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郷土史は真理のはじまり


※ヘッダーはobkさまよりお借りしました。ありがとうございます。
私には、郷土史があるから・・・からの強烈な自己愛とか劣等感のお話。(長い)

4月からお稽古ごとを始めました。
正確には、公民館へ月イチの郷土史セミナーを聴きに行っているだけなのだけど。

30代を育児に全集中していた人間にとって、「自分だけの時間」を持てるというのは僥倖の極みであります。
つまり、そういう余裕が持てる年齢に子どもたちが育ってきたということ。(育児とは、かくも幸福の閾値を下げるものです。裏を返せば)

郷土史セミナーの話に戻すと、講師は地元では有名な方で(歴史をあれこれ妄想・・・もとい夢見がちな自分と違って)考古学的アプローチかつ地元愛満載で愉快に語って下さるので、毎回宝物のよう。ってか推しです。
郷土史というのは理由はどうあれ、定年退職した年寄りの趣味と思われがちで、その通り参加者の平均年齢は高いです。つまり参加者自体が郷土史そのもののような方々(失礼?)と同席できる喜び・・・ちょっとした世間話でも単語のアクセントとか、言葉の端々がもう地域の遺産なんですね。歴史の立会人の気分。シャイなのでカラミはないけど、貴重なひとときです。

ところで「うそつきはドロボーのはじまり」という様に、郷土史というのはナショナリズムのはじまりです(!)
「地球>国家>地方>県>市>町>村>字・・・」
歴史認識(正誤は問わず)により、他地域との境界を細分化することによって自己のアイデンティティを先鋭化していく驕った知的営みであります。
例えば、私は滋賀県・湖北地方の在住ですが、滋賀県とは明治時代に付けられた名称で元は大津辺りの郡名。本来の滋賀郡は遠く縁もない地域なのに滋賀県民を名乗っているんですね。市町村合併後の市名も然り。
じゃあ私の故郷って?私って何?え?ここには、こんな豪族がいたり、こんな遺跡があった?その人達どこから来た?ミステリー!

・・・つまり、お国自慢。手前味噌。自画自賛。
きっと私のご先祖もこの一部だったはずとか、自分を大きな大河の一滴に加えて賞賛する究極のナルシシズム。死の恐怖を和らげる効能も。

でも、行き着く先は排他じゃなくて博愛だと思うんですね。自分が郷土のことを愛するように、他者の郷土も尊い歴史がある。そういう生命のリンケージの中に自分が存在している、って分かるので。
まあ博愛もいいけど、神としていずれ真理に到達する自分にとっては、こういう探求は良いウォーミングアップなわけです(アブナイ奴!)

重ねて書くと(恨みがましいが)育児とはかくも行動範囲を狭めるもので、この10年はほぼ近所の範囲でしか動けませんでしたが、図書館で子の絵本借りつつ、郷土史を読み漁ったり、散歩と称してフィールドワークしたり、そんな日々が今の私にとって自己愛とか自信になり、精神の安定と真理への解像度を上げる一助になっているのかもしれません。

老いた人間がかつて捨てた故郷や亡き母を手のひら返して恋しく思うように。だいたいの人が定年退職後に再発見するであろう郷土史を、若い今やってるという優越感もなかなかに清々しく驕っていることでしょう。
まあもう若いとも言い難い年齢になってきましたがね。今月誕生日でして。大河の一滴として年齢などさほど意味はないけど。わざわざ母の名を借りてnoteでアレな記事を書き続けているような母なる愛に飢えた色々フクザツな私にとって一種のセラピーなのかもしれませんね。郷土に執着することが。そんなしがない小市民です。(神から手のひら返し〜)


余談ですが・・・書いていて浮かんでたのは、
フィッシュマンズ『宇宙 日本 世田谷』

青春時代すりきれるほど聴いたアルバム。
雑誌『snoozer』田中宗一郎いわく「どこまでもパーソナルな動機から出発してた作品でありながら、どこまでもユニヴァーサルな拡がりを見せる作品」

この頃のフィッシュマンズは聴いている当時から謎に胎内記憶の様なノスタルジーを感じていたけど。宇宙>日本>世田谷構造が私の精神性そのものだったようです。

「郷土すら愛せぬ人間が、どうして宇宙の真理には到達できようか」アトリエトモコ


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