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なぜソ連は崩壊して、中華人民共和国は存続したのか

前回改革·開放とペレストロイカの違いについてまとめました。
今回は中国共産党が解体されなかったのかというよりも、なぜソ連が崩壊したのかについてフォーカスを当てていきたいと思います。
逆に言うと中国には崩壊するに至る要素がなかったからという考え方です。
ソ連が崩壊した理由を私なりに一言でいうと、経済不振を発端にした民族自決意識の高揚だと考えています。

前回の記事は以下を参照

序章

前回まとめた通り、中国は改革·開放が軌道に乗り、経済発展していきました。
一方ソ連のペレストロイカによる経済改革はうまくいきませんでした。
そのことについてソ連内で政府に対する不満の声が高まります。

ソ連のゴルバチョフはペレストロイカに合わせてグラスノスチという情報公開を実施します。
グラスノスチは、ソビエト連邦当局がもっている情報を一般に公開するというものです。
グラスノスチの目的はレストロイカの障害となっていた保守官僚を批判するとともに、受動的な国民を活性化するというものでした。
つまり、ソ連改革のためのペレストロイカを推進するため、ソ連の悪い部分に光を当て、改革派の知識人や学者の意見を聞き入れることが大切だとゴルバチョフは考えたわけです。
また、1986年のチェルノブイリ原発事故の際、ソ連の体質が隠蔽体質であったため、その情報がゴルバチョフのもとにもすぐには届かず、国民に知らされることもなかったことから被害が拡大したため、情報公開の必要性を痛感しました。
そこでゴルバチョフはグラスノスチを本格化させ、情報統制の緩和を加速させます。
これを受けて、ソ連国民の間では歴史の見直しや、活発な政治討論などが行われるようになりました。
グラスノスチの進展にともない国民の間では民主化要求が拡大していきます。
情報が公開された結果、困窮する民衆の生活とはまるで別世界のような共産党幹部による共産貴族と呼ばれるほどの豪華絢欄な暮らしや汚職なども暴かれて、国民の反共産党感情を一気に高めることになります。 また、国家保安委員会の不正や KGB の違法活動など、様々な情報もオープンになりました。
そのため、ソ連に対する抗議運動が各地で活発になっていきます。

独立運動

グラスノスチで情報が公開されたことで、第二次世界大戦時の独ソ不可侵条約の内容が公になりました。
その内容は両国でポーランドを分割すること、バルト三国、エストニア、ラトビア、リトアニア、およびルーマニア領ベッサラビアはソ連が併合すること、という領土協定でした。
ポーランド分割はソ連ポーランド戦争でポーランドに割譲したウクライナなどのロシア人居住地を奪還するという大義名分がありましたが、バルト三国については独立した主権国家に対する領土的野心を満たす意図でした。
それは長年秘匿されていたものでしたが、グラスノスチで秘密が明かされたことでソ連邦のバルト三国が激怒し人の鎖と呼ばれる方法で抗議します。
バルト三国のおよそ 200万人が参加して手をつなぎ、3共和国を結び、約 600km 以上の人間の鎖を形成し、ソ連併合が不当であることを公債世論に訴えます。
そして、バルト三国がつぎつぎにソ連からの独立を宣言します。
しかし、ソ連は独立に強く反対します。それを受けバルト三国は互いに連帯し、1990年に独立回復宣言をするに至ります。
それに対しソ連はリトアニアの首都に軍隊を派遣。
暴力によって独立の機運を抑え込もうとします。この1件で多くの市民が犠牲になりますが、それをうけた公債世論が味方になり、ソ連は1991年9月にリトアニアの独立を認めました。
この独立を受け、中央アジア、東ヨーロッパ、コーカサスの国々にも波及していきます。
東側陣営であったポーランドでは、ソ連から独立した自由選挙が行われ、ポーランドはソ連と距離を置きます。
また、ソ連が支配した東ベルリンと西側が支配した西ベルリンを分けていたベルリンの壁が崩壊します。
そのような世界情勢の中、ウクライナでも独立に向けた運動の機運が一気に高揚していきます。その結果ウクライナ共産党は急激に支持を失っていきます。
崩壊の様相を呈してきた連邦を維持するため、ゴルバチョフ書記長は、連邦構成共和国の権限を大幅に拡大する新連邦条約の成立を目指します。
共和国の主権を大幅に認め,、共和国の平等、自発的加盟、民主主義、人道主義、法治主義などがうたわれてました。
これはつまり、構成国の力を強める代わりに、ソ連に残留してもらうというソ連側が譲歩する条約でした。

8月クーデター

1990年3月にウクライナで民主的な総選挙が実施され、共産党は大きく議席を失い、代わりに民主勢力が1/3の議席を獲得します。
8月24日に最高会議はウクライナの独立を宣言、国名から「ソビエト社会主義共和国」 を削除します。
このような連邦構成国の独立の流れを受け、7月にベラルーシも独立に向けた重要な一歩である国家主権を宣言しました。
なおロシアも同日に独立を宣言します。
新連邦条約の調印を翌日に控えた 1991年8月19日、これに反対する保守派勢力によるクーデターが発生します。
このクーデターの主な理由はゴルバチョフが市場経済の導入を宣言したため、クーデター首謀者である保守派のすべての特権を奪われるどころか、仕事そのものをも奪われかねないと考えたことです。
そして、共和国の主権を大幅に認めることへの反発でした。
このクーデターは失敗に終わりますが、ソ連邦政府の権威は失墜し、ソ連構成国が相次いで独立を宣言し、連邦の分裂が深まることになります。
このクーデターによって新連邦条約は白紙になってしまいます。
この時、ロシア最高会議議長であったエリツィンはモスクワ市民の先頭に立ってクーデターを押さえて失敗に終わらせ、 それを機にゴルバチョフに迫って同年8月24日にソ連共産党を解党させます。
エリツィンは改革派の最も急進的であり、87年には改革が緩慢すぎるとゴルバチョフを批判して解任されています。
つまりゴルバチョフの改革は生ぬるいので、もっと改革を推し進めるべきだという考えの持ち主でした。
1991年8月25日にベラルーシの独立が承認されます。
12月1日、ウクライナで独立宣言(8月24日)の是非を問う国民投票が行われ、得票率84.2%、賛成90.3%の圧倒的多数によって独立が支持されます。
12月の国民投票によっても、圧倒的に独立が支持されレオニード·クラフチュクがウクライナ初代大統領に選ばれました。
この投票では、ウクライナ全土の90%の賛成票を獲得し、ロシア系住民が多いクリミア·セバストポリを含むすべての地域で賛成が過半数に達しました。
この選挙で独立の意思を明確にしたウクライナに対し、ゴルバチョフとエリツィンは「ウクライナなくして新連邦は成り立たない」という意見で一致し、ベロヴェーシ合意において、ロシア、ウクライナ、ベラルーシがソ連邦を離脱して、新たに独立国家共同体合意し、ソ連の解体を決めました。

まとめ

ソ連は連邦国家であったため、構成国が独立を考え、実行したことが崩壊するに至ったといえます。そのきっかけは、経済の低迷からの不満や、グラスノスチによって情報が公開された結果、困窮する民衆の生活とはまるで別世界のような共産党幹部による共産貴族と呼ばれるほどの豪華絢欄な暮らしや汚職なども暴かれて、国民の反共産党感情を一気に高め、また、国家保安委員会の不正や KGB の違法活動など、様々な情報もオープンになり、国民の間では民主化要求が拡大していった結果だと私は考えます。
一方中国は、経済が発展していったことや、単一国家であったことなどで分裂が起きなかったこと、グラスノスチのような情報公開を実施しなかったことで、共産党に傷がつかなかったことがポイントだと思います。
中国では1989年5~6月に部小平政権の中国で民主化を求める学生·市民が北京の天安門広場に結集したのに対して、中国政府が戒厳令を布き、6月4日に軍を動員して排除し多数の犠牲者が出る大規模な抗議活動、いわゆる天安門事件がおきますが、軍を投入し、武力で鎮圧させます。
中国は情報統制を行っていましたが、ソ連のグラスノスチのような情報公開を行っていたら、この抗議活動が各地に広がっていた可能性は少なくないと私は考えています。
これを機に中国は共産党一党独裁体制のもとで政治の民主化は進まないまま、改革開放を続け、経済済政策を進めるという方向が明確となり、一党独裁をゆるがないものとします。
以上2回に渡りソ連と中国の改革について書いてみました。
8月クーデターなどは非常におもしろいので、近いうちにまとめようとおもってます

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