黒田

毎週日曜日にエッセイのようなものをあげる試みです。 noteに移行しました。 2023…

黒田

毎週日曜日にエッセイのようなものをあげる試みです。 noteに移行しました。 2023.4.2〜

最近の記事

無個性主義

・おまえは何者か、と聞かれる。ほんとうは、何者でもないはずなのに。 ・個性や特異というものは、尊重されるべきではなかった。それを尊重するということは、元来、ひとに自由を与えることだ。それは一般に、「なにかをするための自由」として解釈され、行使される。 しかし、今日の自由は「なにかをするための自由」ではなく、「なにかをしないための自由」となってしまった。労働、奉仕、義務、規則、忠誠、信仰、過去、他人、家族、恋人――。それらから逃げるためだけに、今日の自由は、個性は、行使されて

    • シャンディガフ

      ・文章のなかで、漢字を敢えてひらがなにすることを、「ひらく」という。以前この「ひらく」ことを知ったとき、ぼくはそれを意識的にしてきたようにおもえた。文章としての見た目の緩急だとか、かわいらしい印象だとか、もちろんそういうことも理由のひとつなのだけれど、文字・言語という非感覚の限りある媒介の母体に対する、ある種のコンプレックスがあったのではないかと思う。有限であるはずの言葉が、ふとした瞬間に、見晴かす宇宙の悠久を垣間みせることがある。だからこそ、はっきりとした輪郭ではなく、ただ

      • 遠い山なみの光

        ・生活とは、わびしさを堪えることだ。 ・リルケが言っていたが、現代人はドラマチックな死ができなくなってしまった。ある病院の一室で、ひとつの細胞のなかの、蜂が死ぬように死んでいく。堕落も殉教も、すべてひとの威厳であって、侵されざる権利であったはずなのに、文明はそれをゆるさなかった。それは沈黙がべつの分子と結びつけば、暴力や侵害につながるからだろうか。天文学的な例外も無いものとされて、自ら魂の空白状態へと落ち込んでゆくのだった。 ・ぼくたちは現実世界のさまざまな因果のさなかを

        • ことば かぜまち

          ・雨ということばがある。でも、雨について書かれた紙が濡れていないのは変だ。それは雨ということばが嘘だという確証にほかならない。雨も、空も、野も、川も、すべて嘘なのか。ぼくはうそばかりかいていました。だからこんなにも、ひらがながおちつくのか。 「太陽」ということば。「恋」ということば。「世界」ということば。 なんだかヤバいものが、ことばとしてわかられている。わかりきることなんてできるはずないのに、ぼくたちは粗い大きな網の目からそれを見ている。ほんとうは、わけのわからないものと

        無個性主義

          無為

          ・「恋は死よりも強し」というのは、モーパッサンの小説にもある言葉だ。が、死よりも強いものは言わずもがな恋ばかりではない。 たとえば、ある患者が菓子ひとつを口にしたために知れきった往生を遂げたりするのは、食欲がまた死よりも強い証拠だ。 食欲のほかにも数えあげれば、睡眠欲だとか、忠誠心とか、宗教的感激とか、人道とか、利欲とか、虚栄心とか、犯罪的本能とか、――まだまだ死よりも強いものは沢山あるのにちがいない。つまりあらゆる情熱というものは死よりも強いのだろう。もとより死に対しての情

          然り

          偶然とは、人間の無関心の象徴だ。「この場所」に行きずり、「この瞬間」に目配せするものだ。ヘーゲルの、いわゆる「無関心」がかりそめの関心に止揚される。それは無関心と無関心の交叉点の関心的先端性にほかならない。 偶然ということばは、人間がおのれの無知を糊塗しようとして、もっともらしく見せかけるために作った衣装にすぎない。人間の理解というものをこえた高い必然が、ふだんは厚いマントに身をかくしているのに、ほんの一瞬、ちらとその素肌をのぞかせてしまった現象なのだ。たとえば投げた賽の目

          嘔吐

          「純真」なんていう観念は、日本なんかにはあるはずがなかったのだと思う。ひょっとしたらそれは、欧米の生活あたりにそのお手本があったのかもしれない。 たとえば、来歴だけは得意気そうな芸術家気取りが、「子どもの純真は尊い」などと曖昧模糊たることを憂い顔で喋々して、それを嬉々として観覧していた婦人が、家に帰ってそのまま夫に訴える。夫は弱くあまいので、妻の機嫌を損なわないために、髭に埋もれたにきびを探りながら「うん、子どもの純真はだいじだ」とさわぐ。親バカというものに似ていて、滑稽だ。

          ゆるしの秘跡

          どうしたって、じぶんというものをかかなければいけない。芸術だとか、自己表現だとか、そういう高尚らしい言葉なんてわざわざ使わなくてよくて、ただ実直に、素描を重ねていかなければいけない。 人生は芸術ではないし、自然もまた、芸術ではない。さらに極言すれば、絵画も音楽も、芸術ではない。そう思わなければいけない。芸術を芸術として考えるときに、芸術が滑稽になっていくきざしが見えてくる。「芸術的」というあやふやな装飾の観念を捨てなければならない。脱しなければならない。「脱芸術」の考えがなけ

          ゆるしの秘跡

          茘枝

          こどもより、大人がだいじ、と思いたい。 大人になる、とはどういうことだろう、と、さいきん子どもながらに、よくかんがえる。早く何者かになりたくてしかたがなかったぼくにとっては、もしかしたらずっと前から喉にひっかかっていて、でもなんとなく気づこうとしないでいた問いなのかもしれない。 大人になる、とはどういうことだろう。かんがえたって、こたえがでるわけじゃない。だってまだ子どもだから。でも、いくつか見えてきた輪郭線はある。成人したら、とか、酒やタバコがたしなめるようになったら、と

          あなたと私 スクリーンとヘア

          「私」は、どこに行ってしまったのか。そんな問いが、現代になるにつれて広がっていったんだという観念は、きっと、おおぜいの人のなかにある。でもそれはきっと違って、「私」が、きちんと自分の中にあったこと、自分が「私」で満たされていた時代なんて、なかったのだと思う。昔は昔で、自分というのは「家」の一部であったし、それよりも前は、そんなことを考える余裕さえなかった。個性やアイデンティティというものなんて、そもそも存在しないのだ。生まれつきの形質とか特性とかがそう呼ばれて、「生きづらさ」

          あなたと私 スクリーンとヘア

          左側通行としての道徳

          昔はよかった、とよく言われますが、そんなこともないでしょう。おそらくそれはある意味で合っていて、またある意味で違っているのだと思います。 私が小学生のころ、アスレチック鬼ごっこというのが巷で流行りまして、まあその名の通り大きなアスレチックで鬼ごっこをするというものでした。(たしか地面に足をついてはいけないルールでしたが、こっそり地面も使っていました。)この遊びは今振り返ればけっこう危険で、よく誰も大怪我しなかったなと思っています。普通に5,6m程の箇所にも登っていたので、落

          左側通行としての道徳

          巌と花

          気持ち半分で読んでください。 こんな夢をよく見る。 いや、夢なのか妄想なのか自分でもよくわからないのだけれど、それだと文章を綴る上で勝手が悪いので、代名詞として「夢」とそれを呼ぶことにします。意識と眠りのあいだ、まどろみ、半睡のなか、その夢は映ります。 まぶたの裏の白黒のうねりの世界で、はじめは、木炭で描きなぐった、野獣のようなものが悠然といるのです。ふたつの大きな角を持ち、まことにどうも汚らしい、苔の生えた闘牛のような、へんな生き物です。すると今度はその生き物がいくつも出

          巌と花

          利き手じゃない方の手で書いた標準語

          思い出すのは、私が小学二年生のときです。 図工という科目で、厚紙でびっくり箱を作って、それを好きなようにデコレーションしようという課題が出されていました。その箱にはある仕掛けが施されていて、細長いビニール袋が中に入っていて、それにストローなどで箱の外から息を吹き込むことで中のビニール袋が膨らみ伸びて飛び出してくるというものでした。 クラスメイトは各々、その箱を好きなキャラクターや柄で、好きなように描き飾っていったのを覚えています。中のビニール袋にも装飾をしなければいけませんか

          利き手じゃない方の手で書いた標準語

          御殿の秋刀魚と敵前逃亡兵

          今まで、すこし喋りすぎたと思います。 僕の憧れる人物というのは、一日に一言か二言だけ、すこし悲しげな表情でぽつんと口を開く老人のはずなのに、いつまでたっても、全くそうはなれません。かといって、言葉のスケッチのひとつやふたつができるわけでもないのに。 そんな貴重な反省も尻目に、またこんな小学生の言い訳のような文章を喋々して、本当に恥ずかしい限りです。 今まで散々、やれ「沈黙が大事だ」、やれ「察しの文化だ」と知ったような口をきいて、「エッセイのようなもの」という反論の余地がない

          御殿の秋刀魚と敵前逃亡兵

          塗りつぶされた行間

          何もかもインターネットのせいにしたくはない。ぼくだってインターネットの大きな恩恵を受けているんだし、この文章だってインターネットのおかげで発信できている。でも近頃思ってしまうのが、受信者が発信者に対して求める「完成度」だとか「レベルの高さ」というのが、もうこれ以上上げるのが無理なくらいにインフレーションを起こしてしまってるんじゃないか。何度も言うけれど、ぼくはこれをインターネットだとか、なにかをサンドバックにしてそれに不満をぶつけようなんて思っていない。人間の特質上仕方のない

          塗りつぶされた行間

          『わたしを離さないで』

          ひとは5年で別人になる。 性格やら習慣やらが変わるとかいう話じゃない。いや変わるだろうけど、そうじゃなくて。物理的に個体「ごと」が変わるんだ。 福岡伸一という生物学者がいつも言ってる「動的平衡」というキーワードにもあるように、わたしたち人間の身体というのは、その細胞ひとつひとつが絶えず合成と分解を繰り返している。見た目は同じ人間に見えても、細胞の中身は捨てて作ってを繰り返しているんだ。皮膚なら1ヶ月、筋肉なら7ヶ月、脳なら1年、いちばん分解の遅い骨の細胞でさえ5年で完全に別

          『わたしを離さないで』