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石器なき新石器時代:モアイの警告

地球の未来を考える

「モアイは語る」。イースター島のモアイ像である。環境考古学者、安田喜憲(1946年~)が、中学国語教材として書き下ろした作品のタイトルである。安田はこう結んでいる。

 絶海の孤島のイースター島では、森林資源が枯渇し、島の住民が飢餓に直面したとき、どこからも食料を運んでくることができなった。地球も同じである。広大な宇宙という漆黒の海にぽっかりと浮かぶ青い生命の島、地球。その森を破壊しつくしたとき、その先に待っているのはイースター島と同じ飢餓地獄である。とするならば、私たちは、今あるこの有限の資源をできるだけ効率よく、長期にわたって利用する方策を考えなければならない。それが、人類の生き延びる道なのである。 

安田喜憲「モアイは語る――地球の未来」『国語2』(光村図書出版、令和5年2月発行、中学校国語科用検定教科書)129頁

「論理を捉えて」という単元に収められている。「根拠を吟味し説得力を高める」ことが目標になっている。たしかに、モアイ像に象徴されるイースター島の文明がどこから来て、そしてなぜ滅びていったのか。11世紀ごろ突然作り始められたモアイ像は、発見されているだけで1000体近くに及ぶというが、結局17世紀後半から18世紀前半にその文明は崩壊してしまったという。

安田は、その根本的原因を「森林の消滅にあったのだ」としている。地層に含まれる植物の花粉の化石の分析に基づく環境考古学の知見を根拠に説得力のある原因の指摘である。

石を刻み石に縋る

大きなものでは、高さ20メートル、重さ80トンにも達する、人間の顔を彫った巨大な石像。奈良の大仏が約15メートル。大きさがわかるというもの。文明崩壊にフォーカスしてその根本的原因を森林消滅に求めるという流れに論理のよどみははい。しかし、なぜそのような巨像を、種子島の半分にも満たない、南太平洋の火山島、露出した柔らかい凝灰岩に、硬い溶岩や黒曜石でできた石器。材料と道具には恵まれていた。しかしなぜ巨像なのか。モアイありきの議論ではなく、なぜモアイだったのかにむしろ興味がわいた。

安田によれば、彫り出されたモアイには目の玉が入れられ、アフと呼ばれる台座の上に建てられた。「それは、モアイがそれぞれの集落の祖先神であり、守り神だったからだと考えられる。人々はいつもモアイの目に守られながら生活していたのだろう」と安田は言う。つまり、集落ごとに安心・安寧を託すための巨像だったということだ。石切り場からは未完成のモアイ像が260体も発見されていて、中には200トン近い巨像もあったという。先細る文明にあって人々がモアイに縋り、祈るしかない状況へ追い込まれていった様が伺える。

石の民

《聖典クルアーン》で「石を彫った」と言えば、ファジュル章にも登場するサムード族である。彼らは、岩を穿って住まいとした。イブン・アッバースの伝えるところによれば、彼らは、住居も、貯水池も、そのほかの建物も、思うとおりに彫っていたという。至高なる御方は、《(岩)山に家を彫りこんだ》(高壁章74)、つまり山や岩や大理石を彫った最初のもの、サムード族であり、1700に及ぶ岩の都市を作ったとされる。(アッラーズィーの注釈、11巻154頁)。平地に宮殿を建てさせ、山に岩を彫りこませて安住させ、アッラーは彼らに言う《だからアッラーの御恵みを心に銘じて、悪を慎み、地上を乱してならない。》と。

ところが、彼らも、アード族や、フィルアウンと同様に、地上に悪を振りまいたのであろう。預言者サーリフが遣わされ、警告を発するも、一部の者たちは、これを疑って、《あなたがふりかかってくると言っているものを、私たちにもたらせ》と挑発する。すると、《そこで大地震が彼らを襲い、翌朝かれらはその家の中にひれ伏していた》(高壁章78節)。シュアイブを遣わされたマドヤンの民も、不義を行った者たちが襲われる「一声」によって《翌朝かれらはその家の中に、俯していた。彼らは、まるでそこに住んでいなかったかのようであった。丁度サムードが滅びたようにマドヤンは滅びた》(フード章94-95節)。

ひれ伏す(者)には、 جاثم の語が用いられている。動きを奪われて固まってしまう状態を指すが、自分たちの彫った家に潰され、瓦礫に挟まれ、落下物に打たれ、あるいは想像を絶するショックに命を奪われたのかもしれない。節度を越えれば、石が圧倒的な凶器となって根絶を余儀なくされる。

モアイに読む

石は恐いが人間の意志がさらに怖い。石に潰されることになったのは、信仰心を向ける先を間違えた結果だとみることができるからだ。モアイの人々にせよ、サムードの人々にせよ。イースター島では、モアイの見守りを、サムードの民は、自分たちの高度な技術を、それぞれ崇拝の対象として頼り切っていたということなのであろう。地球温暖化による森の破壊の食い止めは、世界が共有しているはずの喫緊の課題のはずだが、ウクライナとロシアの問題にしても、イスラエルのパレスチナ人に対する戦争犯罪にしても、あるいは、その現状に対して、人道上なのか、政治上なのか、ジャーナリスティックなそれなのか、あるいはまた経済的なそれなのか、あるいはただの野次馬なのか、それに群がる人々に、森林が滅亡してしまったり、地球上の食糧がなくなってしまったりとかと言った問題意識を感じることはほとんどない。

そこで横行しているのは、個人崇拝、国家崇拝、イデオロギー崇拝、拝金主義などの現在のモアイたちだ。モアイのために文明が滅びたことに森林保護の至上命題性は見ても、現在、目の前で次から次へと命が失われているのが、形を変えたモアイ信仰であることにはなかなか気づこうとはいない。この信仰のためなら、自分たち以外の民族や文明の根絶も正当化できる。イスラームの偶像崇拝の禁止には、卓越した知恵を感じるが、それが、個人崇拝に簡単にすり替わり、たとえば国家の正当性付与に悪用されていることは周知の事実だ。

人々の慈しみの心が干からびていく。森林消滅阻止の前に、人々の意志に潤いと慈しみの心を取り戻す。心に豊かな森を育てよう。この時代のモアイ像はすでに偶像としての形状をとどめてさえいないのだから。

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