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音楽を聴くことで集中力は上がるのか? 「無意識」をハックする脳神経科学者・藤井直敬の企て

藤井直敬
一般社団法人 XRコンソーシアム代表理事 デジタルハリウッド大学大学院 教授 
東北大学医学部卒業。同大大学院にて博士号取得。1998年よりマサチューセッツ工科大学(MIT) McGovern Institute 研究員。2004年より理化学研究所脳科学総合研究センター所属。2014年 株式会社ハコスコ設立。適応知性および社会的脳機能解明を主要研究テーマとする。主な著書に「つながる脳」(毎日出版文化賞 自然科学部門 受賞)、「ソーシャルブレインズ入門」「拡張する脳」など。

突然だが、読者の方々は普段どんな時に音楽を聴いているだろうか。

朝、満員電車に揺られながら? 仕事に集中すべく外界の音を遮断する時? あるいは心地よい眠りにつくための"入眠剤"として? 目的やシチュエーションはさまざまでも、あらためて振り返ってみると、音楽を聴くためだけに時間をとるケースは実はあまりないことに気づく。多くの場合、ぼくらは「●●しながら」「●● × 音楽」という形で音楽を視聴している。

では、そうやって聴いている音楽は「●●」のパフォーマンスとどのような関係があるのか。特定の音楽を聴いたら気分が上がるとか、逆に落ち着くといったことが感覚的にはあるように、もしかしたら音楽には音楽性とは別に、脳になんらかの影響を与える機能性が備わっているのかもしれない。

脳神経科学者・藤井直敬が代表を務めるVRベンチャー「ハコスコ」が、Spotify ・JINS ・楽天ピープル&カルチャー研究所とのコラボレーションで実施している実証実験プロジェクト「音で脳に働きかけるBrain Music」は、まさにこうした仮説を検証するためのものである。その公開実験イベントが2019年12月19日、デジタルハリウッド大学駿河台キャンパスにて行われた。

「ゾーン」に入るための音楽

今回の実験は、音楽をトリガーにして、脳の状態とタスクパフォーマンスを意図的に変容できるかの検証を目的に実施された。平たく言うなら、検証したいのは「音楽を聴くことでゾーンに入れるか」。実験の概要は以下の通りだ。

・一般公募で集まった80人が被験者として参加

・10分間の簡単な計算課題を2回行う。1回目はそのまま、2回目は実験用に用意された音楽を5分間聴いた上で計算を行い、計算量と正答率にどのような変化があるかを見る

・一部の被験者は脳血流量計測装置「NIRS」で脳波を計測。別の一部の被験者は「JINS MEME」で目の動きのトラッキングを行い、集中度を計測する

Spotifyはユーザー一人ひとりに最適化された音楽体験を提供するため、配信5000万曲すべての特徴をキー、ポピュラリティ、テンポ、アコースティックネス、ダンサビリティなど、14個のパラメーターで分析している。今回はこのパラメーターをもとに「集中力を高める=ゾーンに入りやすい曲」を導き出し、実験に用いた。

実験に用いた曲も含めた「ZONE」「BOOST」「CALM」の三つのプレイリスト、および視聴履歴に基づいて自分好みのプレイリストが作れるジェネレーター機能はSpotify上で公開されており、誰でも利用することができる。
計算課題は、音楽を聴く前と聴いた後の2回行った。隣合う数字を足し、合計数の一の位だけを書き込む単純な計算だ。

公開実験の結果は記事執筆時点でまだ出ていないが、先駆けて行われた予備実験では一定の傾向が出たという。まず、安静時を比較すると、実験用音楽を聴いている時のほうが、聴いていない時と比べて脳活動の量を示す値が低かった。また、その後計算を始めるとどちらの場合も数値は上がるが、音楽を聴いた上で計算を始めた場合のほうが、聴かなかった場合と比べて上がり幅が小さかった。

藤井はその意味するところを次のように説明する。

「ゾーンと呼ばれる超集中状態では、頭の中が非常にクリアに感じられることが知られています。我々の意識は普段はさまざまなことに拡散していますが、ゾーンに入るとそうした無駄が減る。だから、脳の活動量は減るのに、パフォーマンスが保たれるのだと考えられます」

脳活動を計測した研究はさまざまあるが、音楽とパフォーマンスの関係性を調べた研究は、これまであまりなかった。「ただ音楽を聴いただけで脳活動をコントロールし、パフォーマンスを上げられるのだとしたら、相当実用的だし、おもしろいのではないか」と藤井は言う。

公開実験はプロジェクトのキックオフを兼ねて行われたデモンストレーション的なものだったが、2020年1月から3月にかけて実施される本実験は、楽天でウェルビーイングの研究・実装を行う楽天ピープル&カルチャー研究所の協力のもとで行われ、結果次第では論文として発表する予定だという。うまくいけば数年後には、オフィスでは音楽を聴きながら仕事をするのが当たり前になっているかもしれない。

死の谷に架かった「ダンボール製の橋」

そもそもなぜこんな実験をやっているのか。その説明の仕方は大きく二つある。

藤井はもともと理研やMITで研究をしていた脳神経科学者。理研にいたころに実験ツールとしてSR(代替現実)技術を開発したことがきっかけで、いわゆるXRの世界に足を踏み入れることになった。そこからダンボール製VRなどを扱う会社・ハコスコを立ち上げ、現在は研究者でありながら会社経営も行っている。

「なぜこんな実験をやっているのか」という問いに対しては、一つには、藤井の経営者としての顔に注目した説明ができるだろう。

「Brain Music実験プロジェクト」はハコスコが新たに立ち上げた、ブレインマネージメントソリューションを提供するブレインテック事業「GoodBrain」の一環と位置付けられている。

「GoodBrain」のタグラインは「脳と生きる」。藤井が「GoodBrain」でやろうとしているのは、培ってきた脳科学の知見をサービスに落としこみ、ぼくら一般人の生活に活かすことだという。

「脳神経科学の研究と一般人の生活とにはこれまで大きな隔たりがありました。あまりにも大きな隔たりがあるため、科学者たちには研究成果をビジネスにつなげようという発想はあまりなかった。研究業績にならないからです。一方でビジネスサイドにはアカデミズムに近づこうとする強者も中にはいたのですが、そのほとんどが"谷"へと落ち、スタートアップの死屍累々が積み上がっていました」

このような状況が長く続いてきたが、ハコスコを創業してからの5年で、ブレインテックのビジネス活用に光が差し始めた感覚があるという。これまで観光・福祉・教育・不動産など300社以上で使われてきたハコスコVRプラットフォームが、死の谷を渡るための文字通り「ダンボール製の橋」になりつつある。

崖の上がアカデミズム、坂の下がビジネスサイドを示す。ビジネスサイドはアカデミズムに近づこうと坂を登るが、もう少しのところで谷に落ちてしまう。谷底に落ちたスタートアップは屍と化すと藤井は言う。その谷に橋をかけようとしているがハコスコだ。画像提供:ハコスコ

「GoodBrain」は具体的には「アプリ」「実験」「商品開発」の三つのサービスを提供する。実験サービスでは、NIRSやEEGを使った脳活動やホルモン量の計測による、脳機能をベースとしたさまざまなサービスの効果検証を企業に代わって行う。Spotify・JINS・楽天ピープル&カルチャー研究所とのコラボレーションによる「Brain Music実験プロジェクト」はその最初の事例というわけだ。

今回の実験では、集中時間をデータする「JINS MEME」も使用された。

「脳活動の計測は、これまでは非常に大掛かりな装置や環境を必要としたため、簡単には実施できませんでした。その昔、ぼくが光トポグラフィーの技術を日立から買った時の値段は1億円ですよ。それがいまでは1チャンネル2万円で使えるようになっています」

五感を通して「無意識」に働きかける

だが、藤井は経営者である以上にやはり最先端を行く科学者だ。科学者としての藤井を突き動かすのは「おもしろい」とか「狂っている」とか「まだ誰も考えていない」といったキーワード。こちらに注目すると、「脳科学と一般人の生活に橋をかける」というのとはまた違った説明の仕方ができる。

「GoodBrain」でやりたいと考えているのは「五感を通じて脳にいろいろな情報を与え、これまで知らなかった脳のいろいろな機能を引き出す」ことだという。その中で、聴覚を刺激するのが今回の「Brain Music」。今年8月に売り出した「脳に働きかける体験型食品・エナジーバーグ」は味覚を刺激する仕掛けと位置付けられる。

脳に働きかけるというエナジーバーグは、熟成肉で人気の「格之進」とのコラボ商品だ。

「五感を通じて脳に情報を......」と言った際に、藤井がターゲットにしているのは「人間の意識」ではなく「無意識」だ。例えば「エナジーバーグ」はハンバーグの中に玉露パウダーが入っていて、食べると高濃度のカフェインが知らず知らずのうちに脳に直接届き、「食べた30分後も眠くならない」「その後も空腹を感じない」という体験を提供する。

本人がそうした効果を知っていようといまいと関係がない。食べるだけで知らないうちに脳が操作されてしまう。まさに「無意識」に働きかけている。「Brain Music実験プロジェクト」の「音楽を聴いただけでパフォーマンスが上がる」体験も同様だ。藤井はこの「無意識に働きかける」ところに科学者として最大の関心を寄せている。

なぜ「無意識」なのか。「多くの人は自分が見ている世界(つまりは意識世界)がすべてだと思っているかもしれないが、実は違う」と藤井は言う。

「脳は意識が処理している情報の何倍もの情報を処理しており、そのうちのごく一部が『美味しい』とか『この音楽が好き』といった形で意識にのぼっているに過ぎません。その背後にははるかに巨大な無意識の情報処理があります。我々はこの無意識のレイヤーにあるものを理解できるのでしょうか? 大変興味深い問いですが、現時点でその答えはわかりません。なぜなら、これまでの人間の取り組みのほとんどが意識のレイヤーをターゲットにしたものだったから。エンタメもそう。ビジネスツールもそうです」

「ARやVRが進んだ先の未来は?と言うと、多くの人は上の動画のような煩雑な世界をイメージする。でも、ぼくはこういう世界はまったくおもしろいと思わない。なぜなら、ここでも狙っているのは意識に対するアプローチだけだからです。意識が処理できる情報量は限られている。もしも人類をもっと進化させ、より豊かな世界を作り出したいと思うなら、無意識にこそ働きかけないとダメだろうと思うのです」

「主観」に閉じ込められた人間を解放せよ

藤井は1年半前にデジタルハリウッド大学大学院の専任教授に就任。「現実科学ラボ」なるものを開講した。「現実科学」とは文字通り「現実」を「科学する」こと。だが、どこまでが現実でどこからが非現実なのか、人間には判別できない時代がすでに来ていると藤井は言う。

例えば下の犬の写真。偽物の犬が一匹混ざっているのだが、どれだかわかるだろうか。

この中にいる偽物の犬はどれか。

答えは、左上の1枚。「GAN」という人工知能が自動生成したものだという。人工知能には見分けられても、どれが本物でどれが偽物か、見分けられる人間はおそらくいない。それどころか、そもそも偽物が紛れていると疑うことすら普通はしない。

これは単に「作り物が本物そっくりに見える」という話ではない。ぼくらが当たり前に「そこに存在する」と思っているものだって、本当にそこに存在するかは、実は定かではない、と藤井は続ける。

「例えばスカイツリーの先端部分は間違いなく存在するものだとぼくらは思っているけれど、触って確かめたわけでもないのにどうしてそう言えるのか。存在とは、そこにあるものとぼくらが信じているに過ぎない。信じている人にとっては存在するし、信じていない人にとっては存在しないんです。疑い始めたら一歩も動けなくなるので、とりあえずあるものとして信じているだけで」

Photo: "スカイツリー" by DaraKero_F(CC BY-NC-ND 2.0)

そんな"頼りない"世の中にも確かなものがあるとすれば、それはなにか。このことを突き詰めて考え抜いたのがデカルトだ。有名な「我思うゆえに我あり」の言葉の通り、デカルトはすべてを疑っている自分の存在そのものは唯一確かだろうと考え、それを公理として世界を再構築しようとした。

だが、デカルトの言うように主観的な自分を起点に世界を理解しようとすれば、すべてが主観にならざるを得ない。「つまり、ぼくらは自分自身の主観という膜に包まれてこの世の中に存在している」

主観とはなにか。それを考え抜いたのが現象学の祖と言われるフッサールだ。フッサールは「この世界はすべて主観的な意識体験に過ぎない」と言ったとされる。ポイントは「無意識」ではなく「意識」体験というところ。なぜなら、ぼくらを主観という膜の内側に閉じ込めているのが「意識」の仕業であるのなら、テクノロジーが「無意識」に作用することができれば、その外側に行ける可能性が出てくる。

人間の脳はそのほとんどが無意識の領域だという。もしもその無意識に作用することができれば、予想もしなかったイノベーションだって期待できるかもしれない。

これこそが「GoodBrain」というプロジェクトに込められた、科学者・藤井の企てだ。人類がこれまで閉じ込められてきた狭い世界から飛び出せる可能性がある━━。それが人に残された最後の希望ではないか、と藤井は言う。

「テクノロジーを持たない野生の身のままだったら、人間は1000年以上前にやっていたのと同じように、主観的な世界に閉じこもったまま殺しあったり愛し合ったりするだけだったでしょう。でも、いまのぼくらには人の能力を拡張するテクノロジーがある。それがすなわち、脳へのアプローチです。こういう話をすると『怖い』と言う人もいるけれど、そのためのテクノロジーがすでにあるんだからしょうがない。使わないのは損だ、とぼくは思う」

「Brain Music 実験プロジェクト」実験協力企業
スポティファイジャパン株式会社(Spotify)
株式会社ジンズ(JINS)
楽天ピープル&カルチャー研究所
TEXT BY ATSUO SUZUKI
INTERVIEW PHOTOS BY KAORI NISHIDA
EDIT BY MIZUYO TANI(BNL)
※この記事は、Sansan株式会社のオウンドメディア「BNL」に2020年2月19日に掲載された筆者執筆記事をサイト閉鎖に伴い転載したものです

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