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チェチェンの歴史

現在ロシアとウクライナの問題が世界の注目を浴びています。
そのような状況で、今までロシアがどのような紛争をしてきたのかを学ぶことが大切だと私は考えています。
そのロンアの紛争でも特に有名なチェチェンとのかかわりを今回まとめてみたいと思います。

チェチェン概要

コーカサスにある小国
岩手県と同じくらいの広さ
ワインが有名、石油ガスがでて工業化の潜在性がある
チェチェン人とは北コーカサス語系の言語を話す人
イスラム教スンニ派を信仰している。

帝国以前

文字を持たなかったので詳しい歴史はわからず 16世紀以降のことしかわかっていません。
18世紀末にオスマントルコ帝国の衰退がはじまると、領土獲得のためにコーカサスにロシア帝国が進出していきます。チェチェン人のシャミルという人物を中心にコーカサス人たちが25年にわたり激しい闘争を繰り広げますが、抵抗もむなしく1859年にロシア帝国に併合されました。
また、1893年にチェチェン内で大規模な石油鉱床が発見されます。
これはソ連時代に約400万t産出することとなります。

帝国時代

ロシア皇帝はチェチェン人に対して土地の所有関するいくつかの自由を認めるという譲歩を行いました。宗教的、地域的規範に基づく伝統的な法廷が認められました。しかし、一方では戦争捕虜ロシア軍の許可なしに村を出る権利もありませんでした。
1917年ロシア革命に乗じて「北コーカサス首長国」の建国を目指し、ロシア帝国、そして共産党軍と戦いましたが、その最中に、 ロシア共産党から大幅な自治を認める代わりに、共産党軍の味方になるよう求め、チェチェン側はそれに応じました。
その結果ソ連の中に組み込まれます。

ソ連時代

約束が守られる形で1 922年にチェチェンは自治州になりました。しかし、 スターリンが実権を握ると民族共和国による連邦制を前提とするレーニン主義から民族自治共和国を中央政府の集権的コントロール下に置くスターリン主義になったので民族自治はほとんど見られませんでした。
また、チェチェン人のイスラム信仰は革命に反するということで多くの宗教者たちは犯罪者として逮捕、処刑されました。
それでもイスラム信仰は地下組織的に活動しながら生き乗っていきました。 これに手を焼いたソ連当局は村を解体して集団農場化をしたりしますが結束は固く、ソ連に対しての憎悪が増すこととなっていきました。
1942年に第二次大戦でドイツ軍が北西コーカサスに達します。 この時チェチェン人たちは、ドイツの占領をうけます。ドイツ撃退後の1944年2月、スターリンはチェチェン人とイングーシ人にドイツ協力した疑いをかけ、そのほとんどがドイツ軍とは無関係だったのにもかかわらず、全チェチェン人もイングーシ人50万人を中央アジアとシベリアへ強制追放させました。この時一説に
は全体の4分の3にも及ぶ命が犠牲になったといわれています。
スターリンがなくなるとフルシチョフがスターリン批判を1956年に展開し、チェチェン人とイングーシ人の名誉を回復させ、チェチェンへの機関とチェチェン·イングーシ自治共和国の再建を認められました。
その一方で西部地域は返還されず、石油産業の利益も地元に還元されなかったため、不満となりました。
またチェチェン人が追放されている間ロシア人が大量に入植していたため、土地をめぐる対立や紛争が起こるなど問題の火種が発生しソ連政府に対しての不満がたまっていました。
1990年初頭、国力の弱っていたソ連はペレエストロイカおよびグラスノスチを実行し、経済の立て直しを図ります。
しかしそれが裏目に出てしまいソ連の崩壊が始まります。 もともと異なる民族·文化を持つ人々や国の集まりであったソ連の国々は、民族自立を目指し独立運動が盛んになります。 チェチェンも例にもれず、弱体化したソ連からの独立にむけて動き始めます。

独立

ソ連の元軍人であったドゥダエフという人物を中心に独立運動が加速します。
1990年11月23日にチェチェンの全民族の代議士が出席する全チェチェン人協議会が開かれ、ソビエト連邦からの独立およびチェチェン人の主権宣言が全会一致採決されました。1991年6月ドゥダエフらの野党全チェチェン協議会はクーデターを起こし、共産党政権を打倒し、事実上ソ連からの独立状態となります。
しかし、石油を含む豊富な資源、交通、運輸、地政学上の要衝の地にあることからロシアは独立を認めませんでした。
この時権力を奪取されたのがザヴガエフという人です。
ザヴガエフは89年6月にチェチェン·イングーシ共和国共産党第一書記に就任します。
ザヴガエフは90年3月には共和国最高会議議長に就き、共和国と党、 双方の長になりましたがクーデターにより権力を失います。
1991年ロシアは政府高官によるハイレベル交渉を通じ解決を求めていきます。
チェチェンと会談を複数回重ねたロシアは、全チェチェン協議会が権力を私物化していると糾弾しました。
また非合法的武装組織についても同様に非難し、 10 月 10日までに武器を引き渡すよう命じました。
しかしチェチェンのドゥダエフはこの要求を無視します。 
そのため、 ロシアは11月にチェチェン·イングーシ共和国に非常事態を宣言します。
チェチェン·イングーシ共和国の治安維持のため、ロシア政府は内務省の軍事部隊を共和国
に派遣しました。
しかし、内務省部隊はグロズヌイ近郊のハンカラ空港港に着陸したところ、チェチェン大統領民族親衛隊に無力化されてしまいます。
民族親衛隊はグロズヌイでもロシアの部隊を拘束し、派遣されたロシア内務省部隊は各地で危機に陥りました。
その背景は、当時は依然としてソ連政府が機能しており、ゴルバチョフ·ソ連大統領が部隊をチェチェンへ派遣することを拒否したためでした。
上記の通りロシアからのチェチェンへの軍事侵攻は失敗に終わります。
トゥダエフがクーデターを起こし権力を握った 1991 年から 1994 年にかけて、非チェチェン人(主にロシア人、ウクライナ人、アルメニア人)に対する暴力と差別が横行します。
その結果、非チェチェン民族の何万人もの人々が共和国を去りました。
そのような独裁権力をふるうドゥダエフに対し、サヴガエフを支持していた反ドゥダエフ派たちが打倒ドゥダエフの活動を活発化させていきます。
1992年3月、反ドゥダエフ派の野党はクーデターを試みます。
しかし失敗に終わります。1か月後、ドゥダエフは直接の大統領規則を導入し、1993年6月に、不信任決議に関する国民投票を回避するためにチェチェン議会を解散させます。
1993 年 12月に別のクーデターの試みを行った後、野党はチェチェン共和国の暫定評議会を立ち上げ、ロシアに支援を求めました。ロシアはそれに対して秘密裏に財政的支援、軍事装備、傭兵を供給します。ロシア軍が加わった野党勢力は、1994年10月中旬に首都グロズヌイに対して攻撃を開始し、1994年11月26~27日に2回目の大規な攻撃を行いましたが失敗に終わります。 この時、約 20 人のロシア軍常連と約 50 人の他のロシア市民を捕らえ、捕虜にします。
それを受けロシアのエリツィン大統領は、捕虜奪還を決意し、チェチェンのすべての戦争中の派閥に最後通告を出し、武装解除と降伏を要求し、拒否場合はロシア軍を投入する旨をつたえました。
しかし、チェチェンが拒否したことで第一次チェチェン紛争が勃発します。

第一次チェチェン紛争

12月1日からロシアはチェチェンに対し空爆を開始し、 軍事行動を実施します。
しかし、ロシア軍はその圧倒的な軍事力にもかかわらず、ソ連崩壊後の混乱と軍事予算の削減によりソ連時代と比較して大幅に弱体化しており、 その脆弱ぶりを露呈することとなります。 更にグロズヌイへの空襲は多数の民間人の死傷者を出して国際社会から非難が集中し、イスラーム諸国から多数のムジャーヒディーンと呼ばれる兵が参集することになってしまいます。
チェチェンではアル=カーイダのメンバーとされるオマル·ハッダード司令官を中心に反挙し、ジハードの為に外国から参戦したムジャーヒディーンと共に抵抗します。
アフガニスタンで訓練を施されたアル=カーイダの戦闘員は戦場での攻撃だけでなくロシア国内でのテロ攻撃も行い数百人の死傷者をだす活動をします。
必死に抵抗するチェチェンでしたが、1996 年4月21日、ロシアのロケット攻撃で分離主義者のドゥダエフ大統領が殺害されため、ロシア軍と停戦交渉を開始し、双方の間で5年間の独立凍結をすることで合意。(ハサヴュルト合意)。
それを受け 1997年、ロシア軍は完全に撤退しました。
なおこの時のちに親ロシア派政権の暫定首相となるアフマド·カディロフは自ら政府側の武装組織を率いてロシア軍·連邦派勢力と激しい戦闘を繰り広げています。 さらに彼は大統領から正式なイスラム指導者であるマフティーに任命されています。

内戦終結後

内戦終結後のチェチェンでは依然として連邦派と独立派の対立が尾を引いていましたが、
これに加えて独立派の間でも対立が生じつつあった。
独立派の多くは愛国心から志願したチェチェン人兵士と、同じイスラム教徒を救おうと参陣したイスラム義勇兵(ムジャヒディン)から成り立っていました。
チェチェン人とイスラム義勇兵は同じイスラム教徒ではありましたが、イスラム義勇兵の多くはワッハーブ派を信仰しており、チェチェン人の多数が信仰するスーフィズムとは折り合いがよくありませんでした。
チェチェン人のイスラム文化を代表するカディロフはイスラム義勇兵と結びつく独立派内の強硬派に危機感を抱くようになっていきます。
同じく復興の為にロシアとの対立解消を目指すマスハドフ大統領もジハードの完遂を主張する強硬派に手を焼いてました。
カディロフとマスハドフは手を結んで強硬派の切り崩しを進め、リーダー格であったシャミルバサエフ司令官を国防大臣に迎えるなどの策を進めましたが、バサエフが主張を曲げずに政権を離脱すると、マスハドフは強硬派の分断を狙ってワッハーブ派を庇護する姿勢を見せ始めます。
これに激怒したカディロフはマスハドフを批判しましたが、逆にマフティーから解任され政権から追放されてしまいます。

第二次チェチェン紛争

停戦に合意したロシア側でしたが、合意を屈辱的だと考え、復讐の機会を狙っていたといわれています。
1999 年8月、独立最強硬派武装勢力のイスラム国際戦線を率いるシャミル·バサエフとアミールハッターブと1500名程のチェチェン人武装勢力が隣国ダゲスタン共和国へ侵攻し、一部の村を占領するという事件が発生します。彼らはカフカース圏における「大イスラム教国建設」を掲げダゲスタン共和国へ侵攻しました。
また同時期にモスクワではアパートが爆破されるテロ事件が発生し百数十名が死亡します。
これを受けてロシア政府はチェチェンへのロシア連邦軍派遣を決定し、ウラジミール·プーチン首相の強い指導の下、9月 23日にはロシア軍がテロリスト掃討のため再びチェチェンへの空爆を開始し、ハサヴユルト協定は完全に無効となります。
ヴラジーミル·プーチン首相は前紛争の英雄の一人であり、マスハドフとバサエフの両者と敵対するカディロフの後ろ盾という形で戦争を進める事を望み、カディロフも自派の司令官らとロシア軍に協力しました。
ここにロシアと親ロシア派であるカディロフ率いるきるチェチェン共和国と反ロシア派であるマスハドフ率いるチェチェン·イチケリア共和国との紛争が開始されました。
戦争の最初の数ヶ月間、ロシア軍は制空権の優位性をうまく利用し、チェチェン·イチケリア共和国の事実上の首都であるグロズヌイや他の主要都市への激しい紋後爆撃や弾道ミサイルによる攻撃を行いました。
2000年にチェチェン·イチケリア共和国が首都としていたグロズヌイがロシア軍により陥落させられると、それ以降は政府としての実体を維持できなくなり、武装勢力化し、ゲリラ戦やテロ行為を行い始めます。
ロシアのプーチン大統領は、2000 年5月にチェチェンの直接統治を確立し、翌月、プーチンはアフマド·カディロフ暫定首相を親モスクワ政府に任命します。
これはチェチェン国内の戦闘が収束したことを意味します。
この後、チェチェン·イチケリア共和国は以下のようなテロ活動を行い始めます。

2000年以降のできごと

2002年
モスクワ劇場占拠事件 - 169 人死亡
首都グロズヌイの政府庁舎爆破 -72人死亡
2003年
共和国北西部の行政庁舎爆破 - 60人以上死亡
モスクワ野外コンサート会場爆破 - 15人死亡
2003年3月23日、国民投票で新しいチェチェン憲法が可決されました。
この憲法はチェチェン共和国は、ロシア連邦内の民主的法治国家である。
共和国の領土は単一にして不可分であり、ロシア連邦領土の不可分の一部を構成する。
となっており、チェチェン共和国にかなりの自治権を与えるものでしたが、ロシアの支配が及ぶようなものとなりました。
この国民投票はロシア政府によって強く支持されましたが、チェチェンからの厳しい批判がたかまりました。
独立派がポイコットする中で大統領選挙を開催したカディロフは80.84%の得票を得て当選し、10月19日に正式な大統領に就任した。カディ ロフは反対派の弾圧を行うなど強権的な方法で統治を断行しており、この選挙についても公正とは言い難い点が存在していた。また彼はロシアの支援による復興へと立場を変えており、反対派からは「モスクワからの影響」を指摘されました。
2004年
モスクワ地下鉄爆破 - 41 人死亡
イングーシ共和国内務省などを襲撃 - 約 90人死亡
モスクワ発旅客機同時爆破 - 80人以上死亡
モスクワ地下鉄駅付近爆破 - 約 10人死亡
北オセチア共和国ベスラン学校占拠事件 - 322 人死亡
2004年2月13日、チェチェン.イチケリア共和国の大統領、ヤンダルビエフは、車に仕掛けられた爆弾により暗殺されました。
2月19日、カタール当局は、ロシア情報機関職員と思われる3人のロシア人を拘束し、その内、2人は殺人容疑で終身刑を言い渡されました。

2004年5月9日、チェチェン共和国のカディロフ大統領はグロズヌイの競技場で対独戦勝利を祝う戦勝記念式典に政府や軍の高官らと出席したところ、競技場に設置されていた爆弾によって特等観覧席が吹き飛ばされ、アフマド·カディロフは即死します。
同じ特等観覧席に座っていた二人の護衛兵士と共和国議会議長、ロイター通信の記者を初めとする 30人以上の要人も死亡します。
また致命傷は免れたものの、ロシア軍のヴァレリーバラノフ大佐など56名が重傷を負い、突然の事態に競技場は大混乱に陥りました。
2004年12月にチェチェン·イチケリア共和国2代目マスハドフの親類8人が対立する親ロシア派チェチェン軍により連行され、ロシア連邦保安庁特殊部隊のマスハドフを殺害されました。
2005年
カバルジノバルカル共和国首都ナリチク同時襲撃事件
2006年
イラクのイスラム武装勢力がロシアの外交官を披致しチェチェン共和国からのロシア部隊撤退を同国政府に要求。要求が拒否されたため外交官を殺害。
アンナ·ポリトコフスカヤ暗殺事件
2006 年6月17日、ロシア連邦保安庁とチェチェン共和国内務省の共同作戦により、チェチェン·イチケリア共和国三代目大統領アブドゥル=ハリームは殺害されます。
2007年
2007年モスクワ·サンクトペテルブルク間列車爆破事件
2007年2月、プーチンの支援を受けて、アフマド·カディロフの息子であるラムザン·カディロフがチェチェン共和国の大統領に就任します。

散発的なテロが続きますが、2009 年4月16日、ロシア連邦保安局の長であるアレクサン
ドルボルトニコフは、ロシアがチェチェンでの「テロ対策作戦」を終了したと発表し、領土
の安定が回復したと主張しました。





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