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ごめんね隣人、優しくできなくて

バンクーバーで借りている私の家は、とても変な構造をしている。1970年代に建てられた木造の一軒家を、三世帯に切り分けて大家さんが貸し出している。不思議なことにそれぞれの居住区が完全に独立しており、玄関ですらそれぞれに1つずつある。(共有しているのは洗濯室とゴミ捨て場くらいだ。)

以前に書いた犬を飼っている家族は二階に住んでいて、その家の玄関と二階に上がる階段が、一階に住む二つの居住エリアを仕切っている形となる。ネットに落ちていた家の間取りを見る限りそのどちらも1DKだ。その小さい方を私は借りている。

キッチンの壁を隔てて少し広めの部屋に住むお隣さんは、コロンビア出身の男女カップル。女性の方とはほとんど顔を合わせないため、話したことはない。家のトラブルがあった時などにテキストメッセージを送ってくるのも、よく在宅ワークをしながら洗濯室で鉢合わせるのも男性の方である。よく車で彼女の送り迎えをしてあげているようなので、いい彼氏?旦那さん?だな、くらいに思っていた。

数ヶ月前、二人が車から降りてくるのを見かけた時、長いコートに包まれた女性のお腹は不自然なほど大きく見えた。ゆっくりと歩く彼女の後ろ姿を見ながら、「ああ、赤ちゃんが産まれるのかもしれない」と気が重くなった。壁の薄いこの家である、壁の向こうで赤子でも生まれたら夜はもっと眠れなくなるだろう、と正直覚悟した。

ところが先ほど帰宅途中、当の女性が隣の車に乗り込むのが見えた。丸めたヨガマットを背中に背負った彼女の体型は、以前のように鍛え上げられたスリムなシルエットに戻っていた。男性の方とも挨拶をしてすれ違ったが、特にお互い何も言わなかった。ただ、シワのよった目元も、無精髭の生えた口元も、いつもより冴えない。1秒足らずのアイコンタクトだったのに、何か疲労というか、哀愁のようなものを彼の目の中に見た気がした。

親しく話す間柄でもないため、そんな個人的なことは聞かないが、もしかしたら、辛い時期を過ごしているのかもしれなかった。


家全体のブレーカーがどういうわけか私の部屋にあるので、よく隣人や上の階の家族から「電気が落ちたので今すぐ直してほしい」と日夜を問わずテキストがくる。隣の二人も年に数回ラテン系の友人を招いてとんでもない音量でダンスパーティーを夜通しで開催したりする。「小さな迷惑」を積み重ねくる隣人たちの願いをいつも快く聞いてあげる、という心持ちには正直なれなくて、心の中で舌打ちしながら対応することもここ最近は多かった。

知っていたら、もっと優しくしていたか?と自分自身に問う。おそらく答えは「否」。表面上の会話も対応も、別段何も変えなかったと思う。知っていても知らなくても、同じこと。
もし私の予想が本当だったら気の毒だが、それでも今の私は、心配事が一つ減って、心から安堵しているのも事実だ。


現在バンクーバーで、日本の大学生や新社会人が上京して住むような一人暮らし用の家を借りようとすると、家賃だけで21〜29万円くらいかかる。それが平均なのだ。だからホームステイをしたりルームメイトと一緒に住んで、9〜14万円ほどに家賃を抑える人が多い。それでも家賃相場は年々上がり続けている。食材費だってこの5年ほどでひどく値上がりした。周りは、本当に生活に余裕がないと感じている人ばかりだ。私もこの家を出て引っ越すことになれば、もう一人暮らしはできない。

映画「パラサイト 半地下の家族」のように、弱者が弱者を叩き合う日々を肌感覚で感じている。ごめん、でも、本当に安心した。お金や自分の生活環境に余裕がないだけで、人の幸せも不幸も、自分の内側まで入ってこない。これも大人になった証、といえばそれまで。

桜もとうに散ってしまった今、もう日差しは夏のように厳しい。植物たちもだんだん背が伸びてきて、草いきれというのか、独特の匂いで早くもあたりを満たし始めている。自分の領分だけを気にして、目の前の日常をこなしていくだけ、そう自分い言い聞かせながら、駅までの小道を今日も一歩ずつ歩いていく。


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