どうにか運び鬼を脅して連れて来てもらいます」

 大真面目な意見だったのだが、帝哀にとってはその返答はおかしなものだったらしく、くっくっと肩を揺らして笑われる。
 帝哀が笑うのは珍しい。意外な表情にときめいた。

「いい。俺が使者を送る」
「そこまでしていただいて良いのですか?」
「お前にやらせると被害者が出るからな」

 帝哀はからかうように言った。すぐ鬼を脅すような女だと思われただろうか、と紅花は反省する。

「ありがとうございます」

 大人しくお礼を言うと、帝哀はふっとまた笑った。
 ――最近、表情が柔らかくなった気がする。

 しばらく話して帝哀の火傷も大分綺麗になってきた頃、ふと桃の花の不可解な態度を思い出した。帝哀なら何か知っているかもしれない。

「あの、桃の花園のことなのですけど……あの桃の木は、長子皇后様が植えたものですか?」

 帝哀の茶器を持つ手が止まった。

「子供の頃、俺と、俺の家族、長子と長子の家族で計画して植えさせた」
「……仲がよろしかったのですね」
「俺と長子の家同士は密接な関係にあるからな。家の付き合いでよく会っていた。中でも特に桃の木を愛していたのは長子だ。木が育つまで、毎日のように面倒を見ていた。そんなものは庭師にやらせればいいと止められても、木を愛でるのはやめられなかったようだ。大きくなってもあの桃を気にかけている。ただの花園にあれ程の数の庭師を雇っているのはこの区域内でも彼女くらいのものだ」

 やはり、桃の花が長子を気にかけているのは、長子が愛を持って接してくれた親のような存在だからであるらしい。

「何故そんなことを聞く?」
「あの桃の花が長子皇后様を気にかけているからです」
「……そうか。お前は花の声も聞けるのだったな」
「花が長子皇后様を救えと言うのです」

 帝哀の眉がぴくりと動く。

「お心あたりがあるのですか」
「あいつはやはりまだ――いや。俺から言うべきことではないな。もし、長子が助けを求めたら、その時は助けてやってくれ」

 紅花は一瞬、黙り込んだ。
 恋敵に手を貸すのは癪だが、帝哀の頼みであれば断れない。
 ……一体あの皇后は何を抱えているというのだろう。

「……分かりました」

 腑に落ちないまま返事した。




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