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「鬼棲む冥府の十の後宮」第八話


 後日、予想通り天愛皇后から戻ってくるようにとの知らせが来た。
 少しの間だったが共に仕事をした庭師のおじさん達は、紅花を「元気でなー!」と明るく見送ってくれた。紅花のような即席庭師を、技術面でも劣るだろうに歓迎してくれた彼らには感謝しかない。
 宋帝王の区域に戻るための軒車は飛龍が用意してくれた。天愛皇后に迎えに行くよう命じられたらしい。相変わらず便利な道具として使われているようだ。惚れた方の負けとはよく言ったものである。

「おかえりぃ。庭師、楽しかった?」

(何で機嫌良いのよ、こいつ……)

 いつも以上ににこにこしている飛龍を怪しく思いながらも、軒車に乗り込む。

『ばいばい』
『バイバイ』
『また戻ってきて ネ』

 後ろの桃の花たちが紅花に挨拶をする。

「またね」

 紅花が花に向かって少し声を張ると、飛龍が気味悪がってきた。

「どこに向かって言ってんの? 花?」
「ええ。向こうから挨拶してくれたから」
「それ、俺以外の前で言わない方がいいよ」
「言われなくても分かってるわよ」

 花に話しかけているなんて言えば、妄想の激しい変人扱いされそうだ。紅花のこの能力を知っている人は、宋帝王の区域の者たちくらいである。庭師のおじさん達にも結局最後まで明かさなかった。

「それでいーよ。花の声が聞こえるからって庭師として周囲に気に入られて帰ってこなくなっても困るし」
「貴方は別にそれでも困らないんじゃないの?」
「天愛が君のことを気に入ってる。俺は妻の欲しがるものは何でも与えてやる主義なんだ。それに君のこと、まだいじめ足りないしね」

 最後の一言が余計だ。紅花の中の負けず嫌いな部分がむくむくと出てくる。

「貴方はいじめているつもりかもしれないけど、私は今のところいじめられている心地はしない。むしろ後宮に来てから良いことばかりだわ」
「はぁ~? 君、ほんと強いね。未経験で鬼殺しなんて任されたら大抵の女の子は三日で心が折れて泣きついてくるはずなのに」
「私には効かなかったってことみたいね?」

 強いて言うなら、毎度入浴の最中に話しかけられて迷惑しているくらいだ。
 ふふんと笑ってやると、むっとした飛龍にまた頬を抓られた。

 ■

 運び鬼たちのおかげで、日が暮れる前に冷宮に到着することができた。

(折角だから久しぶりに魑魅斬の作った夕食が食べたかったのよね)

 冷宮に入ると、換気したばかりなのかいつもより鬼の死体の臭いは薄かった。しかし久しぶりに嗅いだということもあり、少しだけ気分が悪くなる。
 顔を顰めていると、後ろからとんとんと肩を叩かれる。
 冷宮に、玉風が来ていた。

「玉風姉様……どうしてここに」
「最近料理場の仕事にも慣れてきて、早く終われるようになったのよ。臭いが移るから冷宮に来ることは禁止されているけれど、たまにこっそり来ているの」

 その時、奥の調理場から魑魅斬が元気そうに手を振ってくれた。

「おお、嬢ちゃん、おかえり! 蟹焼いてるところだぜ」
「蟹……」

 出そうになった涎をじゅるりと戻す。
 玉風と調理場から少し離れた位置にある卓を囲んで座り、魑魅斬の料理ができあがるのを待つ。

「ちょうど魑魅斬と、一緒に玉風姉様に会いに行こうと話していたところだったのよ。玉風姉様の方から来てくれるなら好都合だわ。鬼殺しなんて、料理場にはなかなか入れてもらえなそうだし……」
「魑魅斬さんと?」

 ぴくりと玉風が反応した。そして、小声で聞いてくる。

「魑魅斬さん、他には何か言っていた? 私のこと」
「他に? いや、特には……」

 どういう意図の質問だろうと首を傾げる。
 玉風は料理をする魑魅斬の方をじぃっと見つめた。――その表情はまるで乙女のようだ。愛おしそうに目を細めている。

「……玉風姉様……まさか」
「私、魑魅斬さんのことが好きみたい」
「ええ!?」

 地獄で働いていた頃、恋愛のれの字も出してこなかった玉風が、いつの間にか魑魅斬を慕っていた。
 紅花は驚きつつも魑魅斬の姿を盗み見る。確かに筋肉は綺麗に付いていて体つきもよく、料理はうまい。頼りにもなる。しかし、紅花にとってはあくまでも兄貴分であり、そのような目では見たことはない。
 初めて聞く姉貴分の恋の話に何だかむずむずした。獄吏をしていた時の玉風はその鬼も顔負けな鬼畜さから同僚の男たちから怖がられていて、一度もそのような雰囲気になったことはないと聞いている。

「ど、どういうところが好きなの?」
「ここに来た当初、優しく看病もしてくれたし、そこでよく話すようになって。料理場の人間になってからも、勇気を出して会いに行ったら『よく来てくれたな』って笑顔で迎えてくれたのよ。その笑顔がかっこよくて男らしくて……ああ、私好きなんだなって」
「いや待って、魑魅斬は最初玉風姉様のことを殺そうとしてたわよ?」
「それは、お仕事に対してそれ程真面目ということでしょう?」

 恋は盲目。どこかで聞いた言葉だ。

「これまで紅花のことを馬鹿にしていて悪かったわ。私、恋愛をしたことがなくて、恋がこんなに己の内で荒ぶる感情だとは思ってなかった。こんな感情を抱え続けていたら、そりゃ王の軒車に突っ込みたくもなるわ」
「いや、そこを肯定されるのも何か違う気がするけれど……」

 紅花が苦笑すると、玉風は付け加えた。

「私を巻き込んだこと、もう許してるって意味よ。私を料理場に移すよう、皇后様に頼んでくれてありがとうね」

 言いたかったのはそこらしい。紅花はずっと玉風を後宮まで連れてきてしまったことに申し訳なさを抱えていたので、内心ほっとした。
 その時、魑魅斬が料理を運んできた。まだ熱く湯気が出ている。熱いうちに食べるのが冥府流だ。急いで鍋から自分の器に流し込んだ。
 ちらりと玉風の様子を窺うと、やはりあの恋する女の目でうっとりと魑魅斬を見つめている。

(……可愛い)

 玉風のこんな顔を見るのは初めてだ。怒った時はあんなに口うるさくて怖いのに、恋をするとどんな女性もこんなに柔らかい表情をするのかと驚かされた。

 その夜、閻魔王の区域からの迎えが来た。

(本当に来てくれた……)

 来てくれなかった場合は、掃除鬼を脅して連れて行ってもらおうと思っていたところだ。迎えに来た小さな車を運ぶのは王に仕える直属の鬼らしく、豪華な帽子を被っており、顔が見えない。乗り込むと、車は空高く飛び上がっていった。
 魑魅斬にも一応このことは伝えてあるので、紅花がいなくなっても驚きはしないはずだ。「お前が? 閻魔王様の養心殿に?」と疑いの目は向けられたが。
 車に揺られているうちに眠くなってきた。魑魅斬の料理で満腹なので眠気を誘われる。少し寝てしまおうと目を瞑る。

 しばらくすると、車が大きく揺れて目が覚めた。帝哀の養心殿の前に到着したらしい。いくら優秀な王直属の鬼といえど、さすがに着地時は車を揺らしてしまうらしい。紅花は鬼たちに礼を言って養心殿の入り口に向かった。
 帝哀が待ってくれている。

「お久しぶりです、帝哀様」
「昨日会ったばかりだろう」
「帝哀様に会えない時間は永遠の時のように長く感じます」

 帝哀がふいと顔を背けて歩き始める。冗談として捉えられてしまったようだ。

 養心殿は相変わらず暗かった。帝哀が近付くと炎が灯るが、離れると消える。先の見えない通路を歩きながら、ふと今日見た出来事を思い出した。

「私が帝哀様に向ける感情は崇拝であって、恋ではないような気がしてきました」
「何だと?」

 帝哀が立ち止まって不可解そうに振り返ってきた。
 魑魅斬を愛おしそうに見つめていた玉風の、乙女のような表情を思い出す。

「今日、恋をしている女性の顔を見たんです」
「それがどうした」
「私はあんな風に、可愛い顔はしていないなと……」

 紅花はあの時、劣等感を覚えた。紅花の帝哀への感情は、好きなどという可愛らしいものではない。あんな風に可愛くはいられない。帝哀にも実は重く感じられているのではないかと不安になった。
 俯く紅花に、帝哀が言った。

「お前は可愛い顔をしている」

 びっくりして顔を上げる。帝哀の顔が間近に来ていた。

「確かに歪んではいるが、俺はそれを恋でないとは思わない」

 真っ直ぐ目を見て言われ、顔が熱くなっていった。

「ほら。可愛いじゃないか」

 帝哀がにやりと笑って再び歩き出す。また、初めて見る表情だ。帝哀の新しい一面を見るたびにもっともっと好きになっていく。

「……帝哀様、好きです」
「知っている」
「やっぱり恋愛として、好きです。帝哀様の正妻になりたいです」
「それは難しいんじゃないか?」
「なっ……酷いです、帝哀様。でも私、絶対貴方のこと手に入れますから」

 私は嘘を吐きません――繰り返しそう伝えると、暗闇の中、帝哀の口角がまた上がった。
 気のせいかもしれない。でも、帝哀との距離が、少しずつ縮まっている気がした。



 後日、長子皇后から宮殿への招待状が届いた。最初は鬼殺しの仕事があるため断ろうとしていたが、たまたま冷宮に来ていた玉風に話すと、「皇后様からのお誘いを断るなんてとんでもない!」と怒られた。魑魅斬にもそれは行けと言われたため、仕方なく仕事を休んで朝から閻魔王の区域に訪れた。

「何だその顔は。招待しろと言ったのはそなただろう」
「言ったけど、まさか本当に入れてくれるとは」

 紅花が余程訝しげな顔をしていたのか、長子皇后は不服そうに唇を尖らす。彼女は絹でできた薄い服を身に纏っておりいつもより身軽そうだ。
 長子皇后の周囲を囲む侍女たちは鼻を押さえ、紅花のことを睨み付けている。臭いから帰れという意思が露骨だ。紅花はそんな侍女たちの目を無視し、長子皇后に提案した。

「こんなに大勢いると緊張するから、侍女たちは別室へやってくれない?」

 長子皇后が口を開くより先に、周りの侍女たちが怒る。

「貴女、なんてことを言うの!」
「貴女のような下賎の者と皇后様を二人にすることなどできません! 何をされるか分かったものではないわ!」

 侍女たちが次々と反対する中、長子皇后は淡々と命じる。

「構わん。退け」
「しかし……!」
「我がいいと言っておるのだ。退け」

 侍女たちはぐっと口籠り、身を低くして部屋の外へ出ていく。

「すまなかった。うちの侍女は事あるごとにうるさくてな」
「長子皇后様を思ってのことでしょう。侍女としてあるべき姿だわ」
「……そうだな。ああ見えて良い子たちなんだ。親しくしてやってくれ」

 意味ありげにそう言って歩き始めた長子皇后は部屋の奥の簾を上げた。

「我が元宵節で着るものを知りたがっていたな。こちらだ」

 そこには目を見張るような衣装と冠が飾られていた。一際目を引くのは、大きな金色の朱雀の刺繍。ただでさえ美しい長子皇后がこれを身に纏えば、一体どんなに魅力的だろう。
 既に天愛皇后には、長子皇后の衣装に朱雀の刺繍があるとは伝えてある。しかしこれほどの一品とは。

「満足か?」

 長子皇后が得意げに笑って衣装の台の前の簾を下ろす。紅花はこくこくと頷くことしかできなかった。

「気合が入っているわね」
「美しすぎて、そなたの想い人の心を射止めてしまうやもしれん」
「それはだめよ」

 即座に返すと、長子皇后はくっくっとおかしそうに肩を揺らす。
 確かに、元宵節で着るとなると嫌でも帝哀の目には止まるだろう。いくら帝哀が妃たちに興味がないとはいえ、これほど美しければ心を奪われてしまうかもしれない。紅花は不安に襲われた。

 ――その時、冷え冷えとしたよく知る異形の気配がした。
 咄嗟に振り返る。部屋の反対側の隅にいたのは幽鬼だ。おそらく少し前からいたのだろうが、静かすぎて侍女たちも気付いていなかったのだろう。まだ子供に見える。
 紅花がそちらに目を向けたことで長子皇后もその存在に気付いたのか、身を固くした。

「……動かないで。いい子だから」

 紅花は幽鬼に優しく話しかける。

『……ここじゃ、ナイ? 王、イナイ?』
「ここに王はいないわ。場所を間違えている。ゆっくり、元の場所に戻りなさい」

 鬼殺しとして働いているうちに、幽鬼や狂鬼の中には言葉の通じる鬼が一定数いることが分かってきた。最近はこうして言葉をかけてみて、反応があれば殺さずに去ることを命じるようにしている。その方が独特の異臭も残らない。
 魑魅斬はそもそも普通の鬼殺しには鬼の心の声が聞こえないので意思疎通は無理だと言っていた。これは紅花にしかできない特殊な鬼のあしらい方だろう。
 子供の幽鬼は紅花の言葉を理解したのか、しばらく紅花を見つめた後、ゆらりゆらりと揺らいで外へ逃げていった。
 その様子を見ていた長子皇后が驚いたように聞いてくる。

「……そなたは鬼を操れるのか」
「操るなんて大層なものではないわ。ただ、幽鬼や狂鬼にも心があるのよ。優しく伝えてあげれば、言うことを聞いてくれることがある」

 長子皇后は何か深く考えるように黙り込んだ後、「そうか」と呟いた。

「と言っても、全ての幽鬼があの子みたいに大人しいわけじゃないから、凶暴な場合は殺すしかないけれどね。特に狂鬼は乱暴な者が多いわ」
「そなたは凄いな。今は武器を持っていないのだろう? 我は怖くて一歩も動けなかった」

 確かに、宮殿に入る前に武器の類は全て没収されている。もしあの幽鬼が暴れん坊だった場合、いつものようには対抗できなかっただろう。だがその時は長子皇后の護衛を呼び出せばいいだけの話だ。

「あら、夜中に一人で月を見に行く勇気がありながら、鬼が怖いの?」

 さっきからかわれたお返しにからかってやる。長子皇后は少しむっとした顔をした。

「それとこれとは話が別だ。月を見に行けるのは、愛の力というやつだな」
「分かるわ。私も、愛の力で王の車の前に立ちはだかったもの」
「そなたはもう少し気を付けた方がよいのではないか? 生かされたのは宋帝王の気紛れだろう。今あるのはたまたま拾った命だ」
「そうね。運が味方してくれているみたい」
「……運か」

 長子皇后は俯いてぽつりと言った。

「そなたとたまたま出会えたことは、おそらく我の強運と言えるのだろうな」
「何故? 私、何もしてないわよ?」
「そなたには分からないだろうが、我はそなたのような人間が現れるのをずっと待っておったのだ。それこそ一兆年を超える時の中でな。だからどうか――我の存在をもっと呪ってくれ」

 意味が分からない。しかし、長子皇后は紅花の質問を遮るように別れの挨拶をしてくる。

「また呼ぼう。今度はうまい茶を用意する」


 ■

 あっという間に、元宵節の祭りの前日がやってきた。
 後宮内はどの区域も華やかに飾られ、紅々とした火の灯る提灯が空に浮かんでいる。木に吊るされた提灯が揺れ、まるで炎の樹がいくつも立っているようだ。他区域と他区域の間の門も今日から鎖が外され門番もいない。いよいよ祭りの前日ということで、人々が浮足立っているのが分かる。
 そんな中紅花は、天愛皇后の宮殿に呼ばれていた。

「素晴らしいです、天愛様!」
「冥府一の皇后様ですわ!」

 あれから立派な天愛皇后の信者となってしまったらしい侍女たちがうっとりと衣装の試着をする天愛皇后を見つめている。
 天愛皇后の衣装の背に金色に光るのは――白虎の刺繍。白虎というのは伝説上の四獣の一体で、朱雀と同格の神とされている。長子皇后の刺繍と同格の存在を縫うとは、喧嘩を売っているとも取られかねない行為だろう。しかし実際、挑発しようとしているのだから問題はない。
 うふふ、と天愛皇后が笑う。

「貴女たちが頑張ってくれたおかげよ。本当にありがとう。今度貴女たちにも新しい衣装を贈るわ」

「そんな……勿体ないお言葉です」
「天愛様、なんてお優しいの……」

(……飼い慣らされている……)

 紅花は侍女たちの様子を見てぞっとした。嫌がらせをする程だった彼女たちをここまで従順にさせるとは、天愛皇后の人心掌握術は恐ろしい。

「この短期間で素材を用意するのは大変だったでしょう」
「紅花が早めに情報を盗んできてくれたおかげよ? 貴女もありがとう。頼りになるわね、本当に」

 ちゅっと天愛皇后が紅花の額に唇を重ねた。

「きぃぃ! 天愛皇后様に口付けしてもらえるなんて羨ましい……!」

 隣から侍女たちの嫉妬の叫びが聞こえてきたが、相手にするのも面倒なので視線を逸らして聞こえなかったふりをした。

「今夜わたくしのお部屋に来る?」

 こそっと耳元で囁かれる。天愛皇后の甘い声に流れで了承してしまいそうになったが、はっとして「……いえ。そのような趣味はありませんので」とお断りした。

「あら、残念」

 ふふふと紅花から離れた天愛皇后は、長子皇后にも負けない程に美しい。

(……どこまで本気なんだか)

 妾として狙われているにしても、皇后と鬼殺しでは釣り合わない。そもそも皇后の妾って何なんだ。でも、元々奴隷だったことを考えると、天愛皇后にそのような身分による差別意識はないのかもしれない。自分には帝哀という想い人がいるのだから、この美貌に流されて襲われないようにしないと、と改めて決意した。

 ■

 紅花の振り下ろした剣によって、ぐしゃりと音を立てて狂鬼の死体が崩れ落ちる。庭師から鬼殺しに戻ったばかりの頃は一時抵抗感を覚えたものの、繰り返しているうちにまた慣れてきた。死体を回収しながら、剣に付着したどろりとした液体を拭いていると、こちらに近付いてくる誰かの足音がした。
 魑魅斬だろうか。でも彼の今日の見回りはこの辺りではないはず……と不思議に思って顔を上げる。――そこに立っていたのは、閻魔王、帝哀だった。

「帝哀様! どうしてこちらに? 裁判の方はよろしいのですか?」

 思わず駆け寄りそうになったが、その前に帝哀に鬼の死体の臭いを嗅がせるわけにはいかないと思い、急いで死体を片付ける。
 ふ、と帝哀が笑った。

「元宵節の前は全ての裁判がなくなるんだ。それにしても、まるで主人の来訪を喜ぶ犬のようだな。後ろに尻尾が見えそうだ」
「だって会えて嬉しいんですもの。帝哀様がお望みなら、犬でも何でもなりますよ」
「へえ?」

 壁に背を預けて紅花の仕事を見下ろす帝哀は、興味深そうに目を細める。

「本当に飼ってやろうか?」
「……!」
「冗談だ。食い付くな」

 紅花が頬を綻ばせると、帝哀がおかしそうに噴き出す。帝哀は最近、紅花をからかうことが増えた。気を許してもらえたようで嬉しい。

「明日の元宵節について話したかったんだ。お前、暇か?」
「暇というか……。鬼殺しの仕事があります。祭りの最中に人が襲われてはいけないので」
「見回りか。なら、俺も一緒に回っていいか?」

 勿論――と答えようとして、そこではたと、飛龍とした約束を思い出した。

「ぜひ、ご一緒したいです。ただ……飛龍様もいますけどよろしいですか?」
「は?」

 帝哀の声が急に低くなる。先程までの柔らかい表情とは一変、顔も怖くなったので紅花の背筋が伸びた。

「飛龍様とは以前から約束していまして」
「飛龍と? 以前から? 元宵節を共に回ると?」
「は、はい……」

 帝哀の目が恐ろしすぎて叱られた子供のように声が小さくなる。帝哀はじとっと紅花を見つめた後に恨み言を言う。

「俺が好きだと言ったくせに、浮気者め」
「ええ!? 勿論好きです! 飛龍様とは比べ物にならないくらい大好きです!」
「どうだかな。大体、以前から思っていたが、お前は飛龍と仲が良すぎじゃないか?」
「仲が良い…………? え? そう見えますか? 本当に……? 私と飛龍様がですか?」

 いくら思い返しても飛龍とは言い合いをしている回数の方が多い。どこをどう見てそのような判断がなされたのだろうか。
 不思議に思っていると、通路の向こう側から聞き慣れた楽しげな声がした。

「ねえねえ、ひょっとして俺の話してるぅ?」

 飛龍だ。閻魔王に裁判の仕事がないということは、宋帝王にもないということ。彼も暇していたのだろう。
 隣の帝哀があからさまに眉を寄せた。

「何だよその顔。俺がいちゃおかしい? ここは俺の区域だよ? どっちかって言うと、何で帝哀がこっちに来てるのかの方が不思議なんだけど」

 飛龍はその緑色の眼を光らせて言う。

「もしかして、紅花に会いに来たの?」

 帝哀は淡々と、「ああ」と短く肯定する。
 意外だと思ったのか、飛龍の口角がゆるりと弧を描いた。

「ふうん。いつの間にそんなに仲良くなったんだか」
「毎日共に寝ている仲だからな」

 さらりと飛龍に一緒に寝ていることを暴露され、紅花の顔が熱くなる。

「……聞いてないけど?」

 飛龍がじとりと紅花を見つめる。

「……別に飛龍様に伝える必要性もないでしょう」
「君、冷宮で寝てるんじゃなかったの?」
「結構前から、夜は帝哀様の養心殿へ行くようになったのよ」
「へえー? ふ~ん? やーらし。そんなことしてたの、帝哀」

 飛龍はにやにやしながら、今度は帝哀に視線を移す。

「俺がその女に手を出すことに何か不都合でも?」

 ぴしりと飛龍と帝哀の間の空気が凍ったような気がした。

「何その態度。言っとくけどねえ、紅花は俺が先に見つけたんだよ?」

 飛龍の目が笑っていない。

「先に見つけたから何だ? 紅花は俺に会いに後宮に来たんだが」

 帝哀も、心なしかぴりついているように見える。

(な……何よこの空気……)

 相対する飛龍と帝哀を交互に見つめながら居心地の悪さを感じていると、そこへ文通鬼が走ってきた。

「手紙です! 手紙でーす! 紅花様宛てでぇ~す! って、わァ!! ひっ、何で十王様がこんな狭いところに!?」

 様々な文を何十通も預かって運んでいるであろう文通鬼は、大きな袋を持ったまま飛龍と帝哀の姿を見て腰を抜かした。
 確かに、十王のうちの二人がこんなところに固まっているのは不自然だ。紅花は驚いて声も出なくなった様子の文通鬼から手紙を受け取った。
 文字を読めないので、傍にいる帝哀に内容を確認してもらった。

「長子からだな。〝茶を用意した、今日中に来い〟と書かれている」
「元宵節の前日なのに、忙しくないのでしょうか……」
「準備は早々に終わっていて、逆に今暇なんだろう。それより……お前は俺にだけ畏まっているな」
「え?」
「飛龍には馴れ馴れしい口調だ」

 意図が分からず戸惑っていると、飛龍が紅花の首根っこを掴んで自分の近くに引き寄せる。

「なぁに~? 紅花に友達みたいに接してほしいってことー? 俺らが仲良しすぎて羨ましーの?」
「…………」
「ま、しょうがないよねえ。実際、仲良しだし」

 また空気が凍る。腰が抜けたままの文通鬼が地面を這って逃げていくのを見て、紅花も「あの……長子皇后様に呼ばれているので…………」とか細い声で伝えてその場を去った。
 少し距離を置いてから後ろを振り返ると、二人はまだ何か喋っているようだった。

(あの二人、仲良かったはずだけど……)

 何だか今日はどちらも不機嫌だった。不思議に思いながら、運び鬼を利用して閻魔王の区域へ向かう。今日は門番がいないため、比較的区域間の移動が自由だ。




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