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違う世界があなたの瞳に映る、その瞬間へ。


※虐待体験に関わる描写がちょびっとございます。いやだなと思ったら無理はなさらず。


 ちょっと先生について、書いてみよう。

 ちょっと先生について、書いてみようと思う。
 私がこの世界に根をおろす土台になってくれた、大切な人について。

 彼は一体、私の何なのだろう?

 シンプルに言えば、中学三年生の時の担任だった。以降も現在に至るまで、折につけささやかな交流をさせてくださる恩師。
 けれどこういうふうにまとめると、彼について何にも書いていないことになる。

 書きたいのは、例えばこういうことについてーーーポストに彼からの便りが届けば、その文字がもたらしてくれる安心感に胸がいっぱいになって、朝っぱらから泣いてしまう、とか。なんなら中学三年生の組替え、その一番最初のホームルームで彼が喋るのを聞きながらなんでか号泣してしまったこと、とか。そうやって、その存在がいつも揺るぎなく有無を言わせず私の背中を押してくれること、とか。

 そういう、サラッと言っただけではチンプンカンプンな顔をさせてしまう私の先生について、ちょっと、書きたい。

 

愛すべきぬらりひょん。

 先生は妖怪ぬらりひょんのような容姿をしている。パッとみてクセモノなのがすぐバレるし、本人もそれを取り繕うつもりがたぶん1ミリもない。見た目通り怖い。けれど子どもからの支持は絶対だ。何故なら彼は、嘘をつかないから。

 嘘をつかない。

 そのことが、子どもにとってどれほど稀有なことか。
 彼が人付き合いに於いて嫌われるか好かれるかのどちらかしかないであろうことは、当時の私から見ても一目瞭然だった。私に言わせれば、彼はつまり『劇薬』なのだ。
 本当に誰かの味方になりたいなら、ちゃんと誰かの敵になる覚悟が要る。薬になるためには毒と言われることも辞さない。
 先生は、そういうことを体現している人だった。間違いなく揺るぎなく子どもの味方になる大人だった。そして、私が人生で初めて会えた、信頼に足る大人、だった。

 
 しかし第一印象は最低だった。まずその、ぬらりひょんみたいな見た目が悪い。目つきも怖い。あとのもろもろは私に人を見る目が無かったのでしょうがない。

 彼が自分のクラスの担任だとわかった始業式の朝。自分の中学人生は本当に呪われている、と、私はただ項垂れた。
 中学一年、二年と、私の家庭状況は最悪で、成績だけは落とさないものの、私は首の皮一枚で不登校と呼ばれずに済んでいるような出席状況だった。
 日々のどこにも居場所はなくて、学校に行くパワーがない日は大抵、野原や公園でぼんやりしていた。両親の関係性は記憶の限り常に不安定だった我が家だけれど、中学時代はそれがもう、コップから水が溢れるように顕著になって、父のふるう暴力から母がパッと逃げだして帰ってこなくなる時期が度々あった。
 中学三年のその四月も母親は絶賛家出中。私のメンタルはほとほと擦り切れていた。
 その矢先にコワモテの、全体朝会でもロクに声を発さない、怖い顔の変な先生のクラスになってしまった。端的に言って絶望だった。


 私は知らなかった。人生を変える一年の始まりが、そんな風に訪れたことを。


 「俺はお前たちを大人として扱う」
 始業のホームルームで先生はそう言った。
「だからお前たちには、そういうつもりでいてもらう。これから一年間、お前たちのやることの責任は、全部俺にある。なんでかって、お前たちは俺の受け持つクラスの生徒だからだ。なんで俺が担任かって、そんなのは運だ。くじ引きで、最後に残ったのがお前らだった。だから、お前たちの責任者が俺っていうこの縁自体は、諦めろ。そうなってる。ただし、責任は全部ちゃんと取る。これは、俺とお前たちとの、大人としての約束だ。おまえ達、だから、何をどうやるか、ちゃんと考えて動けよ。大人っていうのは、そういうことだ」
 全体朝会の舞台の上からはひとつも声を出さなかった先生は、教室では雄弁になった。そして、不思議なほどに、言葉のひとつひとつがおなかの底へ落ちてくる、そんな声で喋った。
 その瞬間から私は、先生に泣かされっぱなしの人生を歩むことになる。
 どうしてこの人の声が言葉が、体の奥底まで落ちてくるのかわからない。どうして自分が今、涙ぐんでしまうのかもわからない。けれどこれだけは…わかった。

 これはずっと私が欲しかったものだ。絶対的な、一方的な、信頼。
 この大人は私のことを信じてくれる。私が言うことを、言葉を、ちゃんと聴いてくれる。

 どうしてだかそれだけはハッキリとわかった。

 先生の声は、そういう力に満ちて、たくさんのガードを立てて閉じていたはずの私の体の真ん中までやわらかく降ってくるのだった。誰にも触らせるつもりがなかった場所に、音もなく触れた。
 そうしてそこから先、いつも、ずっと。たくさんたくさん積み上げた心のガードを、壊しも否定もせずに入ってくることができる彼の言葉を、その力を、なんと呼べば良いのか。
 大人になった今も、私はまだよくわかっていない。


「お前、こんなもんじゃないだろう。」

  彼はモノ作りをよくさせる先生だった。生徒によく喋らせ、よく作らせ、よく遊ばせ、よく課題を出す。
 一番最初の課題は、自己紹介をB4用紙一枚に書いてくること。様式はない。自由に描け。
 そう言われて。
 ニッカーと笑う太陽の絵をクレヨンでびやーっと描いた。そうして、ありきたりの基本的な項目を並べた。


 当時の私は、世の多くの中学生がそうであるのと同じように随分とクサっていたので…何かを書かされる、作らされるのに、ほとほとウンザリしていて。正直、どうして良いのかわからなかった。

 体中を、家族への呪詛が渦巻いているのに、そんなことはおくびにもださずに健康で善良なフリをしなければならない。言葉も絵も感情も…私の持っているものは何も、私を助けてくれなかった。
 ソツのないことを上手に並べれば大人たちは安心するのだ。誰も不幸にしない代わりに誰も喜ばない、そんな制作物を作るのはお手の物で、私はもうそんなものを作る自分にも、そんなものに笑ってみせるまわりの人々にも、失望しきっていて、だから。
 
 そういう紙いちまいを持っていった私に先生が告げた言葉が、冒頭のそれだ。
 一瞬、カッとなったのを覚えている。怒りとも、恥ずかしさともつかない熱いものが目の内側を走った。そしたら彼はこう続けた。
「もっと本気でやってみろ。俺はな、ちゃんと見るぞ。…お前はもっとできるだろう、だから。提出は明日で良い。もう一回、描いてこい。」

 突っ返されて、職員室から教室へ戻る渡り廊下、沈んでゆく夕陽の金色が綺麗に見わたせるあの渡り廊下で。あの時私は何を思っていただろう。悔しかっただろうか。嬉しかっただろうか。その両方、だったのかもしれない。
 繰り返しになるけれど、やっぱり未だに不思議に思う、先生は何を見てあんな事を言ったのだろう。生徒資料に載っている私の情報の、何を見て。

 家に帰って、怪盗紳士の絵を描いた。
 蒼く翻るマントを色鉛筆でグラデーションにして。はためくその色は、背景の月と星が光る夜空に溶かして。“フフフ…知りたいかね?私について…”とタイトルラインを引いたら、後は。
 とまらなかった。体と心が、鳴り響きながら指先に乗る。

 私の言葉で言うなら『狂わないために』ノートやプリントの裏に描いていた絵や言葉達。それらが、そんな手酷い言葉ではなく、まっとうな、あたたかい居場所をもらった夜。
 書くこと、作ること、創造することとと、永遠に解けない力で結んでもらった夜だった。他の誰のためでもなく、自分が作りたいものを作れることは力なのだと、言葉さえも使わずに教えてもらった夜、だった。


 もうひとつ、ハッキリと“助けてもらったな”、と思う事がある。



 何も心配することないもん。そうだろ?
 


 彼はオリジナルの200文字詰めの小さな原稿用紙を配って、折に触れミニ作文をよく書かせた。始めの頃にこう言った。
 「どんなことを書いてもいいよ。ただし、慣れるまでは約束ごとを二つ出そう。まず、自分のきもちを一個は入れること。それから、読んでる人に何か問いかけてみること。そして、もし探せたら。良いな・良かったな、と思うのはなんだったか、書いてみろ。そうやって考えたら、だいたいマスは埋まるから。」
 国語教師らしからぬ、そして実に彼らしい言い方で。
 けれど確かに、その約束…というかコツ…を踏めば、原稿用紙はスルンとひとつのまとまりになるのだった。小さくても原稿用紙だから、書き上げた感はひとしお。

 そうやってミニ作文を書くということを我々が飲み込み始めた頃、やってきた授業参観のその日。15歳の私は、自分の家の現状を言葉にすることを選んだ。
 先生が開いた私の表現のドアは、もう留まることなく自由に開かれたままで、だから私はもう本当にまっすぐに、今の自分の一番生きた言葉を書いた。書いてみたかったのだと思う。
 タイトルは「ウチには今お母さんが帰ってきません」。
 
 完全に、自分の親が来ないからこそ、できたことだった。
 「ウチには今お母さんがいません。時々そうなります。理由はいろいろあるんだと思います。でもとりあえず大変なことは、ご飯を自分たちで作らないといけないことですーーー」
 
 良いな・良かったなと思うこと…。
 私の現状に、救いはひとつもない。救いを見いだすとしたら、自分しかなかった。

「ーーー母がいつ帰ってくるか、私はよくわかりません。けれど、せっかくなら、今のうちに料理の腕を磨いておこうと思います。だって、そしたら自分のためにもなるし、帰ってきた母をちょっと楽にしてあげられるから。みんなはおうちで作る料理はありますか。得意なのがあったら、教えてください。」
 そうやって締めた。拍手をしっかりいただいて、席についてから、体中が熱くて、目頭がブワっと熱くなったのをのを、忘れられずに覚えている。

 家出の理由がDVであるなんてことは書かなかった、母親が家にいないと言葉にするだけ。それだけでも私にとっては大きな大きな解放だった。
 家中、そして体中に詰まった毒から、そうやって自分の言葉で、『良かったなと思うこと』を抽出できた。その実感は、…今ふりかえってみると、私にとっては自分の細胞の配置を自分で組み直せたような、そんな高揚だったのだと…思う。
 授業参観が終わってあと、先生はふわりと私の傍へ来た。そうして一言、「お前は。凄いな。」とだけ、言った。

 
  良いな・良かったなと思うことはなんだったか…。

 先生が、上っ面が上手な先生だったら。私はそんなもの見つけられなかっただろう。見つけようとも思わなかっただろう。
 彼が、心の芯から語りかけてくれて、何を言っても揺るぎなくそこにいて聴いてくれる。そういうことを間違いなくやってくれる人だったから。だから。
 まわりの誰のためでもなく、私は私だけが思う『良いな』を失望の中から取り出せた。あの経験は、今も揺れることなく私を支えている。自分のそういった態度が、あの時から始まった、あの時に、それを始めることができたのだってことを、私はこれを書きながら発見した。

 …話を元に戻そう。
 まぁつまり、そんなふうに。私の家庭事情はクラス中に筒抜けだった。


 新学期というのは、今考えるといろんなハードルが目白押しだ。
 授業参観のお次にはアレがあった。家庭訪問。

 主に母親と担任と子どもと。ご挨拶がてらにというかんじでお家に担任がやってくる日。当時は今みたいに簡易な感じではなくて、担任のために応接間は整備され、ケーキとお茶が準備されるまででワンセットだった。授業が早めに終わるぶん、なんとなく浮き足立つその行事。
 ただし我が家の母親はまだ家出中で、家のことは私か姉で切り盛りしていた五月前半。
 実際問題、家庭訪問をどうしたらいいのか私は分からずにいた。

 そういう事ばかりだったな、と大人になった今は思う。
 どう解決したら良いか分からないことの、選択肢も方向性も何も与えられず、けれど結果だけは常に脈絡もなくすべてこの体の上に落下する。
 今晩の夕飯に何を作れば父に殴られないだろうか?母はこのまま帰って来ないのだろうか?姉は今夜私を助けてくれるだろうか?
 目下、怖くて逃げられないことばかりの日常だったから、家庭訪問なんかはどうにでもなれと、思っていた、多分。どうでも良過ぎて思考にものぼっていなかった。

 そうして。
 たぶんその授業参観と家庭訪問期間の間のどこかの、ある日。おそらく家庭訪問の日程調整真っ只中だったと思う。
 先生は廊下ですれ違いざま、ポロリと私に告げる。
「お前んとこの家庭訪問はナシで大丈夫だからな、さや。」
 へ。いいんですか、それで。そう言ったら、本当に何でもなさそうに言う。
「お前、何も心配することないもん。そうだろ?…ふふ、大丈夫よ。」
 去ってゆく、先生の光る後頭部を見ながら。私は自分でもびっくりするほどに、自分がホッとしているのを、感じた。そうしてじわじわと、誇らしさのようなものが、腹の底から背筋を巡ってくるのも。

 お前、何も心配することないもん。大丈夫よ。
 お前、何も心配することないもん。大丈夫よ。……

 何も。何も、大丈夫じゃなくても。あなたが、先生がそう言ってくれるなら。
 そう思った。実際本当には何も大丈夫じゃなかったはずだ。けれど、何かを、大丈夫にしてもらった気がする。あの瞬間に。

 察するに…先生は何かしらのアクセスを母ととっていたのだろうと思う。教職同士の彼と母は同僚として働いていた時期もあったらしいので。母の勤務する学校に、電話一本。想像するのはそんな感じ。


 先生は、つまりそういう人だった。そういうふうに、一番必要なことを、必要なぶんで。
 本当に目の前の人を観て、必要な助けを差し出すことができる、そういう、大人だった。



生きてゆくのに必要なすべてを

 おそらくそういう、他の誰も成し得ないような関わりを、一人一人の生徒と持ってくれる大人だった。結果、クラスメイトそれぞれが、『あなたはこんなステキな人なんだね?』という輝き方をした。だから、その一人一人のことを大好きになるのにそう時間はかからなかった。
 人を知るということ、関わるということの面白さを、いつしか私は覚えてゆく。
 「日直」というクソつまらないと思っていたシステムがウチのクラスでは、私たちを深く「知り合わせる」システムになった。
 毎日日直がいて、この二人組には朝夕のホームルームの司会と日誌が課される。このホームルームと日誌がサイアクで…要するに、最高だった。

 日直の主な仕事は二つ。一、朝夕のホームルームでスピーチをしすること。ニ、白紙のB4用紙に自由形式で日誌を提出すること。提出期限は、日直だった日から数えて三日以内。

 これを聞かされた中学三年生39人の顔を想像してみてほしい。

 先生はぬらりひょん似の顔をひとつも動かさず、こう続ける。
「話すことはなんでもいい。朝ごはんは味噌汁とごはんと納豆でした、とか、学校来る途中で犬とすれ違いました、とか。…それで、慣れてきたら、日直がその後もう一人、即興でスピーチを指名できるようにする。だからアレだな、毎ホームルームで4人のお話が聞けるってことだ。」

 スピーチする側のルールはただ二つ、自分のきもちを一つは入れること。聞いている人にむけて、最後に何か問いを投げかけて終わること。
 聴く側のルールもただ二つ、話している人を見て聴くこと。話のおしまいには拍手すること。

 絶句する生徒を見渡して、彼は不敵にちょっと笑った。
「できん、て思うんだろ?やってみろ。お前たち、…バケるぞ。」

 結論から言えば、ウチのクラスのホームルームは、他のクラスが10分とかで終わるところを延々60分とかやるので有名になった。

 バケたのだ。

 朝は時間に限りがある分、帰りのホームルームはケツがないも同然で。スピーチが興にのれば4人どころでは終われずに、延々延々とすさまじい話芸が展開される。他所のクラスの子が、一緒に帰る友人を待って廊下にいる。結局その子のたちも文句を言いつつもスピーチに聴きいる。
 語りに個性が出る。題材の選び方にその子の眼差しが伝わる。そうやって聞けば、どの子のどのスピーチも、いつも味わい深く、凄く面白かった。そのすべてが愛おしかった。
 日誌も日誌で実に彩り豊かに、個性を撒き散らして積み重なってゆく。先生は、時に立体工作になったりするそれをとても丁寧に張り合わせて冊子にし、クラスの棚に並べた。

 そうやって私たち39人は、本当に仲良くなった。仲良くなった中学三年生の集団なんて、向かう所に敵は無い。あらゆるクラス対抗のイベントを、私たちは骨の髄まで楽しみ尽くしててっぺんを取った。
 …けれど一番得難かったのは、『居場所』というものがどういうものか、たぶん多くのクラスメイトが体験的に知ったということだと思う。
 背が低い子、大きい子。脚の速い子、数学が凄い子、喋らせたらピカイチな子、絵が素敵な子。誰が優れていて誰が間違ってるかなんて、もう思考の俎上になかった。一人一人が、自分を発揮していたから。
 もちろん、『劇薬』である先生と、ソリの合わない子も居たはずだ。私にとって彼は人生を掬いあげてくれた存在なので、そこを語るのはもう、ただのファンガールの惚気話になってしまうのを許してほしい。
 それでも、あんなふうに、人間の面白さや美しさを、質と量とで注ぎ込まれたことは、どの子どもにとっても特別な意味を持ったと思う。私の人生はだから、あそこで変えられてしまった。生きていくのに必要なことを、あの教室で。すべて、もらってしまったのだ。

  
 卒業してもう先生にも元クラスメイトにもなかなか会えなくなって、それでも心の何処かにはいつも、あの一年の記憶があった。
 パニック障害を発症して大学を中退した私を支えたのは、あの一年の記憶だった。
「今死んだら、あの時“生きてて良かった”と思った自分を裏切ることになる。それだけは、他の何を裏切っても、それだけは、できない。」
 その感覚だけが、崖っぷちで私を引き止めた。
「先生に逢えたというラッキーさだけで、たぶんこの後の人生は保証されたようなもん」
 やってくるパニック発作と解離に支配される体には、そんな冗談が御守りになった。
 パニック障害と鬱を生き延びて、幾つかのターニングポイントを経て、やがてその日が来る。性的虐待の事実と対面する日が。

 体験としての『居場所』は、そうして、私が長い長い虐待からのサバイバルを生き抜くために根をおろせる『安全基地』になった。中学三年生の一年間は、私にとって『生存モデル』になったんだと思う思う。
 こんな人がいるなら。
 こんな場所があるなら。
 こんな仲間がいるなら。
 こんな時間があるなら。
 ならば生きていける気がする。生きていても良い気がする。死ななくても大丈夫な気が、する。そんな気にさせてくれる『生存モデル』。

 それは、家族が殴られなくて良いように、母が飛びだしていかなくても良いように。息も、声も、体も、捧げられるすべてを父親の自由にさせてきた私が、やっと手にした『私自身の場所』だった。私が何者であっても、ただひとり私自身を呼んでくれる声。
 ーーーさや。おいでよ、ここへ。

 おいでよ、ここへ。



 さて。



 今…これを書きながら、ちょっと困ったなと思っている。
 ここに私は「明日の話」…要するに、希望の話を書きたくて、言葉を並べているのだけど。

 希望ではなくない?
 再現性ゼロじゃない?
 再現性というのはつまり、まったく赤の他人の読み手であるあなたにとって、参考になれる何かしらの情報があるかないかでいうと…ゼロだよね…?ということに気づいて。困っている。

 だって私は、先生とクラスメイトとあの一年を過ごせたのは運でしかなかったと思ってるから。

 「出逢えて感謝」なんて言葉は嘘っぱちだと思っていた。愛想も別に良くなかった。神様も信じていなかったし、学校の事はおろか全人類の事が嫌いだった。(今だってそうじゃないとは言えないかもしれない)
 小田和正の『あなたに〜あーえて〜」っていう名曲が、本当に心こもった言葉として聴けるようになったのは中学三年生のその時だし、何か嫌なことがあっても何処かにはきっと隠れている美しいものを必ず見つける、という気概はあのクラスで育ててもらったものだ。

 運でしかなかった。そんなものに、人生の一番根っこを支えてもらっている。
 
 でも、だからって、あなたに、読んでくださっているあなたに。「運が良ければそういう出逢いもあります」というのはちょっと違うだろうと、思う。

 笑顔を絶やさなければ?人生に感謝していれば?祈りを丁寧におさめていれば?
 …それが、あなたがあなたを幸せにする方法なら、そうしていて悪いことは一つもない。
 けれど、あなたが今、何か掴めるものを求めて手を伸ばしているのなら、「そうしていれば運気があがる」みたいな言い方は口が腐っても言えない。
 私はそうじゃなかったもの。
 運でしかなかった。そしていわゆる「運を引き寄せる」なんてこととは全然かけ離れたところに居た。

 私に言わせれば、微笑んでいても泣き喚いていても、世界を呪っていても自分を殺そうと躍起になっていても、夜は来る。朝も来る。全く関係なく季節は巡る。そういったことにあまりにも関われないから、仕方がなくてせめて自分くらいはと、僅かの自由を行使したくてその呼吸をとめてみようとする。
 もしかしたら今この瞬間、そうして日々を過ごしているかもしれないあなたに、言える確かなことなんて何にもない。
  
 でもなにかあなたへ遺しておきたい。だって、…生き延びたから。

 
 

 去年の終わりから、先生と定期的に会えるようになった。年に一度二度、互いの誕生日や年末年始の葉書を交わす程度の交流を15・6年続けていたので、これは急展開だ。
 完全なるおじいちゃんになった先生は、けれど、ちっともブレずに、彼だ。
 歳とって。と自分を卑下するようなことをうそぶくけれど、自虐ネタは昔からピカイチだったし、その眼光の鋭さも、言葉に流れる体温もちっ…ともたわむ事がなく健在なので、私は嬉しくって子犬のような顔になる。
 人付き合いというのが大嫌いで、お世辞は死んでも言えなくて、だけど人間のことが大好きで、人の心を楽にさせる言い回しを言葉を、鷲のような鋭い目つきのまま花束のように投げかけてくれる。聴かせてくれる昔話から察するに、どうやらこの人は子どもの頃からそうらしい。きっと死ぬまでそうだろう。
 嘘がつけず、そのせいで人に疎まれて、やわらかな場所を雨風に晒してなおやわらかさを損なわない方法を自力で磨いて。そんな自分を諦めながら、愛している、そんな先生が私は好きだ。
 劇薬で、ぬらりひょんで、誰よりも格好いい背中を見せてくれる人。生きてゆける世界をくれた人。
 

 …そういうことなのだろう。

 彼は、私に生きてゆける世界をくれたのだ。 

 本の中に友達をつくれること。色も滲みも鉛筆でひく一本の線も、言葉になること。学ぶということの深さ。笑うことの素晴らしさ。隣にいる子の心を想うこと。眼差しひとつで、相手を受けとめてあげられること。一緒にいたら嬉しいということ。
 人に触れること、触れられることは、…きっと、怖くない、という希望を。

 人の数だけ、世界はあるのだと私は思う。
 あれは運だった。でも。

「運」以外の言葉を使いたい。


 あなたが今いる場所が、あなたに、“死ぬことでしか生きられない”と感じさせる場所ならば、“どうか”と私はここからあなたへ言う。

 どうか、違う世界があなたの瞳に映る、その瞬間へ。

 人の数だけ世界はある。
 あなたが生きていけると思える世界を、あなたに見せてくれる人はきっといる。
 それは、人ではないのかもしれない。触れない相手かもしれない。
 そんなふうに、ただ、きっといる。今目の前にあるもの以外を、見に行ってみてほしい。それを自分にゆるしてほしい。出逢ってみてほしい。
 そうするのには、あなたが人間を愛している必要も愛されている必要も、ない。誰の許可もいらない。
 
 だって違う世界が見えたなら、きっとそれは忘れられない景色になるから。

 それが見えたならあなたはきっともう戻れない。
 だから私はそれが…あなたの目に映り、あなたを動かしうる“違う世界”が、あなたがあなた自身を大切にできて、自分も他人も愛おしく想えて、明日へとその背中を押してくれる“世界”であることを、切に願う。そうではない可能性だってあると思うから。
 そんな教科書みたいなことを思ってる。生きていけると思った世界が教師のくれたものだったせいかもしれないね。でも、ただしいことのつもりでそう思うんじゃない。
 それがいちばん、あなたを生かしてくれる世界だと思うから、そう言うの。
 でも幾つでも違う世界を試したら良いと思うよ。たくさん、たくさん、出逢っていけばいいよ。

 だって違う世界が見えたなら、きっとそれはもう忘れられない景色になるから。

 
 忘れられないことを責めないで。
 その時、その新しい世界にむけて自分が動きゆくのをどうか、引きとめないで。
 自分の心が、魂が鳴るのを、どうかやめさせないで。そうやって、すこし生きてみてほしい。
 生き延びてみた私から、…ちっともそんなつもりもなかったのに、生き延びてここにいる私から、言葉にしておくよ。
 そう悪くない、から。
 あなたが、生きていけるかもしれないという気がしたなら。進んでみて大丈夫だよ。生きられるかもしれない、って思ってしまう自分を責めないでおくれよ。
 大丈夫だったよ。悪くなかったよ。世界って以外と優しかったよ。まるで異次元みたいだったよ。

 あなたが今いる世界があなたを生かさなくても、それが全部じゃない。

 それをどうか知っていてほしい。

 違う世界は隣に、あなたのすぐ隣にあるから。

 そうしてもしも、忘れられないその景色があなたを生かしてくれると、本当にそうだと、思えたなら。
 その景色がやがて失われてしまったとしても、その景色は永遠にあなたものだということも、申し添えておくよ。忘れられないのと同じに、なくならない。だからこわがることはひとつもないよ。ただのひとつも。

 失った景色と似ているものを追いかけていけば良い。同じニオイのするものに寄り添ってみたらいい。一度もらった信頼とか愛情とかは、何度でもあなたへかえってくるしあなたを照らす。次の場所へと、あなたを連れていってさえくれるだろう。
 

 ーーーおいでよ、ここへ。

 じかにそう言われたわけじゃない。けれど揺るぎなくそう云ってもらえた、あの一年を抱きしめて、それを手繰って、幾つもいくつもそういう優しい、信じられるものに頼ってどうにか生きてきた私から、あなたへ。

 どうか。違う世界があなたの瞳に映る、その瞬間へ。

その、瞬間へ。
 

 

 月に一度、先生の家に行く。彼の蔵書をいただきに。

 先生は、年相応に薬を飲んだり、耳が遠くなったり、テレビの前で寝ていたり、忘れっぽかったり、グチっぽかったりする。歳とってカッコ悪い、って自分でうそぶいたりする。

 ねぇ本気で?って思う。…カッコ悪いわけ、あるかよ、先生。

 あなたが強いのも弱いのも全部知ってたよ。全部見せてくれてたじゃん。嘘なんか一個もつけないで、いつもいつも本当しかなくて、今だってそうして、何も変わらずに。
 うたた寝から目覚めて、のんびりと顔を撫でる仕草も。美味しいもの、好きなものについて、流れるように喋るその勢いも。グチりながらもちっとも人を嫌な気持ちにさせないそのパリッとした気概も。人の心の奥底まで触れる声も。震えたり揺れたりする人の心の機微を、信じられない優しさで掴んで、文句は言うくせ何ひとつジャッジせずに、そのままで受けとってくれるその、距離感も。
 何にも失われてないよ…。全部ぜんぶが世界で一番格好良いままだよ。あなたはきっと、子どもの頃からそうで。
 死ぬときさいごの一瞬まで。ずっと、揺るぎなく。そうなんだと思うよ。


 私に、生きていける世界をくれた人は、そんな人です。


 さて、あなたに生きていける世界を見せてくれる人は。どんな人だろうか。
 どんな世界だろうかそれは。
 どんなふうにあなたを、変えてゆくだろうか。

 
 その、瞬間へ。どうか。
 息をころしていても、目を閉じていても、入ってきてしまう空気のような、どうしようもなく美しい光を知ってしまう…その瞬間へ。

 

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