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小説:月の女神とアメジスト  @4039



朝とも夜ともいえない
午前2時半にぼんやりと
涙とともに悲しく目がさめた。

あたたかい布団の中
寝返りをうって
あたたかいシーツの上
ゆっくりと足をすべらせる。

さっきまで
絡み合っていた
もうひとつの足に
もしかしたらふれることが
できるかもしれない・・・という
恐ろしく馬鹿げた
淡くて甘い期待とともに。


けれど
あたたかな布団の中にあるのは
私の体ひとつだけだった。


『 もうひと眠りしよう・・・ 』


祈るように強く目を閉じたのは
目ざめる前に見ていた
狂おしい
夢のせいだ。

目を閉じる。

そのずっと奥に
くじらのせなかを
思い浮かべて・・・。


今さっき
一緒に歩いた
その場所を想いながら
もう一度
眠りに落ちることが
できたなら・・・

そうして
たった今までいた
夢までの道順を
忘れないうちに
たぐりよせるように
強く目を閉じた。

道の先にある
夢の世界へ
もどりたい・・・・・
今すぐに。


けれどいくら念じてみても
眠りのとばりは
もうとうに
暗い夜空へと
消え去ってしまった。

目を閉じて見渡してみる。
でもどこにもなかった。
さっきまで私がいた
夢の中のあの場所。
そのあと向かった
ふたりだけの部屋。

いつの間にか
涙と寂しさで
いっぱいになった頃には
すっかり目が覚めてしまった。


あたたかい布団から
起き上がる。
小さな明かりが灯る
うす暗い部屋は見慣れた部屋。
ここは間違いなく
夫や娘と私が暮らしている
家だということを
あらためて思い知った。


起きよう・・・


足音をたてぬように階下へ。
自然に足が向くのは
私の居場所、台所だ。

茶碗や皿がふれあう音や
野菜の上をころがる束子の音。
火にかけた鍋のふちを
勢いよくもちあげる
白い湯気が立てる音や
鉄のフライパンの上で
派手にころがる野菜と油の音。
銀色の大きなボウルの中
布巾をジャブジャブ洗う音さえ
ぜんぶぜんぶ飲み込んで
しん と静まり返っている
私の台所・・・。

いつもどおり
流しのコックを人差し指であげて
盛大に水を流す。

氷のように冷たく感じる
朝一番の水は
なぜこんなにも
薄汚れたような
いやな匂いがするのか。

ジャバジャバと
景気よく水を流して
蛇口のすぐ下へ
両手を差し出し
掌で水を受けとめる。

冬の水は冷たい。
この冷たさが好きだ。

冷たく感じるこの痛みが
生きていることを
雨風を凌ぐ家があることを
娘たちがいる幸せを
体と心のずっと深いところで
感じさせてくれる。

痺れるほどの冷たさに
みるみる紅く染まっていく
私の両の手。


長い朝の手洗いが
数年前から
私にとって大切な儀式になった。

手垢まみれの
昨日の自分に
決着をつけて
今日という日の新しい私に
生まれ変わる。

いや
生まれ変わりたい・・・
そう願って。

気がすむまで
水に慰めてもらい
そっと蛇口をしめた。

皮膚の下には
大集合した血液が
ほんのりと透けて見える。
手をタオルで拭いながら

「私は本当によく頑張っている」

呪文のように
こころのなかで
何度も何度も繰り返す。


絹の羽織の袖を通して
つっかけを足に外へ出る。

震えながら
真っ白い満月を眺めていたら
またぐずぐずとあふれる涙。
まったくいつまで
メソメソするつもりなのか。
午前3時はまだ夜だった。
夜の感情に
連れて行かれそうになり
慌てて家の中にひっこんだ。


だいじょうぶ。
もう大丈夫。



私の場所へもどって
自分に言い聞かせる。
ふたたび勢いよく蛇口の水を
やかんに注ぎいれ火にかける。

いつもより少し多めに豆をいれ
いつもより少しゆっくりと
ミルをまわす。
丁寧に・・・ゆっくりと・・・。

ガリガリ…ガリガリ…ガリガリ
豆を挽くと思い出す。
あの日のあの人を。


はじめて一緒に食事をしたとき
食べ終わった食器を
慌しく片づけながら
あまり時間がないから・・・と
帰りかけたその胸ポケットに
ペーパーナプキンで軽く包んだ
珈琲豆を
なにも言わずに押し込んだ。

だけど
あとになって
珈琲よりも紅茶が好きらしい
ということを人から聞いて
なんとお節介なことを・・・
と勝手に珈琲好きを決めつけた
自分の浅はかさに
苦笑いしたあの日のことを。

それでも黙って
やさしく微笑んでくれた
あの人は
いったい今このとき
誰と眠っているのだろう。


少し歪んだ強すぎる私の愛を
いつも心配そうに
苦笑いしながら受けとめてくれた。
おきゃんな私を
静かに鎮めてくれるくせに
そのときは切なくなるほどの
身を焦がすほどの情熱だった。

愛されている。
私の体がこの人をつつみ
そして私は愛でつつまれる。
これ以上は近づけない距離で
ふたりの息が交差するとき。
お互いの感覚を信じて
お互いの感覚を開いて
お互いの望みをこっそりと・・・

求められることを
叶えてあげられるのは
私しかいない・・・
そう思うと
頭がクラクラするくらい
幸せだった。

永遠に続けばいい
本当にこころから
そう願っていた。


それなのに・・・あの日


キミを受け止めることに
疲れてしまったんだ・・・ 



あの日
突然そう言われたとき
目の前の完璧な風景は
子どもが滅茶苦茶に
引っ掻き回して壊した
ジグソーパズルみたいに
あっという間に
グシャグシャに崩れた。

みぞおちの辺りに
半田鏝を押し付けられ
臓物を焼かれているような
嫌な感触が消えない。
同時に襲ってくる吐き気と痛み。
なにも見えない・・・
真っ暗になった。


ふたりの世界を
ほかの何よりも
大切にしているつもりでいた。
けれどいつだって
歪んでしまう私の愛は
愛する人を困らせてしまうのだ。
そのことを
私は誰よりも
よくわかっていたはずだった。

だから
あれほど用心していたのに。

あまりにも優しく
あまりにも激しく
あまりにも大きな愛で包まれた
喜びと悦びで
こころが緩みすぎた私は
いつの間にか
またボロを出していた。

恋愛は
どちらかひとりが
もう終わりだ・・・
そう思った瞬間に終わりなのだ。

恋も愛も終わってしまえば
その形のまま凍りつく。
美しい思い出のままに
静かに白く光って氷になる。

いつのときも
どんな人との関係でも
その美しく凍った恋や愛を
汚したことはなかったし
壊したくはなかった。

今までふたりで育ててきた愛を
そのままの形で凍らせて
美しいまま
こころの奥深くに
しまっておきたかった。

きっといつか終わる・・・

いつでも不安だった。
覚悟はしていたはずなのに
こんなに苦しくなるなんて・・・

でも涙は流れなかった。

子どもの頃から
本当に苦しいとき
絶えられないほど悲しいとき
私はいつも涙がでない。
それは小さな頃
この体に染み付いた
泣くことで
ことは更に最悪な方向へ
進んでいくという恐怖を
いつまでも
拭いきれずに抱えていたから。

私が涙を流すのは
まだ少しだけ
こころに余裕がある時だった。
だからきっと
他人からは冷たい女だと
思われているだろう。

でも
泣けない・・・それが私だ。
それでいいと思っている。


男の人は
愛などなくても
抵抗なく
体を重ねることができるから
もしもここで
私が大粒の涙をポロポロと
こぼして見せたりしたら
きっと優しすぎるあなたは
また1日
別れを先に延ばすことになる。

私は口をぎゅっと結んで
足元の板の木目を見つめていた。
そして
体の中が焼けつくすのを
じっと
ただじっと待っていた。
きっと一歩も
歩けないと思ったから。

私の無言を気遣いながら
濃い縹色の空をにらみつけ
言葉を慎重に選んだあなたは
やっと
重たそうに
遠慮がちに
呟いた。


誕生日プレゼントに
渡そうと思って買ったんだ。
もしも嫌でなかったら
最後の記念に
受け取ってくれないかな?



私の掌に
うす紫の小さな石をのせた。


紫水晶・・・
アメジストっていうんだ。

どんな時でも
月の女神がきっと
キミを守ってくれるから
キミを幸せにしてあげることは
僕にはできなかったけれど
キミを支えてあげるだけの
大きな愛がぼくにはなかったけれど
本当にキミには
幸せになってほしい・・・
そう思っているんだ。


そう言いながら
あなたは
困り果てた笑顔をうかべた。


紫水晶・・・
アメジスト・・・
月の女神・・・?


なぜ?
そんなに私の幸せを
願ってくれるなら
なぜ私のもとから
去っていくのか?
どうして?
どうすれば
私はあなたを失わずにすむのか
教えてほしかった。
そう思ったら
もう駄目だった。

涙があふれた。
このままでは
優しさにつけこんで
我儘を言って
困らせてしまいそうだと思った。

私の中では美しい氷のまま
この愛をしまっておくけれど
あなたには私と同じように
この思い出を
背負わせるわけにはいかない。
優しすぎるあなたは
別れを選んだ自分を責める。
そして眉根に深い皺を
刻むことになる。
そんな皺の原因になるのは
真っ平ごめんだった。

涙を必死にこらえながら
私は言った。

あまり嬉しくはないけど
最後の贈り物だもんね。
ありがとう・・・
楽しかった・・・
じゃ・・・元気で・・・。


できるだけあっさりと
涙を見せないように別れた。



それから暫くして
外国へ行ったことを
風の便りに聞いた。


もう二度と
私の腕の中に
顔をうずめることも
一緒に月を見て散歩することも
適わないことを確信して
私は見合い結婚をした。



珈琲を飲みながら
そんなことを
つらつらと思い出していたら
階段を下りる足音が・・・
娘が目をこすりながら
起きてきた。



母さん、何してるの?
今日はゆっくりしてるんだね・・・。
あ!そういえば
お月様のアメジストは?
もうしまったの?
え?まだ?
じゃ、あたしが持ってくるよ!



そういって
寝室の出窓から
月をあびたアメジストを
持って来た。
だいじそうに
両手を垂直にあげて
私に手渡す瞳が光っている。

私はそれを首から下げた
マクラメ編みのネックレスに
上手におさめた。
アメジスト・・・
何よりも不安定な私の
気持ちを落ち着かせてくれる
私にとっての命薬(ぬちぐすい)だ。



アメジスト・・・
この石のおかげで
私は今の夫と知り合った。
そして
この石のおかげで
今の幸せを手に入れた。
この石のおかげで
私のこころはやっと
長いトンネルの中を
抜けだせた。

目玉焼きを焼きながら
首から下げた石に
少しだけふれてみる。
気持ちがストンと
落ち着くのがわかる。



いったいどこでどうしているのか
風の便りにも聞かないあなただけれど
できることなら
どうか笑顔でいてほしい。



なぜなら私は
あの日からずっと
月の女神に
守ってもらっているのだから。






光室あゆみさんの
#石と言葉のひかむろ賞vol .1愛の漣に参加しています。


素敵な作品がたくさん・・・よろしかったらどうぞ♪

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