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#01ヒューマングループ創業者 佐藤耕一  ~8歳の時に阿蘇へ疎開―。待っていたのはガキ大将の洗礼~

ヒューマングループ創業者・佐藤耕一。

後に多くの社員を率いることになる男は、何を思い、何を為してきたのか。その半生を振り返る。


佐藤取締役ファウンダー:幼少期

「次に狙われるのは神戸だ」

そんなきな臭い情報が流れ始めたのは1944年初めだったと記憶している。

太平洋戦争開戦から4カ月が経過した42年4月、アメリカ軍爆撃機が東京の空を覆った。

そして、次は神戸だという。のちの神戸大空襲である。

36年に神戸で生まれ、育った僕は当時8歳。

母親に手を引かれ三宮駅へと向かった。両親の故郷・熊本に疎開するためだった。

駅は人でごった返していた。

汽車に乗り込もうとしたが、車内はすし詰め状態。開いていた窓から押しこめられた。

阿蘇一の宮町に初めて降り立った時のことは鮮明に覚えている。

乗合馬車に乗り、両親が生まれ育った陣の町へ向かった。馬車には大きな鈴がついていた。

「シャン、シャン、シャン」。軽快なリズムで鳴る鈴音が耳に心地よく響いた。

どこまでも続く緑と広大な自然に圧倒された。


▲阿蘇に疎開していた時の家族写真。中央が筆者


阿蘇市立宮地小学校への転校初日。

授業を終え帰宅しようとすると、ガキ大将に待ち伏せされていた。


都会から来たよそ者に一発食らわしておけ、というのが向こうの腹積もりだろうが、

僕も簡単に降参するわけにはいかない。

僕は5人兄妹の長男。簡単にやられてしまったら弟や妹までいじめられてしまう。

親分にタイマンを挑み、なんとか引き分けに持ち込んだ。

その後も父親の仕事の関係で何度も転校を繰り返したが、

その度にガキ大将とやり合わなければならないのがとても憂鬱だった。

何度も職員室に呼ばれ先生にこっぴどく叱られた。

それを除けば、大自然に囲まれた阿蘇での生活はとても楽しかった。

四季折々の野菜や山菜を採りに出かけ、田んぼではドジョウやフナを捕まえた。

過日の熊本地震でペシャンコになってしまった阿蘇神社の総門には、

当時よく上って雀の巣を探したり、日が暮れるまで外で遊びまわったりしていた。

戦争が佳境を迎えると、ここにもアメリカ軍の影が忍び寄ってきた。

ある日、田んぼで遊んでいると空から銃弾が飛んできた。

急いで溝に隠れ、固唾を飲んで見守っていると、戦闘機はよろけながら田んぼに墜落。

コックピットの扉が開き、逃走を試みた米兵は日本軍に捕まり連行されていった。

アメリカ人を初めてみた瞬間だった。

45年8月15日、正午。

終戦を伝える玉音放送をラジオで聞いた。

母親は台所で黙々と包丁を研いでいた。子供達と一緒に自決するつもりだったのか。

真意は、今となってはわからない。


「これは大変なことになったぞ」―。

張りつめた空気を感じながら、日本の行く末を案じた。

                          ー続ー


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