愛しいなと思うものの話

人がそれぞれ持っている辞書や文脈がある。

それはその人が今まで何に出会って、何を愛して、何を知って、何を思って、受け取ったかによって、また環境によって、その人だけの意味が含まれる単語になるしその人だけの文脈になる。

簡潔に言えば、その人が使う言葉というのは、その人がその人生を歩まなければ手に入れられない言葉と、その意味たちなのだ。

人間の中にはそんな単語が一つ一つ並んだ辞書がある。辞書の形はしてないかもしれない。スーパーマーケットみたいな形のものもあれば、仕立物屋だったり、水族館だったり、博物館だったり、いろいろな形があるんじゃないだろうか。なんともすごいことだと思う。

言葉は生き物だと思っている。自分の言葉の定義がある上で、そのときの感情、思いによって言葉の意味や含まれている意味の割合が変化し、そしてときに新しいものを得ることで人の中の言葉はアップデートされ、進化する。

わたしはその営みと生き物たちが愛おしくて仕方ない。


それはそうと、言葉には暴力性が伴う。

そもそも言葉とは世界の全てではなく、人間の後にできたものだからだ。人間が作ったものだからだ。つまり、万能ではない。

じぶんのなかにあるすべての感情を言葉で表現できるわけはなく、「言葉」にしてしまうことで大きく削がれる感情や、明らかに自分の中から変質してしまうものがある。この生き物たちは寄り添ってはくれず、わたしたちを傷つけるときが絶対にある。

言葉に振り回されてはいけない、とは思う。または言葉であることで、その言葉の形であることで。
やつらは「かたち」ではなく生き物であってわたしたちが思っているより、軟体で、とげとげで、すべすべで、鋼体で、もちもちで、噛みついて、引っ掻いて、時に膝の上に乗り、それでもすり抜けて、あっちに行くようなそんなやつらだから。

それでもわたしには言葉に振り回される時間を愛しいと思う瞬間は来るし、どうしようもなくマゾだな、と思う。

全てを言語化する必要はない、と思う。

言葉にすることで大事にすることと、言葉にしないことで大事にすること、それはどちらも必要で尊いことだ、と本当に深く思っているから。

言葉を愛している。でもそれは言語化の先に先にある、言語化できないものの輪郭を少しでも見たいという気持ちで言葉の探求を始めたのであり、本当は言語化できないそれのことを愛していて、そちらの感情が先だったからどちらも本当なのだけれど、言葉を好きと言うときわたしはユダだな、と笑うことがあった。でも、ここ数年は言葉を神格化するのは恐ろしいからいけないことだし、言葉は別にキリストではないから、ユダは適切じゃないな。と思うようになった。

言葉を探求することで、言葉にできないそれらは、近くなったとは言えないが、輪郭が見える一瞬ができるというか、増えることはできた気がする。それは錯覚かもしれないが、わたしにとって重要な錯覚だ。だから、良かったなあと思う。どちらも愛おしく思えて良かった。

沢山の錯覚を抱えて生きていこう。それはハーケンのように、杖のように、暗闇を照らす明かりのように、この世界を生き抜くために必要なものなのだ。

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