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旅の記:2023年8月のツアー㉜林泉寺<上杉家・直江兼続菩提寺>(山形県米沢市)

【旅の記:2023年8月のツアー㉜林泉寺】

林泉寺は山号を春日山とする曹洞宗の寺院で、米沢藩上杉家、そして直江兼続の菩提寺です。山号が示すように、新潟県上越市は春日山城の麓にあったお寺ですが、慶長5年(1600年)関ケ原の戦いの後、米沢に移封になったときに上杉謙信の姉で、景勝の母でもある仙桃院が元和3年(1671年)に建立した。伽藍は元和5年(1619年)に完了、享保17年(1732年)の火災で大半が焼失したが、元文5年(1740年)に再建、現在に至る。「2023年7月のツアー」でも行きましたが、新潟の林泉寺もあります。
謙信の遺骸は米沢城本丸にお堂を建てて安置されていたために、林泉寺は謙信廟所ではなくなってしまい、また歴代藩主の墓は廟所が造営されたたこともあり、藩主正室や子女、家臣の墓が安置されている。
直江氏の菩提寺としては、寛永14年(1637年)に徳昌寺と争いがあり、結果徳昌寺は廃絶となり与板(新潟県長岡市)に追放され、徳昌寺の寺域は林泉寺に併合、直江兼続夫妻の墓も林泉寺が管理することとなり、墓を寺内に改葬した。

山門
春日明神社。上杉鷹山は藩財政再建の誓詞を白子神社とこちらに奉じたそう。また当時寄進された雨ごいの大般若経も現存しているそうです。
本堂
本堂を左手に行くと
上杉家家臣・吉江宗信・吉江家累代の墓
武田大膳太夫信清の墓。武田信玄6男で、武田氏滅亡後、景勝に嫁いでいた姉・菊姫をたより上杉家に臣従、高家衆筆頭として3300石を賜り明治維新まで続いた。
直江兼続の墓。元和5年(1619年)に病死。享年60。

景勝を支え、秀吉からは豊臣姓を賜り、家康に楯突いた兼続。「愛」という字を前立にあしらった甲で有名ですね!結局、関ケ原の戦いのあとに米沢に減転封させたれ、悪役とされていた時代もあるそうですが、9代藩主の鷹山が兼続を手本に藩政改革を行い再評価された。兼続は記録上妾を持たず、妻・船は寛永14年(1637年)に死去。直江家は兼続の死後、息子が早世したことなどもあり断絶した。兼続は徳川家重臣・本多正信の次男・政重を婿養子とし、娘が亡くなってからもその縁組は続いたが、政重は上杉家を出奔、以前仕えていた前田家に帰参した。これは藩財政が厳しくなった上杉家から合法的に家臣を引き取る手段だったのではないかとも言われる。この政重さん、かなり面白い方なので、いつか詳しく記したいですね!

上杉家廟所
謙信の姉・仙桃院。息子・景勝に兼続をすすめたともいわれる。慶長14年(1609年)米沢城内で死去。享年82。林泉寺中興開基と呼ばれる。
景勝正室・菊姫の墓。武田信玄の5女。武田家・上杉家の同盟強化のために景勝に嫁いだ。才色兼備の賢夫人として敬愛された。慶長8年(1603年)死去。享年47。
上杉鷹山側室・お豊の方の墓。8代藩主重定の婿養子として米沢藩を継いだ鷹山。妻・幸姫は体が弱く30歳で亡くなってします。鷹山は側室を持たなかったが、妻を亡くした後、お豊の方を側室とした。夫の財政再建を支え、養蚕業推奨のため農家の女性を雇って飼蚕し、女中と共に絹を織ったという。

他、家康の養女で3代定勝の妻・市姫、保科正之の娘で4代綱勝の妻・媛姫(はるひめ)などがありました。

こちらも上杉家の歴史がつまったお寺でしたね。それぞれの人物について、もっともっと記したいこともありますが、あまりにも長くなりそうなので、それぞれまた機会がありましたら。。

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