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自分の作品、面白く感じすぎる問題

私は川崎中と申します。かわさきあたりと読みます。
10年ほど前にライトノベルの新人賞を受賞したことがあります。

ただその後は一切結果が出ず、商業出版とは無縁の人生を送っています。
noteでは、あの時なぜ受賞できたかの検証と、その時のやり方を言語化すれば改めて受賞できるのかの挑戦を行っていきます。

現在はGA文庫大賞に挑戦を行っており、この度見事に原稿の投稿完了いたしました!


自分の作品はなぜこれほど面白いのか

脱稿後の私にはいつも重大な問題があります。
それは、自分の作品の面白さが他人に伝わらないことです(え

それはもちろん選考に通らないという結果にも現れますし、もっと手前で知人に読んでもらって面白くないと言われることもあります。

書き上げた渾身の一作が誰かにとっては出版レベルに到底及ばないただの文字の羅列に過ぎないというのはなかなか悲しい気持ちになります。
なぜこんなことが起こるのでしょうか。

①前提経験・知識が違う

作者と作品は別物とはいえ、作品は作者から生み出されたものです。作者はその作品の世界観について作品の背景まで知っていますし、キャラに対してだって書かれている文章以上に知っています。

しかし、読者は書かれた文章から類推するしかありません。書かれた文章からただ読み取るわけではなく、ご自身の経験を踏まえて再構築するのです。だから、読み手によって当然内容にブレが生じるし、描写の足りない小説に関しては当然まったく伝わらない、あるいは間違って伝わることが多々発生します。

私の場合、気持ちよく書けば書くほど「ここは書かなくても伝わるだろ」という甘えが生まれます。自分が面白いところは最短で走りたくなるので、前提条件や知識を省きたくなります。その結果誰にも伝わらない漢字とひらがな製のゴミが出来上がります。

②アドレナリン誤認

書き上がった直後はソワソワしますよね? しませんか? 私はします。この作品は今後の自分の人生を変えるんじゃないかみたいな妄想を、多かれ少なかれしちゃいませんか?

で、このソワソワを自分の作品の面白さによるドキドキと誤認しちゃってる気がします。吊り橋効果的な?

当然、作品を世に問うた後に起こる現実に対するワクワクと、自作品でワクワクすることはまったく別です。

自分が冷静になっているかどうかは、よくよく考える必要がありますね。

③ダメな子ほど可愛い

自分の子供とかペットって、ダメなところも魅力に反転しますよね。そもそも人って長く接しているだけで「単純接触効果」とか言ってその対象を好きになる傾向がありますし。好感度の高いものに対しては、欠点も美点に見えてしまいます。

長い時間を使って努力の末に生み出した作品は、作者なら当然好きなのです(少なくともその確率が高い)。

欠点と美点の区別がつかなくなると、読み直しても意味ないですよねぇ。だって全部いいところなんですから。

走り書きのよう → 勢いがある
回りくどい文章 → 味がある
書き足りない場面 → 作品の奥行きになっている

みたいに、書きながら後で直そうと思っていたところが「意外と大丈夫じゃん」って思ってしまうことも多々あります。ありますよね? ないですか?

他人の駄作はなぜこれほどつまらないのか

ということで、上記の問題を回避する方法は簡単で、他人に読んでもらえばいいのです。

他人はその作品を読むための前提知識を共有していないし、書き終えた直後のアドレナリンも出ていないし、他人の子供なんて可愛くないですから欠点はただの欠点です(え

上記が難しい場合、次善の方法としてはやっぱり時間を置くことでしょうか。ただ、それで客観的な作品を生み出すのは結構むずい気もします。

まぁ今は投稿サイトで読んでもらうことも、読書感想サービスを利用することもできるので、読んでもらうハードルは昔よりは低い気はします。

私の場合は、今回は知人に読んでもらい、問題ない評価だったので早めに応募(2024/05/13)してしまいました。いやマジで、『これで完成! これ以上何もできない!』って状況にしておかないと、ずっとそのことで頭のリソース割かれますよね。


いずれにせよ、今回は納得のいく作品が書けました。
これで箸にも棒にもかからなかったら、根本的に何かが間違っている気がするので、それこそ読書感想サービスでも利用しようかなぁ。。

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