見出し画像

教科書には載っていないフランス革命の話

こんにちは、オレリアンです。
私はフランスの歴史では18世紀がやはり好きなのですが、今回はフランス革命の小話とか背景などについて書いてみたいと思います。


フランス革命とは?

映画「La Révolution française (1989)」よりバスティーユ監獄になだれ込む民衆。話し合いで解決する努力はされたが結局民衆と王国軍の武力衝突が起きてしまった

説明するまでもないとは思うのですが一応完結にフランス革命について説明します。フランス革命とは1789年のバスティーユ監獄陥落(ちなみに監獄が狙われたのは武器や火薬をとるためです。囚人の解放とかではありません。そもそも当時囚人は7人しか収容されていません)から大体十年間ナポレオンによる権力掌握の1799年くらいにフランス王国で起こった政治体制の変化です。それまで1300年間続いてきたフランスの絶対王政が終わりを告げ、市民が政治の実権を握る共和制へと移行しました。

フランス革命なんて今の自分には関係ないと思われる方もいるかもしれませんが、決してそんなことはなく、「すべての人間は生まれながらにして平等である」とするフランス人権宣言やメートル法の制定、拷問の廃止、表現の自由が初めて認められる(それまでは王政を批判すると逮捕された)、裁判における判事は貴族出身という理由ではなく選挙で選ばれるようになったり、1791年には新たな刑法がつくられ、離婚する権利、同性愛への刑罰の撤廃、正当防衛が認められました。これらは現代では当たり前ですが、当時のフランス社会は身分制度で、貴族とキリスト教の司祭がヒエラルキーのトップに君臨し、第三身分と言われる平民(つまり生まれながらの貴族と僧侶以外すべて)が重税にあえぐという構造をひっくり返したので大変なことでした。
(たまに勘違いしている人がいますが、ブルジョワ(Bourgeois)と貴族(Noble)は別物です。ブルジョワは商売がうまくいった金持ちの平民のことですので、第三身分に含まれますし、税金も第三身分と同じです。)

ちなみに1789年時のフランスの身分のパーセンテージでは、第三身分(商人、農民、職人)がなんと人口の98パーセント!を占めます。そのうちの80パーセントが農民でした。

また、レストランもフランス革命期に生まれています。なぜでしょうか?レストランという言葉(Restaurant)はそもそもフランス語の動詞「Restaurer (力をつける)」から来ています。当時プロの料理人の料理を楽しめるのはお金持ちの貴族だけでしたが、市民が反乱してギロチン祭りが始まると、身の危険を感じた貴族は国外に亡命しました。雇用主を失い、取り残された料理人がお金を稼ぐために始めたのがレストランの始まりとされています。
Restaurantという単語を見てどうして「レストラン」じゃないんだろう?と思った中学生の君、それはこの単語がフランス語だからなのだ。

フランスに関しては言えば現在のフランス国旗や国歌「ラ・マルセイエーズ」はフランス革命のおかげで生まれたものです。ラ・マルセイエーズの歌詞がやたら「武器をとれ、市民よ!」とかやたら血なまぐさいのはそのためです。

ただフランス革命には良い面ばかりでなかったのも事実です。王政を打倒したフランス革命政府はギロチンによる圧政を敷き、恐怖政治(Terreur)という言葉を生み出し、「テロ」の語源となっています。

18世紀パリの風景

この動画では18世紀のパリが音声つきで再現されていておもしろいです。

僕は今からみなさんの幻想を壊します。
当時のパリについて思いをはせるとき、現代のパリを思い浮かべてはいけません。現代のパリはナポレオン三世の時代、セーヌ県知事のジョルジュ・オスマンが主導したパリ大改造の上に成り立っているためです。中世に城塞都市だった影響で、18世紀のパリは、道は舗装されておらず、狭い道がまがりくねったようにのたくっています。それから当時の住居にはそもそもトイレがありません。ヴェルサイユに下水道がないので、それが庶民の家にあるはずもありません。人々は尿瓶とかバケツに排泄をしてそれを道にそのまま捨てます。生活ごみも全部道に捨てますし、男も女もみんな外でおしっこをします。道に排泄物の入ったバケツを投げ捨てるときは「Gare à l'eau(水に気を付けて!)」というのがマナーです。まあ中身は水じゃないのですが。

外でおしっこする女性を上からおじさんが見ている

そんな状態では街が臭くてたまらないのでは?と思われた方もいるかもしれません。全くその通りで、当時の人々の暮らしを書いた作家のルイ=セバスチャン・メルシエ(Louis-Sébastien Mercier)は、「街を出た後半里は肥溜めや汚物のにおいがする」「チュイルリーのテラスは臭すぎて近づくことすらできない」「ほぼすべての教会から死体の腐敗臭がする」「チュイルリーではイチイの茂みで人々が並んで排泄をしている」と書き残しています。

住居

現代ではマンションでも上の階のほうが家賃が高いですよね。貴族、ブルジョワ、庶民は当時同じアパルトマンで暮らしていましたが、今とは逆で一階が家賃が高く、上に行くほど家賃が安くなっていました。貴族は1階や2階に住み、貧乏な家族は屋根裏部屋で暮らしていました。

フランス革命前夜のインフレと物価高

「重税と貧困にあえぐ市民が蜂起し、国王と女王を処刑して王政を打倒した」と教科書的な書き方をすると、平和な現代日本に住む我々には頭では理解できてもいまいちどうしてそんなことになったのか掴みかねるところがあります。別に処刑しなくてもよくない?などとは思いませんか?なぜここまでの事態になったのかを理解するには当時の平民のリアルな暮らしを知る必要があります。

現代日本でもここ数年は賃金上昇の共わないインフレと物価高で庶民の生活が苦しいというニュースをよく聞きます。フランス革命の原因はルイ14世の時代から続く財政難など複数の物が組み合わさったものですが、長引く悪天候による小麦の不作によりパンの値段が暴騰し、庶民が飢えたことが大きな要因となっています。

当時の庶民の食卓

そもそもなぜパンがないことでそんなにガチギレしたのか?

現代のフランス人は一日に100グラムから200グラムのパンを消費すると言われています。アンシヤン・レジーム(Ancien régime=フランス革命前の旧体制のことをこう言います)の時代では、一人一日1キロから2キロのパンを消費していました。なぜこんなにたくさんのパンを食べていたのか?それは単純に当時長持ちする栄養のある食べ物がそれしかなかったからです。冷蔵庫も缶詰もない時代ですから、文字通りパンが主食です。森に入ってウサギでも鹿でも取ればいいじゃないかと思う方がいるかもしれませんが、当時フランスは狩猟は平民には禁止されています。それじゃあ、じゃがいもを食べればいいじゃない。じゃがいもがフランスで普及するのはもっと後ですし、そもそもじゃがいもは毒があると思われていたので、1748年に栽培が禁止されています。

悪天候が続いたせいで小麦がとれなくなったフランス。1789年春にはパン屋がパンの製法を変えざるを得なくなるほど追い詰められます。庶民は家畜のエサや、もっとひどいことにおがくずや土を混ぜたパンを食べなくてはいけませんでした。もちろんこんな混ぜ物でかさ増しされたパンがおいしいわけはありません。こんな粗悪なパンでも需要と供給のバランスが激しく崩れているせいで、値段は上がり続けます。

物品入市税 (Octroi=オクトロワ)

当時フランスには物品入市税(Octroi)という税金がありました。これはどういう税金だったのでしょうか?当時、フランスの地方で収穫された小麦は当然馬車とかに乗せられてパリに輸送されてきます。そのとき、小麦を乗せた馬車が村とか橋を一回一回通るたびに、税金と称して小麦の一部が徴収されたのです。小麦の袋が35袋あったとしたらパリに着くころには25袋になっていたというような感じです。

パンの値段はどれくらい上がったのか?

映画"La Révolution française (1989)"よりパンを強奪する女性

具体的に当時のパンの値段はいくらだったのか?1750年には約450グラムで2スーでした(スーというのは当時のお金の単位です)。平均一人一日で1.8キロ(4リーブル)ほどパンを消費していましたので、一人分の一日のパンの値段は8スーだったということになります。

1789年のパリでは1.8キロ(4リーブル)が14スーにまで値上がりました。ちなみに当時のパリの人口の8割を占める単純労働者の平均日給は20スーで日雇い労働者は15スーです。パンを一つ買えば収入のほとんどがそれでおしまいです。服なども買えませんし、その粗悪なパンですらおなかいっぱいは食べられないのです。当時の労働者はこの収入の中から食費のほかに家賃や税金や服などの雑費を払わなくてはいけませんでした。服などは簡単に大量生産できる現代とは違い、シャツ一枚が2か月分の給料だったと言われています。食費が収入のほとんどを占めていれば当然生活していくことはできません。

「Histoire au quotidien」というフランスの歴史ドキュメンタリー番組によると、当時のパン一つの値段を現在のユーロに変換すると現代の値段の13倍、丸パン一つ56ユーロだそうです。56ユーロをこの記事を書いている今のレートで円に変換すると9169円になりました。成城石井でもこんな値段のパンは売っていないでしょう。

当時パンはツケで買えたでそうですが、客の支払い能力がなくなると当然パン屋はパンを売らなくなります。ホストクラブと一緒ですね。
人はやはり飢えると理性を失うのか、パリの民衆は力づくてパン屋からパンを強奪し始めます。
そんな中1789年10月21日にドゥニ・フランソワ(Denis François)というパン屋のおじさんが自分だけパンを独り占めする気だろうという疑いをかけられて民衆にリンチされて殺害される事件まで起きています。

こう一方的に書くとルイ16世は食糧難を放置していたような印象を受けるかもしれませんが、そんなことはなく、パリでパンを配布したり、アメリカやアルジェリアから小麦を輸入したり、パン屋に補助金を出したり、財政出動してインフレを抑えようとしたりしています。

ルイ16世は心の底では最初から最後まで革命を絶対に認めていません。それはヴァレンヌ逃亡事件で王党派と協力しようとしたことや、その後の新憲法承認でフランスが立憲王政に移行した際、オーストリアが革命派を弱体化させることを願っていることからわかります。ヴァレンヌ逃亡事件の前に「政治的遺言書(testament politique)」という長い手紙を全フランス人にあてて書いていますが、そこにはこう書かれています。

「フランス人、特にパリジャンよ、王家の先祖が美しいパリの都と呼んだ街の住人よ、どうか友人のふりをした者の意見や嘘に惑わされないでほしい。王のもとに戻ってきてくれ。王はいつでもあなたたちの父なのだから
Français, et vous surtout Parisiens,  vous habitants d'une ville que les ancêtres de Sa Majesté se plaisaient à appeler la bonne ville de Paris, méfiez-vous des suggestions et des mensonges de vos faux amis, revenez à votre roi, il sera toujours votre père,」

ルイ16世はバスティーユ陥落した後も武力弾圧をしていませんし、財政改革を試みていますし、拷問を廃止していますし、処刑される際にも「私の血がフランス国民の幸福を確固たるものにすることを願う(Je souhaite que mon sang puisse cimenter le bonheur des Français)」と言っているし、息子のルイ=シャルルにも同志フランス国民を憎んではいけないと言っているし(ルイ=シャルルは後のルイ17世で教育係の靴屋に虐待されてネグレクトの末亡くなる)、過激派の革命派が言うような「Tyran(暴君)」とは真逆の人物だったと思います。執政者としては優柔不断で決断力に欠けるところは否定できませんが、フランス人の幸福を思う心優しい善良な王だったのではないでしょうか。

私見ではありますが、革命の熱気にうかされて、まともな裁判もせずルイ16世を処刑してしまったことは、その後のフランス人の心にトラウマをうえつけたように思えてなりません。ルイ16世の追悼ミサが1815年からなんと現在にいたるまで毎年欠かさず行われていることもある種の後悔のあらわれのように私には思えます。

フランス人ついにブチギレ。関税徴収所を燃やす

放火されるOctroi de la Conférence

地方でとれた小麦がパリに輸送される際に、街や橋を通過するたびに年貢として小麦の一部がとられたと前述しました。1789年、バスティーユ監獄陥落の数日前7月12日についにフランス人の堪忍袋の緒が切れます。関税徴収所が放火される事件が起きました。1791年にはOctroiは正式に廃止されます。

当時のSNS大炎上「ヴァレンヌ逃亡事件」

ヴァレンヌ逃亡事件の様子を描いた版画

フランス革命において国王一家にとって大きな転換になった出来事が「ヴァレンヌ逃亡事件」です。皆さんご存じかもしれませんが、一応軽く解説します。「ヴァレンヌ逃亡事件」とは1791年6月、革命派を脅威に感じ、身の危険を感じた国王一家がフランス北東部にあるモンメディで王党派と、可能であればマリー=アントワネットの実家であるオーストリア軍と協力し、革命派と対抗しようした事件です。日本語のウィキペディア版を見ると、「フランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの一家がオーストリアへの逃亡を図り」と書いてありますが、ルイ16世はあくまでフランス国内に留まるつもりで、最終目的地はフランスのモンメディだったので、完全に正確とは言えないと思います(アントワネットはオーストリアへの亡命を提案するつもりだったとは思いますが)。
では、なぜ「モンメディ逃亡事件」ではなく「ヴァレンヌ逃亡事件」と呼ばれているかというと、最終目的地モンメディの手前の村ヴァレンヌで正体がバレて捕まったからです。

写真もないのになぜ正体がバレたのか?

私は「ヴァレンヌ逃亡事件」について知ったときに疑問に思ったことが一つあります。それは、当時はSNSはおろか写真もないのに、どうしてフランスの片田舎で国王一家の正体がバレたのか、です。当時ヴェルサイユ宮殿は誰でも出入りできたので、パリ近郊であればルイ16世やアントワネットの顔を見たことがある人はいるかもしれません。当時の人はどうやってパリから200キロ以上離れた田舎でそれが国王一家であるとわかったのでしょうか?

貨幣の肖像でバレる

ジャン=バティスト・ドルーエ。めちゃくちゃ意思が強そうな顔をしています

ヴァレンヌの手前の町でジャン=バティスト・ドルーエ(Jean-Baptiste Drouet)という宿駅長が国王一家の乗った馬車を見かけて、野性の勘でルイ16世だと思ったドルーエは当時の貨幣の肖像画で国王だと確信しています。

国王一家にとっては運の悪いことにこのドルーエという人は熱心な革命派で、国王一家が国外逃亡していると警鐘を鳴らして大騒ぎしています。その後先を行っていた国王一家の馬車をヴァレンヌまで追いかけて逃げられないようバリケードを張る、ヴァレンヌの地区長(Procureur-syndic)だったジャン=バティスト・ソース(Jean-Baptiste Sauce)を「このまま国王一家の馬車をいかせたらおまえも反革命の反逆罪だぞ」と脅して足止めするなどしています。
最初ソースは面倒はごめんだと国王一家の馬車を通そうとしていたので、ドルーエがいなければヴァレンヌ逃亡事件が成功していた可能性は十分あると思います。

ルイ16世の人気が失墜

ルイ16世

もともと敵国だったオーストリアから嫁いで来たアントワネットは革命の初期から「Autricienne(オーストリア女)」、「Madame Déficit(赤字夫人)」などと言われて庶民のバッシングの対象になっていました。その一方ルイ16世は国父として革命のさなかにあっても国民に慕われていたのです。また当時は王権神授説が信じられていて、王権というのは権利を神から委託されたとのだという考えがありました。

当時のフランス国民からすると、ルイ16世の逃亡は「国王が俺たちを裏切って敵国オーストリアと結託し、革命を武力弾圧しようとしている」という風に映りました。ここでフランス国民のルイ16世への認識が完全に「裏切者」になってしまったのです。当時SNSがあれば大炎上していたと思います。

当時の誹謗中傷

当時の誹謗中傷といえばもちろん風刺画です。「La famille des cochons ramené dans l'étable (家畜用の荷車で連れ戻される豚の家族)」と書かれています。

肖像画を見るとわかりますがルイ16世は大食漢で肥満だったので、王国を食べつくす強欲な動物にたとえられています。

「オーストリアの鳥」と書かれています。Autriche(オーストリア)とAutruche(ダチョウ)のダジャレでおわかりの通りアントワネットに対する風刺画です。

ルイ16世とアントワネットの風刺画です。Les deux ils font qu'un (二人でひとつ)って書いてあるのかな?違ってたらすみません。

これも国王一家が動物にたとえられています。下にセリフが書いてあって漫画っぽさがあります。向かって右のムチを持った人が革命派で、「この畜生ども、俺たちの血で肥えたくせに、俺たちの喉をかき切ろうとしてきやがる(Le Sans-Culotte : Maudits Animaux, nous les engraissons de notre sang, et ils veulent nous faire égorger)」と言っています。

なんかこうやってみると人間て時代変わっても同じことしてるような気がしてちょっと鬱になります。

歌でも誹謗中傷されている

ルイ16世とアントワネットは当時の歌でも誹謗中傷されています。

「ラ・カルマニョール」という当時民衆の間で流行った1792年の歌なのですが、歌詞に「Madame Veto avait promis de faire égorger tout Paris mais son coup a manqué(マダム・ヴェトはパリ中を血祭りにあげると誓ったが、失敗した)」とあります。Vetoは現代フランス語では獣医のことですが、ここに出てくるVetoはもちろん違います。このVetoはDroit de veto(拒否権)のことです。新しい憲法は国王の拒否権を認めていて、法案を却下することができました。1792年フランスはオーストリアに宣戦布告し、戦争状態になるわけですが(ルイ16世の狙いは対外戦争によって革命派を疲弊させることです)、このときパリに全国から2万の国民衛兵を集める法案にルイ16世は拒否権を発動しています。これが革命派の間で炎上し、歌の中でルイ16世とアントワネットの悪口になりました。日本語にしたら拒否権おじさん、拒否権おばさん、みたいな感じでしょうか。

アントワネットに関しては歌の中でさらに名指しで悪口を言われています。「アントワネットは俺たちに尻もちをつかせようしたが、失敗して鼻が折れた(Antoinette avait résolu / De nous faire tomber sur le cul
Mais son coup a manqué / Elle a le nez cassé)」

ルイ16世の人気は失墜したと書きましたが、この後ルイ16世は裁判にかけられて死刑にするかどうかが投票で決められます。このとき、死刑賛成が387、反対が334。賛成派のうち26名が執行猶予つきという条件で、これを反対派に入れると361対360となり、1票差で死刑が可決されたことになります。ヴァレンヌ逃亡事件という大失態の後でこの結果を顧みると、やはり当時のフランス人でも国王の処刑にはかなりためらいがあるように思えるのですが、どうでしょうか?

炎上はどのように広がったのか?

当時はインターネットはありませんので、ニュースは手紙とか新聞とかが馬車で地方に運ばれて広まります。例えばパリのニュースがリヨンに届くのに最短2日、最長で5日ほどかかったと言われています。

当時のフランス語はマイナー言語だった?

こんにち我々がフランス語と呼んでいる言語はフランスのパリ近郊で話されていた言語に過ぎず、当時は地方ではその地方特有の言語が話されていました。アルザスではアルザス語で会話していましたし、ノルマンディーではノルマン語、ブルターニュではブルトン語が話されていました。これらの言語は方言とかいうレベルではなく、フランス語とは全く異なっていたので、当然フランス語で話す人はアルザス語で話す人とは意思の疎通はできません。
当時のフランス人口2800万のうちフランス語話者は300万に留まります。
革命運動が活発だったのはパリですが、ルイ16世が処刑されたときでも地方では王党派の勢力が強かったのです。
また当時は識字率が低く字が読めない人が多かったので、Crieurという新聞やパンフレットを公の場でわかりやすく声に出して読んでくれる職業の人がいました。時事ニュース解説系Youtuberみたいですね。

まとめ

教科書には載っていないフランス革命というテーマで裏話とか時代背景について書きましたが、いかがだったでしょうか?
フランスが毎年7月14日になぜ大規模な軍事パレードをするのか、なぜこの日が建国記念日なのかを理解するためにはやはりフランス革命について知る必要があります。皆さんもご存じの通り、この後革命政府は倒され、ナポレオンが皇帝になり、ブルボン王朝が復活してルイ16世の弟が王位についたりとしっちゃかめっちゃかになるわけですが、それでも現代まで続く重要な理念がフランス革命期に生み出されたことについては意義があります。

出典

中野京子「ヴァレンヌ逃亡 マリー・アントワネット 運命の24時間 (文春文庫 な 58-2)」
Mercier, L., & Bonnet, J. (1994). Tableau de Paris. http://ci.nii.ac.jp/ncid/BA23336999
L'Histoire au Quotidien - La Révolution Française

安達 正勝「物語フランス革命: バスチ-ユ陥落からナポレオン戴冠まで (中公新書 1963)」
https://www.revolutionfrancaise.website/2020/11/10-novembre-1789-le-penurie-de-farine.html







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?