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昆倫茶

お茶が結構好きだ。最初は母の趣味に付き合っているだけだったのだが、いつしか楽しみ方を覚えた。お茶を飲む時間は感情表現が苦手だが感情的な母との「無言の共通言語の時間」となっていた。

ということで最近のお茶に関する話とか、それに関して思ったことを綴る。

最近、年末に友人から貰ったお茶を飲んだ。京都寂光院の紅茶舗治郎兵衛というところで買える紅茶で、名前を「春夢(SHUNMU)」と言った。
パッケージ裏の説明書きには、『平家物語の雅な貴族の世界をイメージした香り。ダージリンにジャスミン、バラ、キンモクセイ、矢車菊などお花がいっぱい。アイスティーにも。』と書いてあった。
ダージリン、ジャスミン、バラ、はわかる。飲んだことがある。だけれどもキンモクセイと矢車菊が入ったお茶は飲んだことがない。味の想像がつかなかった。

春夢を開封したときの写真。

開封すると色鮮やかなティーバッグが出てきた。青色の花びらが入っていてテンションが上がる。矢車菊だ。花びらが沢山詰まっていて、とても良かった。見たこと無い色がティーバッグに入ってると嬉しい。

それで、実際に『春夢』を飲んだ。
その日ほど語彙力と表現力が無いことを悔やんだことって久しぶりなんじゃないだろうか。
何か、後味が不思議な甘さを孕んでいるのだ。中に入っているらしいダージリンでもジャスミン茶でも緑茶でもバラでもカモミールを飲んだときにも感じない後味なので、多分これはキンモクセイか矢車菊の味なんだと思う。でも、それがどっちかわからない。
もしかしたら全部混ぜた上で成立する味なのかもしれなかった。そうしたらお手上げだ。
ちょっと悔しかった。キンモクセイのお茶を今まで飲まなかったので飲む機会があればわかったのに……と思った。単純に植物としてキンモクセイが好きなのに飲む機会がなかったの、悔しいなあ、と。
でもわたしはその日キンモクセイと矢車菊を飲んだわけで、もう怖いものはない気がしていた。口の中にジャスミンとバラとキンモクセイと矢車菊が生えてる庭があるようなものだ。すごく豪華だ。
お茶を飲んだあと、庭で日光を浴びた。お茶の後味を口内で感じながら、春の風を浴びていたら「すべて世は事もなし」という気分になった。口内にピッパが通ったのだ。良い錯覚だった。

お茶といえば、吉野朔実の『瞳子』だ。
主人公、瞳子が友人の母親とお茶を語るシーンをうっとりしながら読んだのを覚えている。

「夢野久作の「昆倫茶」という短編で、中国のお茶の究極というのが出て来るんですけど。」
「ええ ええ 知っていますよ。」
「飲まないんですよね、あれ。香るだけ。」
「大金持ちが大列組んで山を越えて大枚はたいて、あげくー」
「茶碗にお湯を入れて上に紙を載せてそれにお茶っ葉を置いても湯気で香りをかいでー」
「「ああ おいしい。」」

吉野朔実『瞳子』「俄か雨」

ずっとこれに憧れていたし、うっとりしているし、究極のお茶の形には違いないのだけれど、それはそれとして実際の夢野久作の『昆倫茶』という短編は、かなりヤバい。(以下、『瞳子』では「昆倫茶」表記だが青空文庫では「崑崙茶」なので「崑崙茶」表記とする。)
『崑崙茶』は不眠症患者の「僕」が同室の支那人が持っている究極のお茶、「トテモ口先や筆の先では形容の出来ない、天下無敵のモノスゴイ魅力でもってタッタ一度で飲んだ奴を中毒させてしまう、トッテモ恐ろしい、お茶の中のお茶といってもいい位な、お茶の中のナンバー・ワン」崑崙茶の話を看護婦に語る話だ。ちなみに「崑崙茶の味を占めた奴はモウ助からないそうです。」とも書かれている。前述した通り中毒性がとてもある。本当に大変なお薬だったらまだ良くて、本当に純粋なお茶だった場合すごいなあ、と思う。

実際に『崑崙茶』の話を使って『瞳子』が描きたいものの核はそのやり取りのあとにあるもので、「崑崙茶を求める大金持ちは役に立たないくせにプライドは高くて、今の私みたい。バカみたい。」と瞳子が気づき呟くシーンに続くのだが、初めて本物の『崑崙茶』を呼んだときあの優雅なシーンのイメージと違いすぎてショックを受けたなぁ、ということを思い出す。
それでも、最高のお茶の楽しみ方ってわたしのなかでやっぱり変わらない。あのとき瞳子と瞳子の友人の母が話していた、お茶の匂いを嗅いでああ、おいしいと笑う、それがわたしにとっていつまでも最高のお茶の楽しみ方の幻想なのだ。
この幻想は強い。

僕は飛んでもない呪詛(のろい)にかかっているのです。イイエ。虚構(うそ)じゃありません。

夢野久作『崑崙茶』

呪詛(のろいも)愉しめばいいだろう。信じる限りは虚構ではない。というかわたしたちは虚構とともに生きている。現実にピッパは通らないけれど、ピッパが通ったと感じることはできる。だから、生きれる。

最近、ざっくり説明をすると新生活をしなければ、新体制にならないといけない、みたいな感じになって、実家が改革の時期になった。それで色々やって、本当に動けなくなるかと思うほど体に支障が出たりもしたけれど、サンタさんが送ってくれたお茶があってそれで乗り切った。付属していた魔法の小瓶をいれてかき混ぜると、きらきらとした何かが舞って、綺麗だった。

星に願いを 薔薇の輝石

小林賢太郎プロデュース作品、戯曲『good day house』という作品がある。四階建てのビル、「good day house」に様々な人たちが住んでいて、そこに訪れた工務店員が一階毎に色々なトラブルに巻き込まれる物語だ。

一階、開店前のカフェの店員のパートで、こんな台詞がある。

「まずお客さんにとってカフェに来るってことは、コーヒーを飲むだけが目的ではない」
「時間を買いに来るんです」
「そこにあるインテリア、聴こえてくる音楽、織りなす会話。それらすべてが重なり合って、良い時間を買ったことになるんです」

KKP#001 『good day house』

カフェに来る人たちなりの理由は、カフェに来る人たちの数だけあるだろうけれど素直にこの話っていいよな、と思って娯楽を受け取るときやお店に立ち寄るときに大事にしている。
そして、お茶を飲む時間というのはわたしにとってこれに似ていて、「時間」を受け取る行為で、「時間」をつくる行為だ。
だから、お茶を買うとき、いただくとき、そこには、豊かな時間を込みで購入しているし、いただいているのだ。

美味しいお茶をありがとうございました。
よろしければ、今度貴方も一杯如何ですか。

引用 青空文庫 夢野久作 『狂人は笑う』
「青ネクタイ」と「崑崙茶」の二篇の短編で構成されている。「崑崙茶」は「青ネクタイ」の後。

『崑崙茶』にて、
「神凝、鬼沈み、星斗と相語り、地形と相抱擁して倦を知らず。一杯をつくして日天子を迎え、二杯を啣ふくんで月天子を顧みる。気宇凜然として山河を凌銷し、万象瑩然として清爽際涯を知らずと書物には書いてあります。」との一説がありますが、何の書物なのか、元ネタがあるのか調べても出てこないので、心当たりのある方がいたら教えてください。

吉野朔実『瞳子』 Amazonと小学館eコミックストアでのリンクがあったので。

春夢を取り扱っているお店。

星に願いを 「薔薇の輝石」を取り扱っているお店ですが、わたしはとある友人がサンタクロースに頼まれて送って貰ったものなので、かなり特別。

小林賢太郎プロデュース公演「good day house」



以下はちょっとしたおまけで、このお話の読み味を損ねるもので、家の話を書いている。物好きだけが好きにするといい、と有料にしてあるので、購入しなくても良いです。

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