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「宮沢賢治の宇宙」(53) 宮沢賢治は科学者に向いていたのか?

科学者としての宮沢賢治

数年前、宮沢賢治の童話『銀河鉄道の夜』を読んで、いたく感心した。今から100年も前に書かれた童話だが、当時の最先端の天文学の知識を持って書かれているように感じたからだ。「いったい、どうやって勉強したのだろう?」正直、そう思った。

賢治の科学的センスの良さなのだろう。しかし、賢治の履歴を見ると、賢治は科学者ではない。賢治は盛岡高等農林学校(現在の岩手大学)の農芸化学科で学んだ。卒業後は教授から勧められたものの、盛岡高等農林学校に残って研究者の道を目指すことはしなかった。花巻農林学校で教師として働く道を選んだ。四年に及ぶ教師生活を終えたあとは、羅須地人協会を設立した。そこでは、農民に肥料の作り方を教え、自ら農民として働く道を歩むことにしたのだ。この肥料設計の技術は、のちに東北砕石工場で職を得ることに繋がった。では、この履歴を見て、“賢治=科学者”と認めることができるだろうか?それは難しい。ただ、賢治を科学者と認める立場で書かれた本も結構あることは事実だ。

例えば、『科学者としての宮沢賢治』(斎藤文一 著、平凡社新書、2010年)には次の文章がある。

賢治はまた、優れた科学者であったが、その根っこのところには、自然の神秘に対する畏敬の念があった。空に浮かぶ雲であれ、さざめきながら流れゆく水であれ、そのずっと奥深くに息づいているものがあるのではないだろうか。 ・・・ 賢治が描く世界が、われわれの誰もが内にいだく自然への懐かしさを誘うのは、そのためでもあろう。・・・ (10頁)

宗教と科学

実は、賢治と聞いて誰しも思う言葉は科学者ではなく、宗教家ではないだろうか? ところが、この区別は実は曖昧である。人類は文明を持ったとき、自分たちの位置を確認するために神話を作った。しかし、それだけで人類は満足しなかった。それは二つの流れを生んだ。宗教と科学である。実のところ、宗教と科学は結構仲がよい。

賢治は宗教を大切にした人だが、それと同じレベルで科学も大切にした人だと思う。ご存知のように、科学の世界では「統一モデル」という考え方が好まれる。

・宇宙の根源である素粒子を理解するには、素粒子の統一モデルが必要だ。
・宇宙にある四つの力である重力、電磁気力、強い力、弱い力を理解するには力の統一モデルが必要だ。
(註:強い力と弱い力は原子核に関連する力)

こういう考え方である。実際、科学者はこれらの問題の解明に躍起になっているのが現状だ。

統一モデルへの道

ここで、宗教と科学の仲の良さに話を戻そう。賢治は法華経の熱心な信者であったことがわかっている。しかし、法華経や、あらゆる宗教を包含する、一つの大きな宗教の構築を夢見ていた形跡がある。その証拠を見てみよう。

『春と修羅』第二集に〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕という詩がある(第三巻、本文篇、48-49頁)。この詩の下書稿の裏面に次のメモが残されている。


 科学に威嚇されたる信仰、
 本述作の目安、著書、  異構成 — 異単元
一、 異空間の実在、天と餓鬼、 分子—原子—電子—真空
    幻想及夢と実在、
二、 菩薩仏並に諸他八界依正の実在
 内省及実行による証明
三、 心的因果法則の実在
    唯有因縁
四、 新信行の確立、
  (『【新】校本 宮澤賢治全集』第三巻、校異篇、筑摩書房、1996年、113頁)

なかなか難しい言葉が並んでいるが、ここで着目していただきたいのは最後の項目、新信行の確立である。この“新信行”こそが大きな宗教、賢治の求めた大宗教なのである(『宮沢賢治 その理想世界への道程』(上田哲、明治書院、1985年、316-318頁;に出ています(『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」を読む』西田良子 編著、山根知子「ほんたうの神様」創元社、2003年、51頁)。

賢治はこの大宗教である“新信行”には、かなりご執心だった。1929年の4月、賢治が三十三歳のとき、雑誌「銅鑼:の同人で、中国人の黄瀛(こうえい)が賢治を訪問した。賢治は肺炎を病み、病院に入院していたが、病室で大宗教のことを語る賢治の様子には恐怖に近いものを覚えたとのことだ(「南京より」黄瀛、『宮澤賢治研究』草野心平編、十字屋書店版、1939年、253-256頁;『年表 作家読本 宮沢賢治』山内修 編、河出書房新社、1989年、159頁)。

賢治の目指したことは、宗教の統一モデルの構築である。『銀河鉄道の夜』には次の文章が出てくる。

「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑いながら云ひました。
「ぼくほんとうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんたうのたった一人の神さまです。」
「ほんたうの神さまはもちろんたった一人です。」
「あゝ、そんなんでなしにたったひとりのほんたうのほんたうの神さまです。」  
(『【新】校本 宮澤賢治全集』第十一巻、筑摩書房、1996年、165頁)

賢治はたった一人の神様のいる、争いのない平和な世界を待ち望んでいたのだ。

宇宙意志

『銀河鉄道の夜』は誰のために書かれたのか? ひょっとすると、新信行の確立を目指した賢治自身のために書かれたのかもしれない。しかし、その目的は賢治個人の幸せではない。世界全体の幸福である。

この賢治の思想は「宇宙意志」という言葉でも表現されている。山根知子の『わたしの宮沢賢治 兄と妹と「宇宙意志」』(ソレイユ出版、2020年)によれば、この言葉は1929(昭和4)年ごろに書かれた手紙の下書きに残されているそうです(29頁)。

「ただひとつどうしても棄てられない問題は、たとえば宇宙意志というようなものがあって、あらゆる生物をほんとうの幸福に齎らしたいと考えているものか、それとも世界が偶然盲目的なものかという、所謂信仰と科学のいずれによって行くべきかという場合私はどうしても前者だというのです。」

賢治が33歳の頃の言葉だ。宇宙意志という言葉には、やはり“新信行(大宗教)”への強い想いが込められているように感じる(『わたしの宮沢賢治 兄と妹と「宇宙意志」』山根知子、ソレイユ出版、2020年、29頁、203-207頁)。

「一個のサイエンティストと認めていただきたい」

しかし、それでも賢治は科学者に拘っていた。

私は詩人としては自信がありませんけれども、一個のサイエンティストと認めていただきたいと思います。

詩人の草野心平は賢治が自費出版した『春と修羅』に大きな感銘を受けた。そこで、草野は自分の主催する同人誌「銅羅」に賢治を誘ってみた。すると、賢治から返事がきたが、その返事の中にあったのがこの文章である(草野心平「宮沢賢治覚書」(講談社文芸文庫、1991、33頁)。1925年。賢治29歳。花巻農学校に勤務していた頃のことだ。この文章を読む限り、賢治は科学者に拘っていたことがわかる。
賢治は深いレベルで、宗教と科学の間を彷徨っていたのだろう。天才である。


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