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半生を振り返る。①

半生を振り返る

反省を効果的にするにはどうしたらよいか。
依存症的とも言える消費行動をどうしたらスリップせずコントロール下におけるか。
意図したシャレではないが、答えは半生。
失敗の歴史を振り返ることにあるように思う。
そうすることで自分の金銭感覚に対する原体験など、考察できそうな気がする。

〜高校生

私は地元に馴染めず受験をして公立の中高一貫校に通っていた。
公立とはいえ、通学や教科書代にかなりのお金がかかる。
部活も初期費用がかかるものはダメだと言われ、運動部に入ることはできなかった。
私は不貞腐れて文化部の幽霊部員を決め込み、殆ど帰宅部で過ごした。

親からお小遣いをもらうことはなかった。
家におやつもなかった。
たまにもらえる500円のお昼ご飯代と祖父から不定期にもらえるお小遣いを浮かせて、友人と遊ぶお金を捻出していた。
同級生は大抵お金に余裕がある家柄の子たちだったので、羨ましさがやがて僻みに変わり、お金を持ったら一旦は自由に使ってやるぞ!と野心に燃えた。

子ども時代にお金がないことを経験した場合、私のように「闇落ち」するパターンと同じ経験はするまいと人生訓にするパターンと、二つあるように思う。
私はどうやら子ども時代から浪費家まっしぐらの思考回路をしていたようだ。

大学生

国立大学に合格。
しかしこれがまた家から遠かった。
通学に2時間かかり、おまけに通学定期が脅威の値段。
父方祖母の介護が始まり、一層おかしくなりはじめていた母は、朝に私がバタバタと支度をするのが癇に障り寝れないと発狂。
私は母方祖母の家に送り込まれた。
母方祖母に養育されるのは妹が生まれる前後の一年、そしてこの時。2回目だった。
母は母方祖母のところに私を送り込んだ後何もお金を出さなかったため(のちに聞いたところによると、母からすれば20歳近いのだからバイト代から祖母に生活費を渡せと言うことだったらしい。言われた記憶はないが)、母方祖母から毎日のように母にまつわる愚痴を聞いた。
私は母のことが苦手だったし、愚痴を聞けば聞くほど母への陰性感情は募る。
祖母の愚痴は始まれば2時間は軽く続くので、それを聞き続ける日々にも徐々に嫌気がさしていた。

そんな中、私に彼氏ができる。
彼は下宿をしていた。これ幸いと彼の下宿に泊まり込み、外堀を埋めて、食費を全面的に出すことと家事全般やることで居候させてもらえることになった。
企業からの無償の奨学金をもらい、アルバイトで荒稼ぎしていた私は、当時月に14万円近く自由にできるお金があった。
なんだ、私稼げるんだ。
使っても稼げばいいじゃん。

そう思った。
この時期は周りより数段羽振りが良かった。
人生初のモテ期も経験し、ノリにノっていた私は流行り物や友達との遊びに散財し、お金を使う楽しさにハマり、浪費家街道を突き進んだ。

社会人1年目

病棟で看護師をしていた。
看護師宿舎が破格の値段で、ほとんどが自由費だった。
夜勤が始まってからは給料がさらに伸びた。

生活はと言うと、勤務が終わっても次の勤務日にうまく立ち回れるかと不安が止まらず、精神を病み、腹痛が止まらずオムツをして働き、患者さんのオムツ交換をする謎の日々を送った。
稼いだお金は精神の安定に使われた。
自転車操業だった。
しかし新しい物好きの私は少額ながらNISAをしていたので、1年目を終えると同時に辞めるも、20万強なんとか残していて、退職金も出たため、次の転職の費用にギリギリ足りた。

社会人2年目から5年目

訪問看護で働いた。
黎明期に入職したため、みなし残業で言われるまま多量の業務をこなした。
私はとにかく仕事ができなかったので、裏で散々な言われようだった。
でも病棟よりはましだった。
誰よりも仕事をこなし、時にはセキュリティが入っていない支店に籠り、徹夜で業務をした。
上司に呆れながら指導される日々を繰り返し、時に情けなくなって社用車で泣きながら次の訪問、次の訪問をと繰り返した。
仕事というものはこなした業務量に比例して一定値まではスキルが上がるように思う。
いつしか私は「できる」側になり、教育係を任されるようになった。
何度も断ったが主任にもなった。
しかし、反骨心と精神の安寧のため管理者業務はほぼやらず、ケジメも込めて一年で退職した。

生活はと言うと、当初シェアハウスに入り、固定費を下げることは意識して生活していたが、給料日には残高3桁。
大学時代からの彼とは倦怠期を超えて老夫婦のようになり「他の子と恋愛してみたい」と言われ振られた。
漠然と結婚すると思っていたため、4年付き合った後の傷は深く、膿み、私は傷に蓋をするため依存先を増やす作戦に出た。
韓流アイドルや韓国コスメにのめり込み、No韓流No lifeと周囲に言いまくっていた。
大学時代の元彼は貯金が趣味で、貯蓄額が凄まじかった。しかし、お金を使うことを嫌がり寝てばかりの彼は、一緒にいても正直つまらなかった。
なんだ、お金あってもつまんない人生送ってんじゃん。
恨みもあってそう思った。私はお金を使って幸せに過ごしてやろうと思った。

浪費の拍車のかかりかたがすごかったので、私は副業で一年だけアルバイトをした。
その頃に例の半ヒモ元彼と出会い交際を開始する。
デート代をほとんど出す代わりに、貧乏デートを重ねていたが、ある日、シェアハウスにしていた家を娘家族に譲ると言うことで私は出て行かざるを得なくなった。
また別のシェアハウスに移ろうとしたが、半ヒモ元彼が、コロナ禍でデート場所に毎回困るし、どうせなら普通に家を借りてほしいと言ったため、彼の収入に応じて生活費を入れることを条件に1Kを借りた。
最初はほとんどもらっていなかったが、交際期間の最後の半年くらいは月に三万円ほどもらっていた。主任をしながらだったので、この時が所得の黄金期だった。笑
今思えばこの時貯金していたらよかった。
と言うのは後の祭りである。

社会人6年目〜社会人7年目夏

私は晴れて公務員になった。
中小企業勤めが続いていた私は初めてのステータスに酔った。
私は半ヒモ元彼をいざというとき養える土台を築けたと思った。
そして逆プロポーズした。
結婚するはずだった。
その秋、別れは訪れた。
反比例するように周りは猛スピードで結婚していき、私はいよいよメンタルの置き所がなくなった。

パワハラ上司にも苦しみ絶望した私は、ある日開き直った。
好きなように生きて、30歳の時点で金銭面で首が回らなくなっていたら命を断とう。
半分覚悟してクレジットカードでリボと分割を繰り返し、明日の自分が今日の自分より魅力的になることをテーマにお金を使った。
人は腹を括ると、より魅力的に見えるらしい。
アプリではかなり戦績が良かった。
するともっと自分磨きをと、免罪符をつけての消費が増大した。
おかげで今の彼に出会えたのは大きかったのかも知れないが。

そして、私は7月の終わり頃、短命に終わると思った恋愛が、結婚という選択肢が先にあるものになりかけていることに薄々気づき、自分の債務残高ときちんと向き合うこととなる。
彼への筋を通そうとしたが、彼が私と離れることを拒んだため、彼と本当は一緒に居続けたいという自分の気持ちに素直になることにした。
実家に戻ることを条件に、叔父に債務残高を肩代わりしてもらい借金の「時を止めた」。

30歳でゲームオーバーする人生ではなく、歯を食いしばり失敗を取り戻す人生を選択することになった。

これからのための分析

私が道を踏み外した原因について。
♯母との関係性含む生育歴
♯貧乏を経験した後金銭的余裕を味わい自分を過信した
♯仕事への不適合
♯失恋への不適合
♯依存先の増やし方を誤った
♯承認欲求(新しい目標や賞賛がないと生きる意味を見出せない)
♯マネーリテラシーの欠如

ざっと7つが浮かんだ。

長くなったのでこれらへの対策については次に回したいと思う。

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