見出し画像

本を閉じたら、ホームレス

もしあなたがホームレスを見かけたら、おそらく顔をしかめ、足早に避けて通り過ぎるだろう。その姿も、視界に入ったという事実も、すぐに記憶から失せ、存在を気にすることなどないはずだ。

私は、しかし、街中でホームレスを見ると、ある1人のホームレスの存在を思い出す。その男は数ヶ月間、私の生活圏内に現れ、徐々にホームレスになっていった。今日はそんなホームレスの話をしようと思う。

駅まで自転車通勤をしていた私は、駅の裏にある駐輪場を利用していた。夜の駐輪場は、いつも薄暗く、どこか不気味な空気を漂わせていた。
駅から徒歩3分。3階建て駐輪場の2階、Cブロックが私の自転車の駐輪場所だった。

その夜も、残業を終えて駅に着いた22時頃、いつも通りに自転車を取りに向かうと、視線の奥に男が一人、壁に寄りかかって本を読んでいた。
私とその男以外に誰もいない、無機質な自転車だけが整列された冷たい敷地内。
心もとない蛍光灯が、ゆらゆらと男の姿を照らしている。

その異様な雰囲気に、思わず体が硬直した。
男は50歳前後だろうか。コーデュロイのジャケットにチェックのシャツ、チノパンという平凡な服装。中肉中背の背格好。足元には大きめの紙袋。
手には文庫本を持ち、うつむいて黙々と本を読んでいた。
一見、ただ時間をつぶしている普通のオジサンのようにも見える。
いや、そう見せようとしている「フリ」が、なぜか雰囲気で伝わってきた。

直観で、彼はホームレスだ、と確信した。

身なりがそれなりに整っていたことから、ホームレスになりたてなのだろうか。とはいえ、ホームレスに対して(申し訳ないが)誰もが感じる、理由のない不快感や怖さは拭えない。私は一刻も早くその場から離れようと、慌てて自転車を引きずり出し、逃げるように駐輪場を後にした。


次の日も、その男は、いた。
昨日と同じように、駐輪場の奥で、目立たないように、顔を上げずに本を読んで。

男は、「自分はホームレスではありません、ここでちょっと時間をつぶしているだけなんです」

そうアピールしているように見えた。


ある休日の昼間に、そのホームレスが駅ビルの待合いスペースのベンチに座っている姿を見たことがある。
日中の駐輪場には管理人がいるため、ずっと居座っていては追い出されるに違いない。

足元の紙袋には、大量の本が入っていた。ホームレスになる前は、読書家だったかもしれない。ここでも男は、本を手に持ちながらも、その視線は文字を追うことなく、うつらうつらと舟を漕いでいた。

しかし、家族連れや若者が行き交う休日の駅ビルにおいて、男の姿はあまりにも異質だった。
誰かが通報したのか、その姿はすぐに見えなくなった。


夜になると、相変わらず男は駐輪場の隅にいた。
目立たないように存在感を消そうとして佇むその姿は、しかし、徐々に変化していった。

当然だが、外見はどんどんホームレスのそれになっていった。ベタついた髪はボサボサになり、いつも変わらない洋服は薄汚れ、離れた場所にいても感じるレベルの悪臭を放つようになった。
以前は「私はホームレスじゃありませんよ、ただの時間つぶしですよ」というフリをしていたが、次第に「迷惑はかけないので、どうか追い出さないでください」と訴えているようだった。
いつしか男は、本を読むフリもせず、壁に寄りかかりながら立って寝ていることもあった。


それから何日か、何週間か経っただろうか。
駐輪場の奥には、段ボールで寝床を作り、その中でうずくまって寝ているホームレスの姿があった。

男は認めてしまったのだ。
自分がホームレスであることを。

それまでは何とか、踏みとどまっていた。
最低限の身なりを整え、本を読むフリをし、ホームレスではない自分を演じ続けてきた。
プライドなのか、希望なのか。そんな糸が、きっと、ふっと、切れてしまったのだ。

男がどうしてホームレスになったのか、ホームレスになる前は何をしていたのか、私は何も知らない。
ホームレスになった自分を認めたくなかった?それは私の勝手な想像だ。

私はそのホームレスに同情していたわけではないし、どちらかと言えばただ漠然とした嫌悪感があった。差別や偏見と思われるかもしれないが、20代(当時)の女性の感情としては、ごく普通のものではなかろうか。

それでも、徐々に変わりゆく男の姿を見て思ったのは、ホームレスは、ある日突然になるものではないということだ。
ホームレスに限らず、環境が変われば、人は否応なく変わらざるを得なくなる。しかし、心まで変わるには、時間が必要だ。

財産を失う、家を失う、その瞬間から、生活は変わる。
だからと言って、「ハイ、今日から私はホームレスです」とすぐに受け入れられないことは想像に容易い。
ホームレスになった自分。
ホームレスになりたくない自分。
その境界線は、じわじわと、まるで病原体のように男の心を侵食していき、
現実と希望の間でもがくことをやめたとき、男はホームレスになった。

男にとって最後の砦は「本」だった。
その本が、段ボールの中で枕の代わりになったとき、男は、もしかしたらやっと安心して眠れたかもしれない。


数日後、男の姿は駐輪場からいなくなった。
駐輪場の壁には、「不審者にご注意ください」の張り紙が掲示されていた。
おそらく誰かが、管理人に訴えたのだろう。

男が今どこで、ホームレス生活を過ごしているのか、生きているのか、死んでいるのか、知る由もない。

唯一、気になっていることがある。
彼は、何の本を読んでいたのだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?