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「教える」から教わる:クルアーン「凝血章」第5節をめぐって

「教える」とは?

{علّم الإنسان ما لم يعلم}

クルアーン「凝血章」第5節

聖典クルアーンのいちばん最初の啓示とされるはじめの5節の5節目である。イスラームの教えは、ここから始まる。さっそく、 上のアラビア語の言葉を右から意味を並べてみると、「عَلَّم 教えた」「 الإنسان 人間に」「 ما ことを」「لم なかった」「يعلم 知る」。つまり、「人間に、彼の知らなかったことを教えた」となる。

異なる言語だから翻訳によって意味を知ろうとするのではあるが、翻訳によって何が伝わるのか、わかるのか。ここでは、アラビア語、英語、日本語における「教える」「علّم(アッラマ)「teach」を、エクリチュールとしての側面を意識しながら比較して「教える」から教わろうと思う。

アラビア語の場合

教えるという言葉、アラビア語では、「知 イルム」という言葉から派生したものである。その動詞「アリマ」さらに動詞第2形という形に変化させ、目的語を二つ取るようにすると、「教える アッラマ」になる。

 アリマ علم 「~を知る」 上の聖句では、ラムという否定語を伴って、「知らなかった」となっている。

アッラマ علم  「~を~が知るようにする」 → 「~を~に教える」

 そして、それらのもとになっているのが、上述のイルム「知」。「知」そのものは、アッラーの属性の一つであり、「知っている者」も同様に属性である。つまり、アラビア語の「教える」は、その背景に、アッラーの絶対的な「知」が控えているのである。

 何を教えるのか、何を知るのかについても、アッラーの知という究極の目的が、意識するとしないに関わらず、そこにはある。したがって、人間が知らなかったことをアッラーが教えるとは、極めてロジカルな立て付けになっていると言える。 

英語の場合

英語のteach の語源は次のように解説される。

 「古英語 taecan「(指し)示す」「見せる」という語が、中英語期に teche(n)になりました。中英語期には「教える」という意味で使われることが多くなります。」

http://www5d.biglobe.ne.jp/chick/words100/401-450/431teach.html

ここには、「教える」と「知」の間の連繋は確認できない。

 アラビヤ語では、「教える」と「教育する」は同じ言葉が用いられる。Educate の語源については、ラテン語で「育てる educare」なのか「引き出すeducere 」なのかの論争がある。これについて、ラテン語の専門家は、「「educere (引き出す)」ではなく、人間、動物、植物にまで用いられた「educare(育てる)」に由来する」と結論付けている。https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/62512/1/070-1882-1669-126.pdf

 ここで注目しておきたいのは「知」とのかかわりである。教えるにせよ、教育にせよ、英語では、「知」とのつながりは言葉のレベルでは見出すことはできない。

「知」とは

 「知」つまり「知る」についても見ておこう。

Know の語源は、

一般には、ラテン語L.gnoscere(古形) / L.noscere「知る、認識する」である(より厳密には、古英語 cnawan)であるとされる。

Recognize を例にとれば、re(再び), co(ともに)を取り除いた「gnoize」が know に当たる部分。

https://gogen-wisdom.hatenablog.com/entry/2017/01/26/060000_1

 ignore, recognize, know, knowledge, recognition, acknowledge など、know が組み込まれている単語である。

しかしながら、「知る」と「教える」は単語のレベルでは相変わらずつながっていない。むしろ、「知る」と「できる」が語源を共有している、あるいはcan の語源が knowである点に興味をそそられる。

「できる」とは「方法を知っている」こと。

https://ja.wiktionary.org/wiki/can

方法が分からない限りCAN は、使えないということにもなる。

日本語の場合

日本語の「教える」についても、「知」や「知る」との語源的な繋がりは確認できない。つまり、「何を」について、言葉自体に見出すことはできないのである。しかしながら、「教える」という言葉の成り立ちをたどると、そこには、「教える」の「いかに」が見えてくる。

 『広辞苑』 によれば、「教える」の文語「をしふ」は形容詞「愛し(をし)」の動詞化。(https://sakura-paris.org/dict/%E5%BA%83%E8%BE%9E%E8%8B%91/content/2766_126

同じく、「愛し」は「かけがえのないものとして愛着を感じているさま。いとしい。かわいい」。(https://sakura-paris.org/dict/%E5%BA%83%E8%BE%9E%E8%8B%91/content/2763_1098)とされる。

また、『大言海』[1]では、「おしう(ヲシフ)」の項に「愛む(ヲシム)、二通ズト云フ」との記述がある。

 こうして語源を見ると、日本語の「教える」という言葉は、「愛おしさ」に裏打ちされていると言えそうだ。つまり、「教える」には、相手をあるいは対象を、さらにはその場をかけがえのないものとするような心持ち、すなわち愛、情愛、愛着といったものに包まれているもののはずだと考えうる。日本語では、「教える」と「愛おしい」がリンクしているのだ。

 ここで、エクリチュールとパロールの関係から「教える」を見ておこう。

「教える」は、文語体「おしふ」で「おしふ」は「愛し」が動詞に転じた形という情報を

「愛」という書かれた言葉によって、「教える」ことに「愛」が関係することが即座に理解しうる。

 教える → お・し・ふ → 愛し・ふ 

エクリチュールの独壇場といった印象だが、実は、両刃の剣でもある。なぜならば、「教える」は、漢字で書かれるからである。

「教」は、会意形声文字とされる。まず、「つくり」から。

意符で「鞭を持って打つ」ことだという。

 「へん」の部分は意符と音符を兼ねる。「ならう」の意味。音符としては「かう」。

これがオリジナル


旧漢字のこれは、上の変化形であり、

変化形


教育用漢字「」は、俗字である。意味は「鞭で打って習わせる、「おしえる」の意」とされる(『角川大字源』「教」の項)

 「教える」という能記(意味するもの)を読み、あるいは聞いた時に、しかしながら、この形声文字の成り立ちと意味、あるいは、意符と音符を意識できているのかと言えば、それは極めて怪しい。

「教える」を構成する音素から(おしう→ヲシフ→ヲシ→愛シ)という流れで、「愛し」を「教える」という言葉の背景で響いている「愛」という、シニフィエを感じられているのかどうか。今どきならば、「愛し」は「推し」と親和性が高いように思える。案外、部首「のぶん」の「鞭」が効いていて、それも含めて「おしう」なのかもしれない。

同様に、甲骨文字に起源を有する「教」の文字のパーツが無意識のどこかに埋め込まれていて、鞭であったり、習うであったりという事柄をそこはかとなく想起させる何かが働くのか。

 

能記と所記では、あるいは、エクリチュールとパロールの二項対立、あるいは、パロールはエクリチュールであると二つを括ってみても、漢字というエクリチュールは、たとえ一文字であったとしても、その中にコスモス[2]が存在する。そこには人間が切り取った形があり、それが意味を持つ文字として昇華する。

ひょっとするとパロールの媒介なしに空間性が獲得されているとさえ考えうる。文字がテクストを織りなすのではなく、テクストから文字が浮かび上がる、あるいはコスモスからテクストが再編成されるというような、壮大なエクリチュールの世界が想定される。

それゆえにこそ、東洋哲学の基本的基調は、そうしたテクストから生起する現実を「空」や「無」として、「存在のゼロポイント」、つまり無限定の「一」に引き戻すことにより解体し、その無を起点として新しい「有」を展開させるという、アンチコスモス性なのだという井筒の主張にも頷ける。 

「教える」と「おしえる」

漢字の「教える」には、強制力が、他方ひらがなの「おしえる」には、かけがえのないものとして愛する気持ちが響いている。

「教えた」とは、「強いた」のか、「愛した」のか。それとも「愛の鞭」なら両立しうるが、ハラスメントフォビアのご時世では、物理的な「愛の鞭」は教育界では通用しない。

いずれにしても日本語で、「人間に、彼の知らなかったことを教えた」というパロールを聞いたとき、あるいは、エクリチュールを直接読んだとき、想起されるものは、《アッラマルインサーナ・マーラムヤアラム》((アッラーは)人間に知らなかったことを教えた」というエクリチュールを読んだ時に想起されるものとは、まったく異なる。

クルアーンは、別の言語に置き替えられた途端に、聖典であることをやめるのも理解できる。その一方で、非アラブ圏の信者たちにおいては、礼拝のためにただ暗記するという形で、聖典のエクリチュールと向き合う者が少なくない。シニフィエの無いシニフィアン。そこでは、「知る」ことも「教える」こともない。もちろん、「人間が知らないことがある」ということも。

 繰り返しになるが、「アッラマ(教える)」は、「アリマ(知る)」という動詞を2重目的語化した言葉であり、「ヤアラム」は、「アリマ」という動詞の未完了短形で、3人称単数を主語としたときの形で、「ラム」という否定詞と組み合わされて過去の否定を示す。

そして、「アッラマ」と「アリマ」という動詞のもとに位置付けられる名詞が「イルム」であり、それは、知ること、知を意味するが、人間の知と同時にアッラーの絶対的な知や知の在り方をも指す言葉なのである。

アッラーは、アッラマ(教えた)・インサーナ(人間に)・マー(ことを)・ラム(否定詞)+ヤアラム(知らなかった)

 語根と、その変化形を知っていれば、アラビア語のエクリチュールは、漢字の表意性とは、また別の方法で、アラビア語初心者にさえ、空間性を確保する。英語であれば、言葉が書かれて意味を持つことによってはじめて生じる空間性ではあるが、アラビア語では、語根を共有する言葉の定型的な語形変化により、言葉自体の意味とは別に空間性・コスモスとしての秩序が生起することになっている。

 漢字交じりの文章では、読めなくても意味を理解できることがあるが、読めても意味を間違えることがある。意味は生起する。これに対してアラビア語の文章では、読み間違えがそのまま意味の取り間違いにつながる。

いずれにしても、漢字にせよ語根による語彙の形成にせよ、エクリチュールを構成する要素にも支えられ、エクリチュールのみならず、パロールからも、豊かな空間性が現起するのが、日本語とアラビア語という二つの言語の世界である。アッラーフ・アアラム。



[1] 『大言海』:「だいげんかい【大言海】

国語辞書。四巻と索引一巻。大槻文彦著。編者没後、関根正直、新村出らによって完成。昭和七~一〇年(一九三二‐三五)四巻刊。同一二年索引刊。縮刷新訂版一巻、同三一年刊。見出し語は約九八〇〇〇語。古語が中心で方言、近代語、外来語などを含む。同じ著者の『言海』を増補改訂したもの。多くの用例を駆使してその出典を明示していること、多くの語に語源的説明を付していることなどに特色がある。昭和五七年、見出し語を現代かな遣いに改めた「新編大言海」が刊行された。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報」

https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E8%A8%80%E6%B5%B7-91059#:~:text=%E5%8F%A4%E8%AA%9E%E3%81%8C%E4%B8%AD%E5%BF%83%E3%81%A7%E6%96%B9%E8%A8%80,%E3%81%AA%E3%81%A9%E3%81%AB%E7%89%B9%E8%89%B2%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82

[2] コスモス:ここでは井筒俊彦の定義を紹介しておく。「有意味的存在秩序(有意味的に秩序付けられた存在空間)」。「人間は錯綜する意味連関の網を織り出し(エクリチュール)、それを自分の存在テクストとして、その中に生存の場を見出す。無数の意味単位(いわゆるものこと)が、一つの調和ある、完結した全体の中に配置され構造的に組み込まれることによって成立する存在秩序」(井筒俊彦「コスモスとアンチコスモス」『井筒俊彦著作集9東洋哲学』264頁)。

タイトル画像:ピーテル・ブリューゲル - Levels adjusted from File:Pieter_Bruegel_the_Elder_-The_Tower_of_Babel(Vienna)_-_Google_Art_Project.jpg, originally from Google Art Project., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=22179117による

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