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福島と三里塚、そして沖縄。

2022年のコメント
 福一原発事故による放射能被曝を避けるために、沖縄に避難移住して9年、その沖縄では、海を埋め立てて米軍の新しい基地が作られようとしている。三里塚でもそうであったように、それまで同じ集落で助け合いながら暮らしてきた人間関係が、国に理不尽を受け入れるか否かで掻き乱され壊されてきた。
 当時、三里塚空港建設反対同盟青年行動隊のリーダー、島寛征さんによれば、彼も含めて三里塚の開拓農民には、沖縄にルーツを持つ人がけっこういた。親が若いとき本土に出てきて働いていた人びとが、戦後、集団開拓に加わったなどによる。
 開拓農民は原野を伐採して焼き、根っこを掘り出して開墾するということを10年近く行ない、農地を作ってきた。国はその農地に空港を作るために、農民を追い出した。
 この国は、沖縄戦の後、命を支えてきた宝の海を埋め立てて、米軍基地を作り、人びとを新たな戦争の恐怖に陥れようとしている。
 みんなつながっている。福島・三里塚・沖縄……………………。
 タイトルの写真は、『壊死する風景—三里塚農民の生とことば—』より。

『壊死する風景』(のら社)表紙。

  この本は、当時の青年行動隊の座談会の記録です。出席者は、秋葉義光(1948年生)・石井新二(1947年生)・石井恒司(1948年生)・石毛博道(1949年生)・小川了(1941年生)・三ノ宮文男(1949年生)・島寛征(1942年生)・前田勝雄(1944年生)・柳川秀夫(1947年生)。
 本が発行されたのは1970年なので、当時、29歳から21歳の若者です。
 このうち三ノ宮文男さんは、1971年10月、第二次強制代執行の直後に、「俺達の所へ空港なんぞもってきたやつがにくいです」と遺書を残して、自死しました。


2011年5月21日
農民が、農地を奪われるということ。

 東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故で、農業にたずさわってきた多くの人びとが、それまで暮らしてきた土地を奪われ、農業を放棄せざるを得なくなっている。避難を余儀なくされ、それまで築いてきた、いわば村落共同体による人間関係や培われてきた文化なども、大きな影響を受けている。
 テレビでは、そのさまざまなエピソードが紹介されている。
 お金では手に入れられないものの大切さ、いったん壊されてしまったものの再建は、難しいだろうということなど、原発事故がもたらしたものの、取り返しのつかなさなど、金の亡者・東電の経営者連中には分からないだろうなと、思ったりしている。

 私が、同時に思い出すことがある。
 東電の連中の姿に重なり合うのは、私の記憶にある成田空港を建設した「空港公団」の連中である。
 今は、あたりまえのようにみんなが使っている成田国際空港は、やはり、広大な農地の上に建設されたということ。地元農民は、「空港建設反対同盟」を結成して、小学生からその祖父母までが、反対運動に立ち上がった。
 そのとき、彼らは、今、福島原発で農地を奪われる人びとと同じことを言っていた。
 戦後の開拓農民として北総台地に入植し、やっと豊かな農地に育ててきた彼らを、国は強制執行によって土地から引きはがしてきた。
 あのとき、彼らの訴えを、いったいこの国の何人の人がまともに聞いただろうか。
 今のように、彼らの訴えがテレビニュースで放映されることは稀であった。
 福島の人びとや原発事故とそれに対する東電や国の対応に怒りを持つ人びとが、かつての三里塚農民の苦悩に思いを馳せてもらえたらと、当時、何度か三里塚空港反対の現場に足を運んだ私としては、思うのです。


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