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5月1日

4/29ルーベンス・バリチェロ、4/30ローランド・ラッツェンバーガー、5/1アイルトン・セナ。
94年のイモラには呪いがかかっていた。

30年にもなるのか。


名古屋から鈴鹿サーキットは小1時間で到着するから2輪のレースも4輪のレースも度々見に行っていた。
F-1が全国ネットで放送されるようになる前から地元のテレビ局では深夜帯にF3000なんかの放送をやってたりしたから、割とレースの中継にも馴染みがあったりしたものだ(F-1の放送が始まったばかりの頃は『フジテレビはカメラワークがヘタだ』なんて地元では言われたりしてた)

まあモータースポーツなんて言葉も聞かなかった頃の話で、レース観戦なんてのはオイル臭い、どっちかといえば「ヲタ」な分野の話だった。
そいつを一気にゴールデンの時間帯に枠を持ってくるくらいの人気スポーツにしたのは、やはりフジテレビの当時のパワーと日本メーカーであるホンダの活躍、ともない日本人F-1ドライバーの誕生が話題を呼んだのが大きいのだろう。

ぼくは1987年、10年ぶりに開催となったF-1日本グランプリを鈴鹿で観戦していた。
鈴鹿に住んでいた友達からチケットを「もらった」のだ。
もうこの翌年くらいからはありえないことなのだけど、1987年当時のF-1の人気なんかは先述の一部のマニア向けの世界の話で、一般的な認知度はとても低かった。
フジテレビなんかがバンバン宣伝したおかげで入場者数は相当なものだったらしいが、まあそこらへんはいくらでも融通が効く話であって、ぼくみたいな門外漢がガールフレンドと「タダ」で観ることも可能だったわけだ。

音の凄まじさに驚く。
空気を切り裂く音といえばいいのか、大きな音自体はライブなどでも体感としてあったが、周囲の空気を揺るがすようなものは聞いたことがなかった。


その頃からだろうか、1人のブラジル人ドライバーの人気が急上昇した。
アグレッシブなレース運び、端正なマスクとも相まって、彼の人気は世界中で上がっていった。
そんな彼はホンダのドライバーだったこともあり度々日本にも訪れ、時にはバラエティー番組に登場したりすることもあった。
知らない人はいないとまでは言わないが、かなりの認知度だったのではないだろうか。
日本でのモータースポーツの人気を支えた人の1人であるのは間違いなく、また実力も古舘伊知郎をして「音速の貴公子」と呼ばせたヒーローであった。
そして実際、彼は実力を遺憾なく発揮して3度のチャンピオンの座を獲得する。

1994年サンマリノGP。
呪われた3日間だった。
予選の4/29にはジョーダンのルーベンス・バリチェロがヴァリアンテ・バッサシケインで225km/hで縁石に乗り上げた。タイヤバリアと金網に衝突したマシンは跳ね上がり、ノーズから地面に垂直に落下。バリチェロは重症を負い、決勝には出られなくなった。
翌日4/30の予選ではシムテックのローランド・ラッツェンバーガーがヴィルヌーヴカーブを曲がりきれず、アウト側のコンクリートウォールにほぼ正面から衝突。前の周回で縁石に接触しフロントウイングを破損していたがピットに入らず周回を続けタイムアタックを継続していたが、300km/hを超えて完全にフロントウイングが破損しコントロールを失う。
コンクリートウォールに直接衝突したラッツェンバーガーは頭蓋底骨折を起こし、搬送先で死亡が確認される。

5/1の決勝。
スタート直後にマシン同士の接触があり観客が怪我をするなどのトラブルが起き、散らばった破片を除くためにセーフティカーが入る。
仕切り直しのスタートはセーフティカーの先導がなくなると同時にスタートするローリングスタートになった。
再スタートから2周後、シューマッハを抑えてトップを走行していたセナが、タンブレロコーナーでコースアウトした。

詳細は省く。
事故の原因かというのは諸説あるし、その気になればいくらでも知る手段はある。


最後に現場で応急処置にあたった救急医療班の代表であったシド・ワトキンスの言葉を借りる。

彼は穏やかな表情をしていた。まぶたを引き上げて瞳孔を確認すると、脳に大きな損傷があるのがわかった。私たちはコックピットから彼を引き上げ、地面に寝かせた。そうしているときに、彼はため息をついた。私は信心深い人間ではないが、その瞬間に彼の魂が旅立ったのだと感じた。

享年34歳。
冥福を祈る。

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