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馬鹿な僕らでいようぜ

曲を聴くのが好きだ。歌詞がないのも、歌詞があるのも好きだ。特に好きなのはHIPHOP、日本語ラップのジャンルで、これは「言葉遊び」の一つの極地だと思っているからだと思う。
彼らは見事にリズムに乗りながら、言葉と遊んでいる。言葉は自由自在ではなく、生き物なのに、そいつらと真摯に向き合ってときにつつき合い、ときに乗りこなし、ときに踊り合い、ときに捕まえる。なんと格好いいんだろう。そしてそこに至るまで本当に苦しい過程があるだろうと想像するのだが、それを何度も越えて言葉を放つラッパーたちには尊敬の念が尽きない。

DOTAMAというラッパーは『音楽ワルキューレ2』という曲で「音楽に女神はいるの?Yes!存在するけれど 救うためじゃない俺の処刑の執行に彼女は再来」と歌う。Creepy Nutsの『阿婆擦れ』でR指定はラップを阿婆擦れに例えて歌う。ラップのことを、「綺麗で卑猥で繊細で知的でどこかトチ狂ってる」と表現する。コイツらは都合の良い存在じゃない、俺をめちゃくちゃにする存在だ、というのが共通らしい。簡単にわかるとは言えないけど、わかる気がする。わたしは音楽はやっていないけれど、言葉は「かたち」ではなく生き物であってわたしたちが思っているより、軟体で、とげとげで、すべすべで、鋼体で、もちもちで、噛みついて、引っ掻いて、時に膝の上に乗り、それでもすり抜けて、あっちに行くようなそんなやつらと常に思っている。烏滸がましいけれど、その延長線上の思想な気がした。


「言葉が好きで、言葉に出来ないものが好き」
これのアンサーの一つとして大事にしている、そして曲に向き合うときに大事にしているのが、好きなラッパーの一人であるKZさんのインタビューで言われていたこの言葉だ。

「人間ってどんなに仲良くなっても100%わかりあうことはできない。その割り切れない部分を、文学や音楽が肩代わりしてくれたんやろなって思います」

【私たちの選択肢】梅田サイファー・KZさんが語る「私が引きこもりからラッパーになった理由」(リンク後述)

人間はわかり合えないし割り切れない、だけどそれを肩代わりしてくれる存在は時にはある、それに「肩代わりしてくれるから」と寄っかかりすぎるのは危険だと思うから決してしないけれど、そういう存在があるのは少し嬉しいよな、と思っている。

音楽は歌詞だけではない。リズム、メロディー、そのすべてをもって曲になる。「愛しいなと思うものの話」で描いた「言葉の先にある言葉にできないもの」も、歌詞以外の、リズムや一つの音として表現している人もいるのかもしれない。そう思うと曲を聴くのが楽しくてたまらない。

ラップの話から一転して、ラップはでない曲を挙げるが、好きな曲として、日食なつこさんの『音楽のすゝめ』がある。

「一つ知識や偏見をまず置いてくこと、」
から始まり、この曲で日食なつこさんは九つのすゝめを提示してくれる。どれも大事なことだし歌詞の中で「即ち音楽これ人の心」、とむすぶように、九つすべて音楽だけでなく人生に言えることだな、と聴く度に思っている。
その中でわたしが一番大事にしている歌詞が、

六つ、あんまり大事に仕舞い込まないこと
空に放り投げてみたっていいんだぜ

日食なつこ 音楽のすゝめ

だ。一時期のわたしは言葉をすごく恐れていたと思う。言葉には力があって、暴力性があって、リスクがあるとがくがく震えていた。その時期を抜けてこれを聴いたとき、すん、とこの歌詞が心のなかに落ちた。

言葉以外にも大事なものはある。
そしてこれを読んでいる人にもきっと、色々大事なものがある。でもそれは神様なんかじゃないし、畏まりすぎたり、恐れすぎたりしなくても良いのだ。色々な接し方をしてみていい。そういう選択肢があることはきっと大事だと思う。

そういえば『音楽のすゝめ』は「一つ知識や偏見をまず置いてくこと」から始まるが、わたしがよく聴く別の曲『ザ・グレート・アマチュアリズム』にも「ヘタな知識 持つだけ邪魔んなる 自分らしくありゃ即サマんなる」という歌詞がある。
この曲を作っている人たちは、わたしなんかよりも沢山の言葉や知識を持って今までを紡いでいる。その上で、知識を置け、と言っている。そこに行き着くまでにたくさんの言葉や知識を経ている人たちだ、その上で、それを置いてもいい、それが邪魔になるときがある、と言うのだ。
わたしの解釈だが、多分知識もルールも、後から付随するものだからだと思う。そこに囚われてはいけない。それに振り回されてはいけないし邪魔されてはいけないと背中を押してくれる気がする。

勿論、単純に知識を置いて楽しめるか、と言うときっと難しいと思う。月並みだけど、楽しいこともあるし楽しくないこともある。知識に囚われることもあるし、自分である限り偏見は常にあるだろう。
それでも、きっといつかその瞬間は来る。そういうのを抜きにして音楽を聞ける瞬間、好きなものを愛せる瞬間。そういう瞬間が人生に何度あるかわからないけれど、きっとそういう瞬間に巡り会えると信じている。

そういえば、ラーメンズのコントにこういうのがあった。「音遊(おんゆう)」というコントで、音大生と社会人のコントだ。音大生は自分の作った概念、「音遊」を語る。

「いいか、音楽ってのはな、本当は音楽じゃないんだ」「音楽はな、音と楽しむんじゃない。音と遊ぶんだ」「だから、俺がやっているのは音楽じゃなくて、『音遊(おんゆう)』」

「それは普通の音楽とどう違うの?」「音を楽しむっていうとさ、なんか自分と音楽の間に距離があるじゃん。でも音と遊ぶっていう分は平等っていうか。近い存在っていうか 
要は視点を変えれるかどうかなんだよ。カレーにご飯をかけたっていいんだよ。猫にポチって名付けたっていいんだよ、靴の上から靴下を履いたっていいんだよ」
「そう、自由!大切なのはフリーダム。だから俺は、敷布団をかけて寝る」

ラーメンズ 『雀』より「音遊」

この音大生は音と自分を平等にするため、「音と遊ぶ」ことを思いついた。視点を変えた。それはすごく革新的で、大事なことだ。革命だ。

知識は、すごく大事だと思う。人生を豊かにはしてくれると思う。知識を追い求め、そしてその上でそれらを置けること、それが個人的に理想だな、と思ったりする。沢山沢山追い求めたその先が息苦しいものでないならいいな、と思う。
だからたまに放り投げたり、視点を変えたりして、「それ」「それら」のあらゆる遊び方を探そう。言葉だけではなく、音楽だけでなく、世界中全ての物、概念、あらゆるものが対象だ。生きている以上、沢山のものをこれから得るだろう。その上で、それに縛られずに、自由に生きれたら嬉しい。
そうしたほうがきっと楽しい。楽しい方へ、わたしは行きたい。


これを読んだ貴方が、沢山の何かと、貴方の大好きなものと、色々な遊びができますように。


【私たちの選択肢】梅田サイファー・KZさんが語る「私が引きこもりからラッパーになった理由」
※引用部分は前編だが、後編もあるのでリンクを埋め込んでおく。


ラーメンズ『雀』より「音遊」


記事の中で言及した曲

ザ・グレート・アマチュアリズム(Live on MTV Unplegged:RHYMESTER,2021)

DOTAMA『音楽ワルキューレ2』(Official Music Video)

【MV】Creepy Nuts-阿婆擦れ


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