歌えば音楽、読めば文学 ―スピッツ「若葉」を読む―
音楽を聴いて、"この曲いいな" と感じる時、私たちは一体何を捉えているのだろうか。
メロディー、ハーモニー、演奏者の表現、テンポ、曲調、歌詞、その時の自分の気持ちや体調…。
音楽はとても複合的で、直感的に "いいな" と感じたものを具体的に言い尽くすのは容易ではない。
なんとなく聴いて、なんとなく "いいな" と感じる。この曖昧さこそ芸術なんだろうなぁ、と思いを馳せる。
そう思うと、演奏する側も聴く側も、なんだかとても高度な作業をしている気がしてくる。曖昧さの中に伝えたいことや音楽への情熱を委ねて表現する演者。曖昧さの中に、自分の感性を投じる鑑賞者。
たしかに、筆者も部活やらサークルやらで10年以上歌を歌ってきたが、何を誰にどう伝えたいのか、曖昧さを自分の中でどう解釈して表現したいのかを考えることが多かった。
そうしていつも最初にすることは、詩を読むことだった。
何気なく聴いていると、詩も音に乗って流れていくので、あえてその流れを止めてみて、言葉として、ゆっくり声に出して読んでみる。
そうすることで音楽から文学へとゆるやかに繋がり、思考の幅が広がるのだ。
せっかくなので、以前一緒に演奏していた仲間たちと読み合って考察した、スピッツの「若葉」の歌詞をもう一度読んでみる。
過去の何気ない日常を振り返っている。「扉」を境に、こちら側と向こう側とで、過去と未来を表しているのではないだろうか。
何かしらの関係性(友情なのか、恋愛なのか、もはやその時点の全てのそれなのか)が続いていくことを、「深い霧で何も見えな」くても当時は信じて疑わなかったけれど、別れや廃れがあったのだろうか。そしてそのことを、今振り返っている未来の視点からは気がついてる点が切ない。
サビに入っても過去の記憶を辿っている。「花咲き誇る頃」「涼しい風 鳥の歌声」という言葉からは、なんとなく春を想起させる。
春は出逢いと別れの季節である。縁を紡ぐ糸は当時自分が思っていたよりも脆く、ただこの時はまだ気づいていないのだろう。
2番も同様に過去の忙しない日常を振り返っているが、一人称と二人称とで、その日常に対する捉え方に差がある。もしかしたら「マジメな君」は、この時すでに日常や関係性が同じように続いていくわけではないということに気づいていたのかもしれない。
無邪気に過ごしていた当時の主人公は、思い出や今を大切にするあまり、未来のことを考えられなかったのだろうか。
また、もしこの2人が恋愛関係であったなら、関係性を絶やしたくないがゆえに、ひとりよがりな関係性の紡ぎ方をしてしまっていたのかもしれない。
2番のサビも回想だと推測できる。ただ、1番で隣に並んでいた「君」の描写がないことから、少しだけ時間が進んでいる気がする。
「一人よがり」とは、《自分だけでよいと思って他人の意見を受け付けないこと》である。自分だけで大丈夫だと強がって、突っ走っているのだろうか。
「知らないフリ」とあるので、新しい挑戦を楽しみつつも、本当は他人の意見に耳を貸さない己の意地も認識しているのだろう。
(2番のサビは悩んだので、是非あなたの解釈を教えてほしい…!)
ラストサビで、「花咲き誇る頃」から「若葉の繁る頃」に時間が進んでいる。前者が春だとするならば、後者は初夏だろう。
それまでにいた居場所ではない新しい環境で想定外の困難などがあったのだろうか。あるいは、ずっと続いていくものだと信じて疑わなかった関係性が、だんだんと薄まっていることに気がついたのだろうか。
どちらにせよ、そんな時は過去の思い出に頼りたくなるものだが、この曲の主人公は「ひとまず鍵をかけて」「君」の居ない場所で前に進もうとしている。
あくまで予想だが、この「鍵」とは、1番最初に出てきた「扉」の鍵ではないだろうか。扉の向こう側(現在)から鍵をかけて、前進していると仮定すると、物語がより鮮明に見えてくる。
歌詞の解釈に模範解答は無い。ただこうして言葉を丁寧に掬ってから改めて音楽として聴くと、自分なりの物語のイメージが拡がって、"この曲いいな"とより思える。
曖昧さゆえに、色んな角度からイメージを拡げることが出来て、人それぞれの感性で自由に考えられるのだ。
私たちが音楽を聴いて"いいな"と感じる時、実は、自分自身の感性を捉えているのかもしれない。
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