見出し画像

失われた羞恥心を求めて

「恥の多い生涯を送って来ました。」

太宰治の人間失格の冒頭。

人間失格を書き終えた太宰は、一ヶ月後、女と共に入水自殺した。時に太宰治38歳。

人間失格は表装を何度も何度も変えながら若い人に読み継がれている。恥を恥と感じることが出来る世代にとって、自分を恥じ入り、自分自身を虐め抜くこの小説は、生きることの恥ずかしさに消え入りたいと思っている羞恥心を失っていいない若者が、太宰と自分と重ね合わせ、人生のバイブルとして大切に本棚に飾りもするのだろう。

若い世代に支持される人の絶対条件は羞恥心を持っていること。でも人は何故、人生という時間を経過する毎に羞恥心を失ってしまうのだろうか。

僕の若い頃のアイコンは尾崎豊だった。彼の繊細で内省的で、世の中と自分の未来に対する絶望を描いた詞に多くの同世代の若者は共感し、カラオケで何度も何度も歌っていた。

時は流れていく。人は変わっていく。

今、僕と同じ世代の人間で尾崎を心の底から愛し、若い頃に持っていた理想をいつのまにか失くしてしまい、今の堕落した自分を恥ずかしいと思っている人はどれほどいるのだろうか。

人に揉まれ、社会に揉まれ、世間に揉まれていく中で、人は磨かれ成長するものだと僕は信じている。
しかしながら、その磨かれる過程で自分の尖っていたものを強引にへし折られ、削り落とされ、無鉄砲で衝動的な自分は殺されていき、気が付くと計画的で非生産的なことに懐疑の目しか向けることの出来ない、昔嫌いだった大人に自分がなっていることに気付く度に悲しくなってしまう。

それでも昔の自分を失って悲しいと思える自分はまだましなのかもしれない。厚顔無恥で、立場が変わればそれまでの意見とは180度意見を変えることに躊躇を覚えない人は沢山いる。実際に、社会的な栄逹を極めようとすると多かれ少なかれ所謂処世術なるものを身に付けざるを得ないし、その身に付けた処世術が、サイコパスでカメレオン的にころころと態度を変える能力が高ければ高いほど、社会的な高みに上ることは言を待たない。

そうやって羞恥心と引き換えに地位を得た人間は、次第に顔が歪み始める。人の顔はもともと左右非対称なのだが、それが強調され始め、ひょっとこみたいな顔に変わってしまう。

価値観は人それぞれ。歪んだ美というものも存在するのだろうが、やはり歪んだ顔は醜い、と僕は思う。男の身ながらも美意識を価値観のプライオリティの一番上に位置付けて生きている僕には耐えられない。

美意識は単に見た目だけではないのだが、外見は内面の一番外側といも言う。大人になればなるほど痩せ細っていく羞恥心を辛うじて僕がまだ持ち合わせているのは美意識の影響が多いのかもしれない。
また「美意識=羞恥心」という公式が成立するのなら、見た目を気にするのは羞恥心の現れであり、自分が異性から少しでも魅力的な存在でありたいある自分を見せたいという自己表現の発露とも言える。

もしかすると羞恥心は性と密接に関わっているのだろうか。はたまた単に羞恥心を失った醜い存在に人は性的な魅力を感じないだけなのだろうか。

いつものように思考の迷路に迷い混んでしまったみたいだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?