見出し画像

ウタバしかいないのに(第6回):《クルアーン》ファジュル章17-20節をめぐって

あてにならない自分

そこで、もう一度、この17節から20節に戻っておこう。ウマイヤ・ブン・ハラフが、奴隷であり、孤児でもあり、改宗もしたクダーマに対して、冷遇し、食べ物も与えず、遺産も奪って、搾取しまくるといった所業に出るのは、あの歴史的文脈の中では、さして奇異なことではないし、17節から20節は事実の提示でしかない。だからこそ、そのあとで、有無をも言わせぬ地獄行きが待ち受けているということになる。
だが、他人の命を奪い、全財産を喜んで差し出したいというような強い信仰心(信仰心の現れ方、表し方はそれに限られたことでは、もちろんないのだけれど)は持ち合わせてはいなくても、地獄には落ちたくないと思う人々はいるはずだ。いや、すくなくとも筆者は、不信心者との戦争に出かけていくつもりは毛頭ない。そもそも、信心と不信心の境界が実はとても曖昧だからだ。
それに、愚かな私は、何か現世的な喜びに浴したとき「わが主はこんなに私によくしてくれる」と言いかねない。いや、基本は、好いことにも悪いことにも「アルハムドゥリッラー」ではあるのだが、しかし、主に特別扱いされて、ラッキーだなどと思わないとも限らない。特別扱いは、善悪ともにであるならば、当然、その冷遇に悲しくなることも起こりうる。「ラー・タフザン」なのはわかっているけれど、しかし、「なぜなんだ」と運命を恨んでしまうかもしれない。

 消極的ネグレクト

それならば、地獄に堕ちたいのかと言えばそれも違う。小さくて愚かなだけに自分がかわいい。では、どうするのか。ファジュル章の17節から20節をそのヒントとして読むことができそうだ。まずは、孤児の扱い。物惜しみすることなく、敬意をもって、大切にすること。自分の知己の範囲にいわゆる孤児はいないが、親に恵まれていない子供には、出会ってきた。信仰2世、毒親。
「ネグレクト」と言うと、「積極的」(いわゆる虐待のような)なものが想起されるかもしれないが、そこには、親の付属物やアクセサリーとしてだけ子供を扱い、たとえ子供部屋が与えられていても家の中に居場所を見出すことができないような、消極的な虐待もある。孤児ではないが、こうした孤児的状況を余儀なくされている子供たちへの支援も当然に含まれるであろう。
しかし、それ以上に嘆かわしいのが、特定の国家の一方的な正義の実現のために、戦争孤児がものすごい勢いで生み出し続けられているということだ。ウクライナしかり、ガザ地区しかりである。だから、孤児を大切にせよというのは分かるが、だからといって、孤児を、自分たちの正義の実現のために作り続けることは正義なのか?それこそ、子供が本来持っているはずの権利を奪う行為ではないのか。

どこへ行く

孤児の遺産相続が現状の、たとえば日本で、どのようになっているのかは、現場に近いところで活躍する弁護士の友人に聞くに如くはなく、今後の継続課題だ。
子供たちに対する食べ物の支給に関して言えば、現状の日本では、子供の貧困が様々な関係団体によって指摘されている。18歳未満の子供の7人に1人が貧困に陥っているが、いわば決まり文句である。しかし、それらは、2018年、つまりコロナ禍以前の数値に基づく集計で、日本財団の調査による数値が根拠となっている。2021年の年末に、内閣府の初の全国調査「令和3年 子供の生活状況調査の分析 報告書」が発表されたが、そこから見えてくるのは、シングルマザー世帯の過半数が貧困に直面し、貧困層ではコロナのダメージも大きく、進学をあきらめる子供たちも多く、文化資本の獲得や多様な経験をする機会は一部の富裕層の子息に偏るという悲痛な実態だという。より深刻な事態である。(「東洋経済education×ICT編集部」2022/02/15』

子ども食堂を利用する世帯が多いとされる現状にも鑑みたとき、これもまた、日本を一つとっても、孤児の問題に収まらない深刻な社会問題になっていることがわかる。

富裕層と貧困層の格差拡大には、差を広げては、その差の中に利益を追求していくという資本主義的な経済の根源的な問題が控えており、拡大の一途をたどる運命にあると言っても過言ではない。
世界的に見れば、気候変動や、戦争や内戦の影響で食べられない子供、食べられない人々と、いわゆる西側先進国で食べられている子供、人々とを比較してみれば、食べられている人々は満ち足りているに違いないのだが、実際にはそんなことはない。必要に迫られ、あるいは欲望に駆られて、「もっと」食べたいと思う。その欲がエンターテインメイトと組み合わされた商品の紹介で煽られるのだから、そこに罪悪感は乏しい。富裕層の一人一人が潜在的に当時のクライシュ族の族長状態だ。

ウタバを見よう

この世に天国を作ろうとする者がいれば、必然的にこの世に地獄も生まれてしまう。欲望、貪欲と言った煩悩の数々を一切合切叶えてくれるのが天国という天国の設定が、そもそも問題視されてしかるべきなのかもしれない。来世で復活してまで生き続けたいと思えない、この世の地獄なのだから。せめて、その地獄的状況を少しでも緩和することに何か手伝いができたのなら、いろいろ、甘いところだらけだけれど、「信じる者」と「信じない者」の間に、戦いや裏切りや怨恨以外の関係が芽生えるのではなかろうか。

預言者の言葉に感服し、預言者からもクライシュ族の中で正しい選択ができる人物であるとさえ評されたウタバ・ブン・ラビーアの行状は、黒か白かの二律背反になじまない。いや、そもそも、信者にせよ、不信心者にせよ、完全な黒も完全な白もいないのだ。そこにあるのは限りない濃淡の世界だ。文化の多様性というまだきめの粗い多様性理解から早々に卒業して、個のレベルでそれぞれの変化にもフォーカスしたひとり一人の多様性が認められる世界へ。そのためにはまず、子供たちから親も未来も奪うような卑劣を、大人たちが信念や信仰の名の下に行うことに、よくよく気を付けたいものだ。最終的に帰る場所は、信じていようが、信じていまいが創造主の御許であることは変わらない。となると、何でもありで振り回される人生をあえて楽しむということであろうか。アッラーフ・アアラム。

タイトル画像

メルズーガ(モロッコ)の日の出(筆者撮影)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?