旅と宗教とLとVR

うまくいかない状況を変える方法は、大きく分けると二つしかない。一つは、自分が変わること。もう一つは、自分を取り巻く環境の側を変えることだ。

たとえば、なにかそれまでとやり方を変えるとか、新しいスキルを身につけてできることを増やすというのは前者だし、転職して環境を変えるとか、選挙でこれと思う候補者に投票して社会変革を託すというのは後者に含まれる。

多くの場合、環境を変えるのには大きなパワーが必要だ。国や社会が「こうなればうまくいく」というビジョンをもっていたとしても、それを実現するのにはとても時間がかかるし、骨が折れる。

自分を変えるのもとても勇気がいるので簡単ではないけれど、社会や国を動かすのと比べればずっと制御がしやすいし、時間もかからない。なにより「自分次第」って思えるのがデカい。

自分が変われば世界が変わる、というのは比喩でもなんでもない、本当のことだ。たとえば5年前に読んだ本をいまあらためて読むと、まったく違う本として読むことができる。これはもちろん、本の内容が書き換えられたわけではない。

ぼく自身はこれまでそれほど接点があったわけではないのだけれど、宗教がやってきたのも、おそらくそういうことなのだろうな、と思う。

生きづらさから逃れるための方法が環境の側を変えることしかないとすると、多くの人にとってそれは不可能に近い。そうではなくて、自分が世界を眺める方法を変えることで、世界の見え方を変える。そのための方法を提示しているのが宗教なのだろう、と。

これは取材したわけでも調べたわけでもないから、完全にぼくの妄想でしかないのだが、あのオウム真理教にしたって、やろうとしていたのはそういうことだったのではないか。自分たちの側が変わることで、世界の見え方を変革しようとした。

ただ、その過程で(必然か偶然かは知らないけれども)死人が出た。それでもなお自分たちの方法論に説得力をもたせるために、それを隠蔽しようとした。そこから嘘を嘘で上塗りするように、歯車が狂っていったのではないか。

そして行き着くところまで行くと、もはや自分たちが変わることで世界の見え方を変えるというのには限界が出てくる。すると残されるのは、再び社会の側を変えることだけだ。それが選挙への出馬であり、テロであった。ぼくはそう考えている。

これはすべて妄想だし、そもそもぼくにとって宗教は人ごとだ。でも、宗教を科学に置き換えれば、とたんにそれは人ごとじゃなくなる。

科学的に、論理的に正しいということでしか物事が捉えられなくなっている自分を感じる。科学的で論理的なだけでは見えない世界があるのかもしれないのに。お釈迦さまの手のひらの上の孫悟空のように、そのことに気づけないでいる気がする。

自分の側が変わることが現実的な選択肢に入る前段階には、自分がそれまで依拠していたものの見方が絶対的ではないと認識する必要があるだろう。

ぼくがVR(仮想現実)なりSR(代替現実)なりの技術が好きなのはそこだ。この技術を使って映像世界に没入することで、人はそれまで見ていたのとはまったく違う視点に立って物事を眺めることができる。

人の立場に立って物事を見るというのは言うほど簡単なことじゃないけれど、SRを使えば本当にそれを体験できる。

その点では、ぼくにとっての旅はSRそのものだ。

自分とはぜんぜん違う価値観にしたがって生きている現地の人。自分とはぜんぜん違う文脈でその場所を訪れた旅人たち。そういう人との出会いが、自分がそれまで後生大事に守ってきたものの脆さや儚さを教えてくれる。

物書きという仕事においても、そうありたいと思っている。それまで自分がもっていた価値観がガラガラと音を立てて崩れていく、そんな瞬間に一つでも多く出会いたいし、そういう文章を書いていきたいと思う。

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