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ソ連の改革と中国の改革

90年代ソ連が崩壊しました。
同じく社会主義だった中国は現在まで一党独裁を貫いて存続しています。
それはなぜなのか。
それには大きく2つ理由があると考えています。
1つは経済改革の成果が表れたか否かということ。
もう1つはソ連が連邦国家で、中国が単一の国家であったこと。
中国は緩やかに改革していきましたが、ソ連は急激に改革することとなりました。
今回は1つ目の経済改革に対して両国がどのような動きをとり、どのような結果が生まれたのかについてまとめていきたいと思います。
さて、まずは改革に至る経緯についてそれぞれ記述したいと思います。

ソ連の改革までの経緯

ソ連の経済はアメリカの自由経済に対抗するにはあまりにも弱く非効率的だという考えに至ったソ連のゴルバチョフ書記長は、ソ連を発展させるために新思考を導入します。
これは西側との相互依存を重視し、他の社会主義国と対等の関係などを掲げた新しい外交方針の概念です。
アメリカとの軍拡競争はすでに弱っていたソ連経済をさらに疲弊させ、国内でも抗議の声の強さを増していました。
また、主たる輸出品である原油価格の下落、アフガニスタンの戦費の増加で財政が悪化していました。
さらに、アメリカのレーガン大統領がソ連に対してより一層強硬な姿勢をとるようになっていたため、ソ連の立て直しを図り改革の実施を決めます。
これがペレストロイカです

中国の改革までの経緯

中国の工業化への試みはソ連に比べて歴史が浅く開放戦争が終わった 50 年代に入って徐々に開始されました。
国は世界最大の人口を抱え、しかも、人口の大部分が農業に従事する農業国であり、工業化を図ることは容易ではありませんでした。
工業化に向けた政策は導入直後には新中国建設への情熱やソ連の援助等もあって一応順調でした。
50 年代末には大躍進政策が失敗し、更に 60 年代初めには中ソ対立によりソ連からの援助も停止されたことから、工業化が鈍化しました。
60 年代後半の文化大革命の混乱期とその後の収拾期を経て、70 年代が終わる頃には、中国は孤立王義的な経済開発の方向を棄てて、西側の資本·技術を導入することで経済開発を進める路線に転換しました。 これが改革·開放政策です。

改革·開放とペレストロイカの違い

中国のおこなった改革開放と、ソ連の行ったペレストロイカについて実際に行った事象を対比して書いていきたいと思います。
どちらも1980年代の時、西側諸国と比べて経済が低迷していました。
その状況を打開すべく先にも述べた経済改革を推し進めます。
中国の改革をソ連の改革と比較した場合、いくつかの違いがあります。
第一に、ソ連は政治体制の改革を先行させたが,中国は経済改革のみを実施した。
第二に、中国は、改革当初に農業改革に成功した。
第三に、中国は、東側諸国間という閉ざされた国家間貿易システムに加盟することなく、西側諸国との間で貿易を拡大した。
第四に、中国は、「経済特区」等を設けて香港等の華僑や西側諸国から直接投資を積極的に受け入れた。
という点です。
第一は後半でまとめることにします。

農業改革の違い

90年代の中国は、広大な国土を擁しているにもかかわらず、総耕地面積は9,600 万 ha と国土面積の約 10%にしか過ぎませんでした。
この限られた農耕地に人口の約8割が集中して農業を営んでいました。
中国経済において農業部門の発展が重視されなければならない理由はこの点にありました。
1970年代後半の改革で、農村部は人民公社により組織化されており、農民は生産ノルマを達成すれば一定の収入配分を得ることができるようにしました。
これにより農村部の交易条件が大きく改善されると共に、農民の生産意欲が刺激され、農業の生産性が向上しました。
また、国による生産物の購入価格の引き上げや、政府の農機具等の値下げ政策なども生産向上に貢献しました。
農村での副業を奨励したことから、農村部での産業構造は多様化しました。
中でも成長著しいのが「郷鎮企業」です。
郷鎮企業を語る前に、ソ連の状況を説明します。
一方、ソ連をみると、総耕地面積は6億300万haと国土面積の 27%に上り、中国の耕地面積の6倍余りと規模が大きかったのです。
しかし、これら耕地は気象条件の厳しい地域に広がっており、気象変化の影響を受けやすいというデメリットがありました。
このため、ソ連の穀物生産、 60 年代前半に不作を繰り返した。その後,70 年代初めまでは農業投資の拡大もあって生産は比較安定し、増産傾向さえみせた。
その後は,再び気象変化の影響を強く受けて豊区の大きな波を繰り返しながら不安定な状態が続き,穀物生産は停滞色を強めました。
ソ連の穀物播種面積は 70年代中頃まで増加した後、その後は潮斬次減少し、90年には 60年代初めの水準にまで縮小してしまいます。
農業の労働生産性も長期にわたって停滞状態が続いていました。
このため、ソ連の穀物生産は播種面積、天候および土地生産性に左右され、労働生産性は増産要因とはなりませんでした。
労働生産性が向上をみなかった原因としては、集団農業によるインセンテイブの欠如です。
その理由は、農民の自主性が重んじられ自由市場への販売も可能で、現金収入にすることができる自留地農業では、その耕地はソ連全体の耕地面積の 2%にしか過ぎませんでしたが、食肉やミルク生産では全体の約3分の 1、卵生産では全体の約3分の2を占める等、極めて生産性が高くなっていたからです。
自留地農業がこのように高い生産性をあげているという事実は、集団農業の不振の原因がどこにあるかを逆に浮き彫りにしているということです。

郷鎮企業とコーペラチフ

農業改革の際に郷(村)及び鎮(町)というレベルの地方公共団体が結成されました。
郷鎮企業は地方公共団体経営企業と、数人の個人が資本を持ち寄ってつくる協同組合企業、個人所有の私営企業,更には外国との合弁企業等がありました。
郷鎮企業は,農業改革による農業生産性の高まりによって、農村部に余剰労働力が大量に発生したことから,それを吸収する手段として奨励され、急速に拡大していきました。
企業形態としては、農業、工業、交通、建設業等多方面にわたり、商業経済の発展をうながしました。
郷鎮企業の発展により、これまで国営企業が柔軟に対応できなかった消費財やサービスの供給が多様化し、品質も向上しました。
それにソ連の近い存在が小規模の協同組合企業、 いわゆるコーペラチフです。
ソ連では、経済ペレストロイカの一貫として企業経営の改革がゴルバチョフ政権の下で行われました。
この流れの中で、小規模の協同組合企業に法的基礎が与えられてコーペラチフが急速に台頭することとなりました。
コーペラチフの数は、90年初で約 19万社で中国の郷鎮企業の1,869 万社に比べれば逢かに数が少なかったのです。
これは,郷鎮企業は 10年以上の歴史を持つが、コーペラチフは登場して間がないことにもよると考えられています。
特徴的なのは、郷鎮企業では商業や飲食業が多いのに対し、コーペラチフでは,建築業が多いことです。
ソ運では従来,計画経済体制でカバーし切れない生産活動をいわゆる第二経済によって補ってきました。
農業における自留地農業がその典型であるが、建設部門では住宅ゃ小規模の建設工事を請け負う集団(シャバーシニキ)の伝統がありました。小規模の協同組合企業の制度が導入されて、このシャバーシニキが合法化され,建築業のコーペラチフが多く生まれたと考えられています。
ペレストロイカの進展によって登場してきたコーペラチフも、一本調子の発展を遂げてきたわけではありませんでした。
コーペラチフが法的に認められても、それらが活動する上で市場が無いため、困難な活動を余儀無くされました。
原材料や資本財などの卸売市場がなく、これらの調達·販売が制約されました。
また、これら物資の取引権限の多くは保守官僚層が握っていたため、取引に当たって保守官僚層の妨害を受けたり,彼らに取り入るために癒着 コネといった悪弊が蔓延していました。
原材料·資本財の卸売市場製品の広範な販売市場、資金繰りのための商業銀行制度と金融市場、契約に基づく商取引,適切な企業会計制度や決済システムといった資本主義的な市場メカニズムや商慣習が形成されなかったため、経済発展に至らなかったと考えられています。

対外貿易

中国とソ連の貿易相手国の構成をみるとき、更に顕著な違いがあることが分かります。
中国の貿易に占める社会主義諸国との取引のシェアは、1割を切るところまで低下していました。
一方、ソ連の貿易に占める社会主義諸国との取引のシェアは、多少の変動はあるものの、おおむね6割前後で推移していました。
従って、側との取引シェアは中国に比べて相対的に小さくなっていました。
ソ連経済は対外依存度が低く、また,貿易構造が社会主義国に偏重しているということは、それだけソ連経済が世界市場の競争から隔絶されていることを意味しています。
この結果、ソ連はコストや競争という概念と疎遠になり、質や効率を軽視した経済体質を温存させることとなりました。
一方中国は、西側経済との競争が進んだと言えます。
このことは、中国経済が世界経済との相互連関を強め、好むと好まざるとにかかわらず、自由主義経済の影響を強く受けることとなりました。

経済特区

中国は経済特区をつくり、経済活動を活発にさせていきました。
経済特区では、外国から資本や技術を導入し、中国側が労働力、土地、建物を提供して設立される合弁企業を積極的に誘致するために、輸出入関税の免除、所得税の 3年間据え置きなどの優遇措置が講じられました。
全土を覆う社会主義計画経済のなかに、沿海部を中心にまず資本主義の拠点をつくり、それを徐々に拡大して線にし、やがて面にしていくという方式をとりました。
1979年に四つの経済特区(深州、珠海、 夏門、油東)を設置しました。
深州は香港に、珠海はマカオに、夏門は台湾に、油東は世界の華人につなげていく戦略をとりました。
大量の外国先進プラント導入による重工業発展をねらった政策の負債を負ってのスタートは、経済建設資金·人材 技術の不足が最初から深刻で、ブレーキがかかるとおもわれました。
しかし、このとき日本の政財界のリーダーたちが中国経済の近代化への全面支援という積極的な態度をとり、大規模な対中ODA(政府開発援助)供与の決定に踏み込みました。
経済インフラ支援、各技術支援などを中心に、以後 2008年の終了まで3兆円余りが投入され、中国の経済発展、近代化の重要な推進力となりました。
このような海外からの直接投資を積極的に受け入れたことにより、中国はモノや生産技術だけでなく、コストや競争という市場経済の概念を身近に理解できるようになったといえるのです。
それに対してソ連は1990年に入り経済特区を導入したためその点が中国に比べおとっていました。

まとめ


改革当初農業政策に成功し多くの郷鎮企業が誕生し育成され、西側諸国との間で貿易を拡大したこと、また、経済特区を設けたことで、市場経済の概念を理解することができたため、経済発展につながりました。
一方でソ連は改革導入が遅かったこともあり、農業改革が進まなかったこと、コーペラチフを生み出すも数が少なく、卸売市場が形成されてなかったことなどから、資材調達販売が制約されたこと、東側諸国間という閉ざされた貿易が主で、西側諸国との間で貿易を行っていなかったこと、経済特区を設ける時期が遅かったことなどから、市場経済の概念を理解することが難しかったことから、経済発展にいたりませんでした。
このような経済停滞からの不信によりソ連の崩壊へとつながっていきます。
次回はソ連が崩壊し、中国共産党が解体されなかったのかについてまとめたいと思います。



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