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セミの亡骸を捨てたらサイコパスの気持ちが分かった気がした

夏のある日。ひんやりと快適な温度が保たれた部屋の窓から灼熱のベランダに目をやると、セミの死体が仰向けに転がっていた。
虫が大の苦手な私は思わず硬直した。窓を隔てた先にある、かつて小さな生命体だったそれが私を襲ってくることはない。それでも私は、大きな恐ろしい魔物と対峙した子どもの気分だった。

毎日毎日ベランダのそれを確認した。
雨で流されないか、風に飛ばされないか、鳥や虫が捕食してくれないか。いつの間にか消えて無くなってくれたらいいのに、それはずっと、同じ場所に転がっていた。
見るたびに心がザワザワする。嫌だ。気持ち悪い。どっか行ってお願い。

2週間ほど経っただろうか。
意を決して、私はようやくそれを処分した。
長い棒(具体的にはクイックルワイパーの持ち手の部分)の先端に小さいちりとりを装着し、なるべく遠くから器用に掬ってベランダの外の駐車場に投げ落とした。やってみたら意外とあっけなかった。なーんだ。もっと早くやっちゃえば良かった。

もうあの物体を見なくてすむ。
もう絶対見たくない。

それなのに。数分後か数時間後か、私は駐車場に投げ落としたそれをわざわざ見に行っていた。
ベランダにいた時と同じように、仰向けの状態で、ただ場所だけが変わっていた。

ドラマや小説で「事件の犯人は事件現場に戻る」とよく言われている。それと同じ心理なのだろうか。犯人達は自分の行動に手落ちがなかったか、確認したかったのだろうか。私は、セミがちゃんと地面に落ちたか、確認したかったのだろうか。

そうではなかった。
駐車場に落ちたセミを見下ろす私は、もうセミに怯えていなかった。
ベランダにそれが落ちてきたことは、突然私に降りかかった不幸だった。何もできない私は、負けだった。
今は違う。私は自分の手で不快な存在を取り除いてやった。私は勝った。私は処す側の立場になった。セミの死体は、私を苦しめる存在から、私にゴミのように捨てられた存在になった。
それを確かめたかった。
夕暮れ時の駐車場で、私はそのゴミを、見下ろし、見下した。

「事件の犯人は事件現場に戻る」のも、不安な気持ちではないのだろう。自分が手を下し、自分の意のままになった世界を確認することで、犯人は支配欲を満たし、優越感に浸り、心を鎮静化していたのだと思う。
これがサイコパスというやつなのか。

8月の終わりにそんなことを考えた。
あれから駐車場には行っていない。
今も窓の外には、セミがジジジと鳴いている。

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